電動客車
電車
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 05:01 UTC 版)
電車(でんしゃ、英: train)は、鉄道車両のうち、電気を動力として自走する事が可能な客車や貨車の総称である。すなわち、客車や貨車そのものに動力が備わっており、機関車なしで自走可能な「電動客車」および「電動貨車」を指す。「電気列車」または「電動列車」とも呼ばれる。
注釈
- ^ 充電や集電(給電)を必要とせず、燃料給油のみで自走できる事から電車とは区別される。同様の機構を持つハイブリッド自動車が電気自動車と区別されるのと同様。
- ^ 動力集中方式を含めば、2000年に運行を開始したフランスのTGVを基にした高速列車アセラ・エクスプレスが、トラブルも発生しているものの一定の成功を収めている。
- ^ シカゴとインディアナ州サウスベンドを結ぶサウスショアー線と、フィラデルフィアとノリスタウンを結ぶSEPTAのノリスタウン高速線。後者は1990年代に車両が小型の電車に置き換わっており、今日ではライトレールとしても扱われている。
- ^ 英語版ウィキペディアなど、英語圏ではこの種類の列車は"Push-pull Train"と認識される。
- ^ 専用機関車と言う考え方は日本でもAREBブレーキ化後の国鉄20系客車のような例があるため、むしろそのように取られる。
- ^ 但しこの長所は、動力集中方式であってもプッシュプル方式を採用することで得ることができる。
- ^ 戦後の日本では電力用の低圧三相交流電源を使用しているが、原理上は単相交流でも問題ない。
- ^ この誤用はかなり広まっており、司馬遼太郎の「街道をゆく」にも、オホーツク街道篇の札幌駅のくだりで「稚内ゆきの急行電車」という記述が登場する(司馬遼太郎全集64巻P127)。稚内へ通じている宗谷本線は2021年現在でもほとんどの部分が非電化で、もちろん「稚内ゆきの急行電車」が来ることはありえない。
- ^ 。また、若い職員を中心に、電車以外の車輌の案内に電車と言う職員も居り、知識としては考えれば正しく言うが、普通に話したりする時や、乗客への案内には電車と無意識に案内して居た。ただし、近年は非電化区間でも運行可能な蓄電池電車が普及しつつあり、これらEV-E301系・EV-E801系・BEC819系を運行する路線では誤用とはいえない。また、クルーズトレイン「TRAIN SUITE 四季島(E001形電車)」においても電車定義で非電化区間を走行可能なので同様である。
- ^ 出雲市駅付近の踏切で一畑電車を「電車」とし、山陰本線を「汽車」と表現している例がある[4]。
- ^ 渋谷駅の埼京線・湘南新宿ラインホームでは、どちらも通勤形の電車で運行される埼京線と相鉄線直通系統について、前者は「電車」、後者は「列車」として案内している[6]。
- ^ 当該列車は行き先が「札幌」とある様にトワイライトエクスプレス(「客車」列車)の接近表示である。
- ^ 日経新聞の取材に対し、広報担当者は「京阪電車」の呼称の由来について「明快な理由はわからない」としながらも、「京阪は愛称として『電車』を大切にしている」と説明している[7]。
- ^ 阪急電鉄は「阪急電車」の呼称を長らく使用していたが、「わかりやすい告知」を目的として1990年代に車内アナウンスを含む社内での呼び方を「阪急電鉄」に統一した。ただし、小説『阪急電車』のタイトルに見られるように、市井では未だにこの呼称が定着している[7]。
出典
- ^ a b 福原俊一『日本の電車物語 旧性能電車編』JTBパブリッシング、2007年、35頁。ISBN 978-4533068676。
- ^ 配給米運搬に市電利用の東京(昭和16年10月12日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p83 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 北朝鮮の車窓から 「スピード出せない」「先頭車両がなぜか消える」独特の鉄道事情:朝日新聞GLOBE+
- ^ a b “鉄道“超”基礎知識(1)「汽車」「電車」「列車」の違いとは?”. 伊藤博康のテツな“ひろやす”の鉄道小咄. 中日新聞プラス. 中日新聞社 (2017年8月15日). 2018年1月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月26日閲覧。
- ^ 道路標識一覧 (PDF) 、国土交通省。
- ^ 「列車がまいります」「電車がまいります」同じ駅で表記使い分け なぜ?(画像5枚目) 乗りものニュース、2021年5月20日(2021年9月6日閲覧)。
- ^ a b c 岩井淳哉 (2015年10月31日). “私鉄の呼称 関西なぜ「○○電車」(とことんサーチ)”. 日本経済新聞. 2021年8月6日閲覧。
電動客車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 10:03 UTC 版)
1 - 3 1909年12月認可により、東京の天野工場で製造された2軸電動車である。前面は3枚窓で中央窓上に行先幕、同窓下に前照灯を装備している。出入り台は開放式で、側面窓は8枚、屋根はモニター形である。定員は38人、自重は5.3t、電動機は25PS×2で台車はブリル21Eである。集電装置はポールによる単線式で、2基を屋根中央部に装備している。 第1次大改番時には番号の変更はなく、1924年(大正13年)度に除籍されたものと思われる。 1, 2(?) → 7, 8 1911年(明治44年)に、後述の電動貨車1両とともに天野工場で製造された2軸電動車である。車体等の詳細は不明であるが、定員は37人、電動機出力は36PS×2に変更されている。1914年(大正3年)に次項の4 - 6が製造された際に、7, 8と改められている。 しかし、前述のとおりとすると、同じ電動車である前述の1 - 3のグループと番号が重複するものがあったことになるが、これは開業したばかりの鉄道線に軌道線用として新造したの2両(4, 5と付番されていた?)を振り向け、鉄道線用の1, 2としたのではないかと鉄道史研究家の白土貞夫は推定 している。第1次大改番時には、他の車両が7, 8と付番されていることから、それまでに処分されたものと考えられる。 4 - 6 → 6 - 8(2代) 1914年(大正3年)に汽車製造で製造された鉄道線用の2軸電動車である。定員は37人、自重は7tで、車体はモニター屋根の角張った車体である。電動機は37PS×2で、台車はブリル21Eである。第1次大改番では、6 - 8(2代)となった。昇圧後は使用停止となり、1932年(昭和7年)7月12日付けで廃車、解体された。 10 - 12 → 9 - 11(2代) 1917年(大正6年)に天野工場で製造された2軸電動車である。認可書類には大正3年製と同一使用とする旨の記述があるが、車体は次項の13 - 15とほぼ同一で、車体幅が若干相違する程度である。定員は37人、自重は7.5t、電動機はさらに強力となり、50PS×2である。 昇圧後は使用停止となり、1925年(大正14年)8月22日付けで長州鉄道(後の山陽電気軌道)に譲渡された。 13 - 15 → 12 - 14(2代) 前項の10 - 12とともに汽車製造で製造された2軸電動車である。定員は44人、自重は8.5t、電動機は50PS×2である。 昇圧後は使用停止となり、伊那電気鉄道の傍系会社であった銚子鉄道(現在の銚子電気鉄道)の電化開業用として譲渡され、同社のデハ1 - 3となった。その際に、松島工場において相当の改造を受けたものと思われ、譲渡前後で車体形状は大きく異なる。 ホ1 - ホ3 飯田までの延伸開業に際して、1920年(大正9年)6月設計認可を受け、日本車輌製造東京支店で製造された、伊那電気鉄道初のボギー車である。定員は80人、自重は21t、前面は軽いRを設けた3枚固形窓で、側面窓配置は両端に出入り台を設けてその間に窓が15枚ある。出入り台には、折戸を設けていた。電動機は50PS×4で、空気制動機を装備していた。 昇圧後は、番号はそのままで電装解除のうえ電動車による被牽引専用の後付付随車として使用されたが、1926年(大正15年)4月9日付けの改番(以下「第2次大改番」という)により、サハフ300, サハフ301,サロハフ200に改められた。以降の経歴については、昇圧後の車両の節で記述する。
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電動客車
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1-3 定員32名、連結運転が可能。最大長25呎、台車はブリル21E、電動機は2個 6 定員32名、連結運転が可能 7-9 定員28名、連結運転は不能。京都電灯越前線より1922年1月に廃車された6、9、10の車体と11、12の台車を譲り受けた
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