近代法時代
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「著作権法 (フランス)」の記事における「近代法時代」の解説
19世紀のフランスはナポレオン帝政後に王政、共和制、帝政、共和制と体制が目まぐるしく変化していたが、欧州で最も中央集権化が進んでいた国でもあった。また欧州で最も使用頻度が高い言語がフランス語であった。したがって、フランス語の著作物は欧州に広く流通し、その結果、フランス国外で海賊版が大量に複製され、それがフランスに逆輸入する事態も発生した。また、フランス国内における外国人著作物の保護もなされていなかった。 著作権保護期間の延伸 フランス国内における19世紀の著作権法は、総合的な著作権法の制定には至らず、保護期間の延長が改正議論の中心であった。1791年法により演劇著作物の上演権は没後5年、1793年法によりその他著作物の出版権は没後10年と定められていたが、判例法によって演劇著作物にも1793年法が適用され、上演権も没後10年とされた。しかし19世紀に入り、権利保護期間が問題となった。なぜならばこの当時、文盲率が大幅に改善されたことにより、書籍商は過去の名著を重版出版するようになった結果、1793年法で定めた死後10年という期間では権利保護が短すぎたからである。 1830年に7月革命が起こり、シャルル10世 (在位: 1824年 - 1830年) が言論統制のために検閲制度を復活させたものの、市民蜂起の結果、シャルル10世からルイ・フィリップ (在位: 1830年 - 1848年) に代わった。ルイ・フィリップの治世の下、著作権改正法案策定のための委員会が1832年から立ち上がっている。この委員会では原則、永久著作権を認めたかったものの、実社会での適用に難があった。出版社が恒久的に著作権料を払わざるを得なくなると、書籍の末端販売価格が上がり、これを回避しようとして国外で海賊版を誘発する副作用が懸念されたためである こうした議論を経て1844年8月3日法が制定され、演劇著作物の複製・上演にかかる著作権の保護期間は没後20年に延伸した。さらに1854年4月8日 - 19日法により、著作権の保護期間は没後30年に延伸した。条文上の対象には著作者、作曲家、美術家と書かれていることから、演劇著作物以外にも保護期間の延伸が認められている。続いて1866年7月14日法によって、著作権の保護期間が著作者の没後50年に延長している。これら一連の延伸に関する法改正は、当時大衆から人気の高かった作家たちが、政治家として国政に進出しており、彼らの尽力が大きかったとされる。しかし、土地・建物のように著作権についても所有権を永久に認めるべきとの考え方も根強く残っていた。 二国間条約とベルヌ条約 「ベルヌ条約#歴史」も参照 フランス国外に目を向けると、本格的な多国間条約であるベルヌ条約以前、19世紀当時のフランスは二国間条約を通じて自国の著作物の保護に努めていた。しかし二国間条約の場合、保護水準の低い国、すなわち文化の輸入国に合わせて締結内容が定められるため、保護水準が高く、文化の輸出国であったフランスは、国内と比較して国外でのフランス著作物の保護が十分ではなかった。 具体的には、自国民が外国で著作物を発行した場合、内国民としての保護を排除する国や、翻訳権や小説の劇化といった翻案権を認めていない国、翻訳権の保護期間が著作物登録から3か月で失効する国もあった。このような状況下で、フランスの著作物が国外で無断翻訳され、損害を被っていたのである。そもそも、各国の権利保護期間にもバラつきがあり、国際的な統一の必要性があった。 こうした国際状況を背景に、まずは民間レベルで動きが始まる。1858年9月、著作権の国際的な保護を協議すべく「文学的美術的所有権会議」がブラッセルで非公式に開催された。さらに、1878年のパリ万国博覧会を契機に、フランス政府の呼びかけによって各国の学者・美術家・文学者・出版業界の代表者が集まり、著作権に関する会合が持たれた。この会合の結果、フランスの文豪であり政治家でもあったヴィクトル・ユーゴーを名誉会長とした国際文芸協会 (後の国際著作権法学会 (略称: ALAI)) が創設された。当会合からフランス政府に対し、多国間条約の起草・締結を要請することとなった。 これ以降は、各国政府による公式な外交協議へと移った。第1回ベルヌ公式会議 (1884年9月)、および第2回ベルヌ公式会議 (1885年9月)を経て、第3回ベルヌ公式会議 (1886年9月) でベルヌ条約の条文が固まり、10か国が調印し、翌年1887年12月7日にベルヌ条約は発効した。 レコード録音権 20世紀初めに蓄音機とレコードが一般に商品化されているが、それ以前はオルゴールが音楽再生の唯一の手段であり、19世紀に入ってオルゴールは上流階級だけでなく、一般庶民にも広まっていた。オルゴール生産主力国であるスイスの国策圧力により、フランスでは1866年5月16日法を成立させ、音楽の著作権者に無断でオルゴールに楽曲を利用・複製することを合法化している。1886年署名のベルヌ条約でもその第3条で、オルゴールの製造・販売は音楽の偽造とみなさない旨が規定されている。しかし、レコード録音権を巡る訴訟がフランスで相次いだことから、オルゴールの楽曲無断利用合法化の対象からレコードを切り離すこととなり、レコード録音使用料の支払が義務化された。1908年のベルヌ条約ベルリン改正でも、オルゴールの免責を改定し、オルゴールを含む全ての音楽複製権が著作者にあると規定した。これを受け、世界初の録音権協会である機械的複製権協会 (SDRM)(フランス語版)が1935年に設立され、録音使用料の徴収・分配を権利者に代わって行うようになった。 追及権 1920年5月20日法により、世界初の「追及権」が美術作品に認められた。追及権とは、絵画や彫刻などの美術品が転売されるたびに、その売買価格の一定割合を著作者が継続して得ることができる仕組みであり、著作者が作品を安値で手放しても、後に価値が高騰した時に金銭的に報いられるようになっている。この追及権は、著作物が著作者から離れても、著作者の支配権は残るという大陸法の著作者人格権思想に基づいている。
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近代法時代
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民法典制定の後、短期間の間に、民法典の他、商法典、民事訴訟法典、刑法典、治罪法典のいわゆる「ナポレオン諸法典」(codes napoléoniens)が制定されたが、これらは、自然法論に基づく近代法の先駆けとなり、日本の民法を含め、各国の法律のモデルとなった。上述したように、フランスでは、すでに全国の慣習を徹底的に調査し、法典を編纂していた歴史があったため、これらの制定法は、フランスの伝統ある慣習の中から自然法を理性の従うところによって発見し、これを写し取って実定法の形にしたものとされ、高度に抽象的かつ理論的な体系を有する点に特徴があった。のみならず、ルソーの人民主権論においては、制定法は主権者である国民の一般意思の表明とされ、上述した旧体制のシンボルともいうべき高等法院への不信から、議会の優位・制定法万能主義に結びつき、英米法と異なり、判例の法源性は否定されるに至った。同様の見地から、判例の拘束力も事実上のものにすぎないとされている。その後、ナポレオン5法典は、若干の修正を受けているものの、フランスの憲法と異なり、フランス国民の慣習、常識に従ったものとして現在に付け継がれる法典となっている。 20世紀には、法を超越的な権威から解放し、理論化する必要性が認識されるようになった。ハンス・ケルゼンによる純粋法学の理論はフランス法に規範階層という考え方を導入し、フランス法という言葉は実定法を意味するようになった。その後は、法は非常に技術的なものとなり、法典の数も非常に多くなって、2006年12月には61本に達した。 第二次世界大戦後は、立憲主義が発展したことにより、憲法には他の法形式(憲法附属法、欧州指令の国内適用法令、法典、命令、など)より高い地位が与えられている。 その他にも、消費法典や環境法典など、これまでになかった法典が制定されている。
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