大北方戦争
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大北方戦争(だいほっぽうせんそう、スウェーデン語: Stora nordiska kriget、ロシア語: Великая Северная война、ポーランド語: III wojna północna、デンマーク語: Den Store Nordiske Krig、ドイツ語: Großer Nordischer Krieg、英語: Great Northern War、1700年 - 1721年)は、スウェーデンと反スウェーデン同盟(北方同盟)を結成した諸国とがスウェーデンの覇権をめぐって争った戦争であり、近世の北欧、中欧、そして東欧における重要な画期となった。
注釈
出典
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大北方戦争
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1699年にフレゼリク4世はクリスチャン5世の後を継いだ。翌1700年に始まった大北方戦争では、ロシア、ポーランドと共に反スウェーデン同盟側として参加したが、得るところもなく、ロシアにバルト海の覇権を握られてしまった。スウェーデンからの失地回復の望みは永遠に失われてしまい、せいぜいエーアソン海峡を通るスウェーデン船籍の商船にあった免税特権が廃止された程度であった。大北方戦争に費やした国防費や国王の威信を保つために必要とされコペンハーゲン近郊のフレデンスボー(英語版)に建設されたフレデンスボー城(英語版)といった宮廷費、加えて、穀物価格の下落、農村の若年労働者の減少に起因した農業の停滞により財政難に陥った。フレゼリク4世はドイツから伝わったルター派の一宗派である敬虔主義に傾倒したことから1707年に救貧令を発布、また、王立学校を設立し子供を就学させる、ノルウェー人牧師のエーイェゼのグリーンランドへの布教を後押しし、グリーンランドを再植民地化した。
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大北方戦争
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「ピョートル1世 (ロシア皇帝)」の記事における「大北方戦争」の解説
詳細は「大北方戦争」を参照 1699年、ピョートルはポーランド王アウグスト2世、デンマーク=ノルウェー王フレデリク4世と反スウェーデン同盟(北方同盟)を結び、バルト海への出口を求めた。1700年に大北方戦争が始まると、コンスタンティノープル条約の締結で露土戦争の終結を確認した後にスウェーデンと交戦状態に入るが、ナルヴァの戦いでカール12世の率いる少数精鋭の敵軍に惨敗した。しかし軍備増強に努め、ポーランドとの戦争に忙殺されるスウェーデン軍の隙をつき、1706年頃にはリヴォニア地方にまで進軍した。 1708年にカール12世がロシア領に侵攻し、ウクライナ・コサックの首長マゼーパと連合したが、1709年6月27日にポルタヴァの戦いでピョートルは冬将軍と焦土作戦でスウェーデン軍を弱体化させ大敗させた。カール12世はトルコに逃げたため故国に戻れず、ピョートルはこの機に乗じて親露派のアウグスト2世をポーランド王位に復帰させ、カレリアとリヴォニアを征服した。一方イスタンブールにいるカール12世はアフメト3世を説き伏せ、1711年トルコをロシアとの交戦に踏み切らせた。ピョートル率いるロシア軍はプルト川河畔でオスマン軍に包囲され敗北(プルート川の戦い、1711年7月18日 - 7月21日)、カール12世の帰還、アゾフなど1696年にトルコから奪った領土の返還を承認させられた(プルト条約)。 しかし翌1712年からロシアは攻勢に転じ、ハンゲの海戦で歴史的勝利をおさめ、ロシア海軍の成長を見せつけると同時にバルト海の覇権を獲得した。ロシアは勢いに乗じてスウェーデンのドイツ領を侵略、反スウェーデン同盟の加盟国を増やしてスウェーデンを追い込み、1716年には姪エカチェリーナ・イヴァノヴナを北ドイツのメクレンブルク=シュヴェリーン公カール・レオポルトと結婚させ、同盟を結んでスウェーデン侵攻拠点を手に入れバルト海への影響力を増していった。この事態はイギリスをはじめとする同盟諸国を警戒させ、ピョートルは圧力に屈してポーランドから撤退した。 1718年にはスウェーデンと休戦交渉に入ったが、カール12世の急死で親英派の妹ウルリカが王位を継ぐと交渉は打ち切られた。バルト海沿岸地域を我が物としたピョートルはさらにスウェーデンを圧迫し、フィンランド、そしてスウェーデン本土に直接攻撃を仕掛けた。ロシア軍はスウェーデン本土への攻撃は阻止されたものの、これがスウェーデンへの決定的な圧力となった。スウェーデンは1719年から1720年にかけてロシア以外の交戦国とストックホルム条約を締結し講和、その内のイギリスと同盟条約を締結し、イギリスはバルト海に艦隊を派遣して圧力をかけたが、ロシアは1720年7月のグレンガム島沖の海戦(英語版)でスウェーデンに勝利した。そして1721年にイギリスの調停でニスタット条約が結ばれ、スウェーデンとロシアがバルト海の覇権を争った大北方戦争はロシアの勝利に終わった。ロシアはフィンランドを除き占領したバルト海沿岸地域のほとんどを獲得、トルコともパッサロヴィッツ条約を結んで決着をつけた。 この時点でロシアはポーランドにも影響力を及ぼし始めていた。ポーランド国内の混乱に乗じて調停者としてポーランド議会とアウグスト2世に対する優位を示した。またポーランドが獲得するはずだったリヴォニアを奪い、バルト地方にも影響力を拡大した。これらの事は、ロシアがポーランド・リトアニア共和国に対する保護国化への端緒となった。 ウクライナ・コサックのヘーチマン国家においてもピョートルは、スウェーデンと連合した首長マゼーパの反乱を鎮圧した。以後、コサックの自治権が大きく削減され、ロシアの支配が強化されることとなった。一方で首長名代であるダヌィーロ・アポーストルを重用して、ヘーチマン国家のロシアへの求心力を高める事にも成功した。 また1722年にはグルジア・カルトリ王国の王ヴァフタング6世と同盟を結びサファヴィー朝ペルシア帝国を北から攻め(ロシア・ペルシャ戦争)、翌1723年にカスピ海周辺の領土の領有を認めさせたサンクトペテルブルク条約に調印、共同歩調を取っていたオスマン帝国とも翌1724年にコンスタンティノープル条約を締結して中央アジアに影響力を及ぼそうとした。1725年には20余りのヨーロッパの主要国に外交官を常駐させるに至った。
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大北方戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 23:02 UTC 版)
詳細は「大北方戦争」を参照 スウェーデンでは、1697年にカール11世が崩御すると、その息子カール12世がわずか15歳で即位した。若年のため5人の摂政が付けられたが、摂政の影響力に不満を感じた議会はカール12世の親政を求め、カール12世はそれに応じた。スウェーデンの大国化に反発するデンマーク=ノルウェー、ロシア・ツァーリ国、ザクセン選帝侯領は1699年に北方同盟を結成、1700年には大北方戦争が始まった。カール12世は自ら前線で指揮を執り、開戦わずか半年後にトラヴェンタール条約でデンマーク=ノルウェーを、1706年にはアルトランシュテット条約でザクセン選帝侯領を屈服させるなど初期の戦いを有利に進めていた。しかし、1718年にフレドリクスハルド要塞包囲戦でカール12世が流れ弾に当たって戦死すると、スウェーデン国内ではその後継者争い、北方同盟側では領土の分配を巡って内部対立が起こったこともあり、和平工作が進められた。 1719年2月20日と1720年2月1日のストックホルム条約により、ハノーファーはブレーメンとフェルデンを、プロイセン王国はシュチェチンを、それぞれ手に入れた。1720年7月3日のフレデリクスボー条約により、デンマークはリューゲン島の他、ペーネ川以北のポメラニア北部とヴィスマールをスウェーデンに返還する代わりに、スウェーデンは60万リクスダラーの支払いとホルシュタイン=ゴットルプ家への支援打ち切り、エーレスンド海峡通行税の免除特権返上を約束した。ロシアとの和平は1721年のニスタット条約で成立し、スウェーデンはロシアにイングリア、エストニア、リヴォニアとフィンランドのケックスホルム県およびヴィボルグ城を割譲し、200万リクスダラーの賠償金を支払う代わりに、ヴィボルグ以西、カキサルミ以北のフィンランドを回復した。
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