近衛家と陽明文庫
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近衛家は藤原北家の流れを汲む家である。藤原氏は、12世紀に摂政、関白、太政大臣を務めた藤原忠通(1097年 - 1164年)の後、その長男・近衛基実(1143年 - 1166年)を祖とする近衛家と三男・九条兼実(1149年 - 1207年)を祖とする九条家の2家に分かれ、その後近衛家からは鷹司家が、九条家からは二条家、一条家が分かれた。後に近衛、鷹司、九条、二条、一条の5家を「五摂家」と呼ぶようになった。 近衛家の歴代当主は、藤原道長の日記『御堂関白記』をはじめ、先祖の日記や朝廷の儀式関係などの重要な文書記録を大切に伝えてきた。近衛家の当主は代々、摂政関白等の政治上の高い地位を占め、鎌倉時代以降は実権は伴わなかったとはいえ、朝廷の儀式などに関与し、摂関家としての権威を保ち続けてきた。そうした政務や儀式のよりどころとして、歴代当主の遺した日記や文書記録を保管することは近衛家にとって重要なことであった。 歴代の近衛家当主には、詩書画などの諸芸に通じた教養人・風流人が多く、彼らによって伝世の古文書が整理され、新たな書物が収集された。戦国時代の動乱期に関白・太政大臣を務めた13代当主近衛政家(1445年 - 1505年)は、応仁・文明の乱に際し、家伝の古文書50箱を京都の北郊の岩倉に疎開させた。応仁の乱によって近衛家の邸宅は焼失したが、古文書類は難を逃れた。16代当主近衛前久(さきひさ、号は龍山、1536年 - 1612年)は、室町幕府の崩壊、本能寺の変、徳川幕府成立という激動の時代に関白を務め、関白の職にありながら、上杉謙信と同盟を結んで越後や関東に赴くなど数奇な生涯を送った人物であるが、彼も当代きっての文化人で、和歌・連歌をよくし、能筆でもあった。 17代当主の近衛信尹(のぶただ、1565年 - 1614年) は三藐院(さんみゃくいん)と号し、「寛永の三筆」の一人に数えられる能書家で教養人であった。信尹には継嗣がなかったため、後陽成天皇の第4皇子であり、信尹には甥にあたる近衛信尋(のぶひろ、号応山、1599年 - 1649年)を養子に迎えた。信尋も書道、茶道、連歌などの芸道に通じた教養人であった。江戸時代中期の人物である21代当主近衛家熙(いえひろ、号予楽院、1667年 - 1736年)も詩書画、茶道等諸芸に優れた教養人であった。家熙は古今の名筆を貼り交ぜたアルバムである「大手鑑」(おおてかがみ、現・国宝)を編纂し、また多くの名筆を臨書した。この中には家熙の臨書によってのみその存在が知られる筆跡も多く、資料的に貴重である。 これら歴代の近衛家当主によって守られてきた古文書類は、近代に入って明治33年(1900年)から数度に分けて京都帝国大学附属図書館に寄託された。その後、昭和期の当主であり、第二次大戦開戦に至る激動の時代に総理大臣を務めた近衛文麿は昭和13年(1938年)に財団法人陽明文庫を設立し、家蔵の資料の永久保存を図ることとした。「陽明」は、近衛家の別名であり、近衛家の屋敷が大内裏の外郭十二門の1つである陽明門から発する近衛大路沿いにあったことにちなむものである。 文庫は洛西の仁和寺の近くに位置する。約8,550平方メートルの宅地内には、文庫設立以来の建物である書庫2棟、閲覧事務所のほか、昭和19年(1944年)に建てられた数寄屋造の虎山荘が建つ。これらは昭和期の貴重な建造物として、国の登録有形文化財に登録されている。上記宅地のほとんどは京都市の歴史的風土特別保存地区内にある。また、宅地の北に接して28,916平方メートルの山林と溜池があり、環境と景観の保全が図られている。 蔵書は、藤原道長自筆の日記『御堂関白記』をはじめとする公卿の日記類がまとまって収蔵されており、いずれも一級の歴史資料である。また、天皇や歴史上の著名人の自筆書状、宮廷儀式関係、物語や和歌集の古写本なども多数収蔵し、歴史資料としてのみならず、書道史上の遺品としても貴重なものが多い。第二次大戦後、旧公家・大名家伝来の文化財の多くが散佚した中にあって、近衛家の所蔵品は、早くから財団化されていたため、まとまって伝来している点も貴重である。書庫の階上に陳列室があるが、原則として一般公開はしておらず、閲覧には紹介状が必要である。なお、主要な貴重書の影印は『陽明叢書』として逐次刊行されている。
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