近代治水整備とは? わかりやすく解説

近代治水整備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:36 UTC 版)

最上川」の記事における「近代治水整備」の解説

最上川中流部から下流部掛けて最上峡や「三難所」のような狭窄部が続き、さらに激しく蛇行していた。加えて春季雪解けなどで水量豊富な上に、河況係数最大流量最小流量の差。大きいと水害の危険が高い)が大きく、一旦大雨が降ると水害悩まされた。だが直江兼続石堤最上義光開鑿工事のほかは江戸時代通じ大規模な治水事業行われておらず、融雪洪水豪雨台風による水害流域度重なる被害与えていた。 明治時代に入ると、最上川にも欧米各国近代河川工法導入され治水事業本格的に実施されるようになった契機となったのは1909年明治42年4月融雪洪水である。1919年大正6年)、内務省による直轄改修計画スタートした最大懸案最上川赤川分離である。山形県第2の河川である赤川かつては酒田市最上川合流する最上川水系支流であった1921年大正10年)に「赤川放水路建設事業」が着手され最上川合流していた赤川直接日本海向かって分流させるようにした。赤川放水路1936年昭和11年)に通水したが旧流路である旧赤川そのまま最上川に注ぐ形で残された。 中流部上流部では1933年昭和8年)より最上川本川79.0km、支流19.0kmに及ぶ堤防建設行って山形市米沢市など主要都市水害から防除し、上中下流一貫した形での治水整備開始された。同時に月山山麓部の大量土砂流出による土砂災害を防ぐ為、内務省1937年昭和12年)より直轄砂防事業着手している。だがその後戦時体制伴って事業次第遅延中断余儀無くされた。また、この時期秋田県出身内務省土木研究所長・物部長穂による「河水統制事業」が青森県浅瀬石川などで実施されていたが、最上川では多目的ダムの建設などは計画されなかった。

※この「近代治水整備」の解説は、「最上川」の解説の一部です。
「近代治水整備」を含む「最上川」の記事については、「最上川」の概要を参照ください。

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