スウェーデン・ポーランド戦争とは? わかりやすく解説

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スウェーデン・ポーランド戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/02 06:54 UTC 版)

スウェーデン・ポーランド戦争(スウェーデン・ポーランドせんそう)は、広義に1563年から1721年までにスウェーデン王国ポーランド・リトアニア共和国の間に幾度となく起こった一連の戦争をいう。


  1. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 4。
  2. ^ 入江、pp. 3-16。
  3. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 6、p. 9。この視察の目的は、ナッサウ=ジーゲン伯ヨハンなどのドイツ・オランダの軍事体系の構築と実践だった。[要出典]
  4. ^ a b ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 6。
  5. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの騎兵、pp. 5-10。スウェーデンは元々騎兵国家ではなく、良質な馬にも恵まれていなかった。グスタフ・アドルフは、騎兵隊の改革に乗り出したが、馬は購入に頼らざるを得なかった。この時代の騎兵は主に本国人の他、フィンランド人騎兵である「ハッカペル」と傭兵のドイツ人騎兵で構成されていた。[要出典]
  6. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 8。ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの騎兵、p. 6。
  7. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの騎兵、p. 40。グスタフ・アドルフは、陸軍とともにスウェーデンを海軍大国にしようと務めていた。[要出典]
  8. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 7。これによって完全な戦争の終結に伴い、リーフランドは正式にスウェーデン領化された。[要出典]
  9. ^ 入江、p. 18。


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スウェーデン・ポーランド戦争

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ジグムント3世 (ポーランド王)」の記事における「スウェーデン・ポーランド戦争」の解説

1621年スウェーデン王となった従弟グスタフ2世アドルフリガ侵攻し8年にわたるスウェーデン・ポーランド戦争が開始された。戦争当初ジグムント3世スウェーデン軍圧倒されリガ陥落した後、1626年までに従属国プロイセン公国東プロイセン)を占領された。しかしジグムント3世ハプスブルク家同盟を結び、さらに、ヘトマンとなったばかりの若き天才将軍スタニスワフ・コニェツポルスキ大活躍でワルシャワ侵攻阻止その後コニェツポルスキ率いポーランド攻勢転じ画期的な戦法駆使してスウェーデン軍次々と撃破スウェーデン勢力バルト海沿岸まで押し返すことに成功した(これはコニェツポルスキによる戦った相手長所取り入れと、敵国スウェーデン軍制研究・分析して自軍火力増強なども行った結果であった)。 その後、グジュノの戦いの後に再びポーランド侵攻することとなったスウェーデン軍だったが、この間グスタフ2世アドルフはコニェツポルスキに2度重傷を負わされ、コニェツポルスキの前にスウェーデン軍総崩れとなった最後の決戦プツクの戦いではかろうじて死を免れるまでになったこうした展開にもかかわらずポーランド国会セイム)は戦費捻出時間をかけており、ポーランド攻勢とはいえ財政的な余裕乏しくなってきており、余勢を駆ってスウェーデン軍すべてをバルト海まで駆逐する財政的な余力はなかった(スウェーデン軍傭兵軍加えて軍勢力を維持していた)。また、スウェーデン軍敗戦はすべてコニェツポルスキによるものであり、彼の猛攻なくしてはポーランド優位もありえず、ポーランドがこの戦争乗り切ったのもすべてコニェツポルスキのおかげだった。さらに三十年戦争初期神聖ローマ帝国による支援も、スウェーデン軍によるワルシャワ侵攻阻止しえた要因であったといえる一方スウェーデンによるポーランド征服絶望的となり、厭戦気分漂いだすと、この情勢見たフランス王国スウェーデン勢力弱体恐れ調停乗り出す1629年ポーランドスウェーデンは、アルトマルクの和議を結び、戦争終結した。しかし、スウェーデン対し戦闘では勝利したもののロシアオスマン帝国タタールスウェーデンなどとの度重なる大戦争財政苦しくなりつつあったポーランドは、この和議によって、以後スウェーデンポーランド敵対行動取らないかわりにバルト海沿岸いくつかの都市における徴税スウェーデン譲りグスタフ2世アドルフスウェーデン王位を容認することとなったジグムント3世王位容認に関して保留したが、この時はスウェーデン王位への請求断念せざるを得なかった)。領土に関しては、東プロイセンプロイセン公国返還させたが、占領されリガ以北リヴォニア奪還果たせなかった(講和条約である1635年のストゥムスドルフの和約でも同様であった)。戦後ジグムント3世ハプスブルク家接近し、よりカトリック諸国連携深めていった。 三十年戦争スウェーデングスタフ2世アドルフ戦死による混乱勢力減退し今度スウェーデン併合機会をうかがうポーランドから逆にスウェーデン本土侵攻を受ける可能性高まった国内手薄であり危機感じたスウェーデンは、ストゥムスドルフの和約ポーランドスウェーデン本土へ侵略しない約束をするかわりにバルト海沿岸の諸都市徴税ポーランド返還することになった三十年戦争直接介入しなかったポーランドはその勢力維持させる事は出来たものの、スウェーデン三十年戦争最終的に勝利となったため、ポーランドバルト海における覇権を得る可能性なくなり逆にスウェーデンがその地位安定させたため、ポーランド・ヴァーサ家のもくろみ成功しなかった(当時ポーランド海軍は、スウェーデン海軍ほどの規模はなく、バルト海勢力伸張出来なかった)。しかしポーランド・ヴァーサ家はなおもスウェーデン王位を諦めきれず、ポーランドスウェーデン間のしこりとなり、やがて北方戦争として両者対決する事となる。なお、ジグムント3世グスタフ2世アドルフは、共に1632年崩御している。

※この「スウェーデン・ポーランド戦争」の解説は、「ジグムント3世 (ポーランド王)」の解説の一部です。
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