近代民主主義成文憲法の成立とポーランド分割
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「ポーランド」の記事における「近代民主主義成文憲法の成立とポーランド分割」の解説
詳細は「ポーランド分割」を参照 18世紀に入ると国王選挙に対する外国の干渉が深刻になり、大北方戦争やポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)をはじめとする戦争や内戦が繰り返されるようになった。ポーランドに隣接するロシア帝国、プロイセン王国、オーストリアの三強国は、1772年、1793年、1795年、1815年の4度にわたってポーランド分割を行った。 18世紀後半にはポーランド=リトアニア共和国の国土が他国に分割占領(ポーランド分割)された。1772年に第一次ポーランド分割が行われたあと、スタニスワフ2世王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「5月3日憲法」)。この憲法によって王権の世襲制(選挙王政ではあるが以前のように個人選出ではなく王家の一家を選出する)とともに立憲君主制が成立し、それまで名目的には緩やかな連邦制をとっていて行政が非効率だったポーランド=リトアニア共和国は名実ともに単一国家となった。1793年、議会によりワルシャワに国民教育委員会(Komisja Edukacji Narodowej, KEN)が設立された。 立憲君主制、民主主義の王政に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力はロシアのエカチェリーナ2世と結託した。ロシア軍はポーランドに干渉戦争を起こした(ポーランド・ロシア戦争)。この直後の1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793 - 94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された(コシチュシュコの蜂起)。1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。その広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域はロシア帝国に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。その後、スタニスワフ2世はロシアの首都サンクトペテルブルクに連行され、妻子とともに半ば軟禁生活を送った。ポニャトフスキとコシチュシコはフランスへ亡命し、再起を図ることにした。 ナポレオン戦争中の1807年にはナポレオンによってワルシャワ公国が建国された。貴族共和制の復活を望む一部のポーランド人は公国を支持したが、実態はフランス帝国の衛星国に過ぎなかった。1815年、ウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体され、その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務するポーランド立憲王国を成立させた。南部の都市クラクフとその周辺は、クラクフ共和国として一定の自治が容認された。西部はポズナン大公国としてプロイセンの支配下に置かれた。
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