遭難事例とは? わかりやすく解説

遭難事例

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:45 UTC 版)

平標山」の記事における「遭難事例」の解説

1950年昭和25年11月4日東芝山岳部の3人と三井鉱山山岳部の3人の2つグループ合わせて男女6人が山頂付近遭難したそのうち5人が死亡し1人生還した東芝山岳部はY(当時23歳)、S(当時22歳)、O(当時32歳)の3名パーティ三井鉱山山岳部男性のOと女性A、Hの3名パーティ。他に長岡山岳会日本光学)の2名パーティが、この年整備され谷川連峰縦走コース利用して谷川岳の肩の小屋から平標経由三国峠の麓の法師温泉まで縦走計画していた(明治節飛び石連休利用して山行)。東芝パーティ11月2日谷川温泉から入山して天神小屋一泊し3日に肩の小屋宿泊三井パーティ3日にマチガ沢から入山して同じく肩の小屋宿泊。既に三井パーティのAに疲れ見られたが、リーダーのOは同行パーティがあることや、この年10月に平標小屋新築されたこともあり楽観的だった前日東芝パーティ見かけ天神小屋小屋番の半田証言によると、装備詰まった貫目(約26kg)近いザックに対して足元に対して備えが十分ではない軍隊靴だったという。土合山の家主人中島別件訪れていたマチガ沢で三井パーティとすれ違っており、その時装備少なさなどから山歩きに無理を感じ危ないので引き返すように声をかけていた(この日には土合から8組の登山者がいたが、他の7組主人勧告によって山行中止していた)。11月上旬この辺りの山域はいつになってもおかしくなく、積雪こそ消えてはいたが既に10月23日初雪訪れた後だった。 長岡パーティ4日朝の6時に肩の小屋出発次いで7時過ぎに三井パーティが、やや遅れて東芝パーティ出発した当日の朝は好天だったが、刺すような寒さ気温は冬に近かった長岡パーティ東俣ノ頭で昼食をとる頃からがわいて天候崩れ出した長岡パーティ追い付いてきた三井パーティとしばらく行動を共にした。やがて長岡パーティピッチを上げ先行したその後計画どおり法師温泉下山している)。 三井パーティが仙ノ倉を越え、平標との縦走路差し掛かった時には冷たい雨降り出し周囲は濃いガス視界が効かなくなっていた。しばらく進んだところで一人が道の傍ら新しい「仙ノ倉・平標」と書かれた矢印のついた指導標発見する。しかしその矢印向きは今通ってきたはずの仙ノ倉を示していた(実際この道標は設置場所間違えて立てられていた)。指導標とおりなら平標を既に越えており、主稜線外れて尾根迷い込んでいる可能性考慮した3人は来た道を戻って平標のピーク探すことにした。東芝パーティ追いついたが、同様に地形見失っていた。6人は山中往復繰り返しているうちに体力時間消費してしまった。時間は既に午後4時近く日没迫っていた。一行が再び鞍部まで来た時、古い指導標木片に「小屋まで2粁」の文字認められ改め最初道標間違い気付く。しかしここで安心したことで2つパーティは再び別々になってしまう。 日が暮れて夜になり、風雨の中、既に疲労ピーク達していたAをOが担いで進んだ巻き道山頂への登山道分岐地点まで来た時、Oは小屋位置確認のために地図取り出そうとして背中からAを下ろしたが、Aは既に意識がなく、そのまま登山道から20メートルほど離れた笹原の中の窪地まで滑り落ちていった。2人どうにかしてAの体を登山道まで担ぎ上げようとしたが、およそ2時間かけて登山道まであと一歩地点に来たところで再び滑り落ちてしまった。Aの意識その後も戻る事なく、やがて眠るように死亡した午後9時頃)。Aが死んだことでOの気力尽きる。Hは必死呼び掛け、ゆすり起こしたり頬を叩いたりするなどしたが、いずれ応答途切れがちになり、夜半過ぎ4日未明)にOも息を引き取った。Hは荷に残っていた生米をかじり、眠ってしまわないように立ったままでありったけの童謡唱歌戦争中軍歌など覚えている限りの歌を泣きながら歌い続けたいつしか止み夜空に月が浮かんでいた。夜明けと共にHは再び歩き出し午前7時頃に平標小屋辿り着いたが、そこに東芝パーティはいなかった。Hは東芝パーティ山中ビバークし後で小屋やってくることを考えて書き置き残し縦走路歩き通して午前11時頃に法師温泉下って救助求めた4日午後8時頃、救援部隊によってAとOの遺体収容された。東芝パーティは、捜索隊によって7日朝に鞍部から300mほど登った群馬県側で、3人とも持っていた野営装備を使うことなく座った格好凍死しているのが発見された(稜線上で群馬県側のほうが風当たりが強いため、体力消耗激しい。三井パーティのHが夜を明かした窪地偶然に新潟県側だった)。 なお、初冬春先でも冬型の気圧配置であったり、厳冬期では強い北西季節風が吹くのが谷川連峰では常である。従って風に晒されるのは北に面する新潟県側となる。稜線低体温に繋がる恐れのある際は群馬県側の岩陰窪地身を潜める。そこで体温回復図り、風の合間を縫って移動するか、装備によっては停滞する事件の後有志によって現地遭難碑が、また東芝当時商標だった「マツダランプ(後に東芝ランプ)」の銘がついた道標遭難防止のために谷川岳縦走路各地立てられた。群馬県新潟県谷川連峰縦走路上に越路避難小屋(毛渡乗越)、大障子避難小屋(大障子頭)、茂倉避難小屋茂倉岳)、蓬ヒュッテ蓬峠)といった山小屋整備したり、稜線上からのエスケープルート(茂倉新道吾策新道、平標新道)の伐開を進め契機にもなった。1953年昭和28年)には平標山の家にも鐘がつけられ山中鐘の音響かせることで視界不良時等に小屋位置知らせ役目を果たすようになった。なお谷川岳周辺エリア記録に残る中では初の女性犠牲者となった遭難事故である。(この項の出典:『墓標山・谷川岳』小島六郎,1958、『魔岳秘帳 谷川岳遭難記録』岸虎尾,1959、『谷川岳と星』安川茂雄,1972、『青春の墓標谷川岳卓也,1977また、鞍部から山の家続いていた巻き道は現在廃道となっている。 1957年昭和32年5月26日群馬県富岡市山岳会所属の3名が遭難し、1名が命を落とした一行市役所勤めるJ、I、Yの3人。5月25日土合から入山谷川岳登頂後、大障子避難小屋宿泊。この日はで、3人に出会った肩の小屋主人天候回復を待つように忠告をしたが、Jが縦走経験者であったことと、週末のみの山行日程余裕無かったこともあり、26日の朝、止まぬ中を平標に向けて出発した。遮るもののな吹き曝しの中で稜線縦走山行続け万太郎エビス大黒越えたが、仙ノ倉の登りの頃にはJの疲労が目立つようになった鞍部山頂山小屋への分かれ道まで来たところでJの気力尽き倒れる。Iがその場残り、Yが小屋まで救助求めて走った午後2時ごろYが小屋到着。偶然、岩波映画撮影クルー地元山岳会メンバー複数人小屋停滞していたため、直ち救助に向かう。救助隊現場到着したが、安心して緊張の糸が切れたのか、Iも気を失ってしまう。強風視界効かないガスの中、JとIの2人救助隊によって小屋担ぎ込まれた。小屋では2人体温を戻すために濡れた服を脱がせストーブ最大焚き大勢全身摩擦試みた。2時間近く手当て続けたが、やがてJの僅かに残っていた脈が止まった。Yは裸になり、救助隊一人と共にJを抱きかかえて直接人肌温めたが、心臓の鼓動ことはなかった。午後7時半、全員黙祷捧げられた。Iは手当て甲斐あり、翌日意識取り戻した27日前日悪天候が嘘のように好天だった。Jの遺体駆けつけ山岳会仲間によって担ぎ下ろされた。この様子は岩波映画遭難』に一部収められている。(この項の出典:『遭難 谷川岳高村武次,1958) 2015年平成27年7月4日福島県喜多方市61歳64歳男性体調不良遭難したこの他にも残雪期・GW中の気象遭難夏場熱中症脱水症状思われる事例などが発生している。

※この「遭難事例」の解説は、「平標山」の解説の一部です。
「遭難事例」を含む「平標山」の記事については、「平標山」の概要を参照ください。

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