スウェーデン・ポーランド戦争
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スウェーデン・ポーランド戦争(スウェーデン・ポーランドせんそう)は、広義に1563年から1721年までにスウェーデン王国とポーランド・リトアニア共和国の間に幾度となく起こった一連の戦争をいう。
- ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 4。
- ^ 入江、pp. 3-16。
- ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 6、p. 9。この視察の目的は、ナッサウ=ジーゲン伯ヨハンなどのドイツ・オランダの軍事体系の構築と実践だった。[要出典]
- ^ a b ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 6。
- ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの騎兵、pp. 5-10。スウェーデンは元々騎兵国家ではなく、良質な馬にも恵まれていなかった。グスタフ・アドルフは、騎兵隊の改革に乗り出したが、馬は購入に頼らざるを得なかった。この時代の騎兵は主に本国人の他、フィンランド人騎兵である「ハッカペル」と傭兵のドイツ人騎兵で構成されていた。[要出典]
- ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 8。ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの騎兵、p. 6。
- ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの騎兵、p. 40。グスタフ・アドルフは、陸軍とともにスウェーデンを海軍大国にしようと務めていた。[要出典]
- ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 7。これによって完全な戦争の終結に伴い、リーフランドは正式にスウェーデン領化された。[要出典]
- ^ 入江、p. 18。
- 1 スウェーデン・ポーランド戦争とは
- 2 スウェーデン・ポーランド戦争の概要
- 3 リヴォニア戦争
- 4 1626年-1629年の戦争
- 5 大洪水時代
- 6 関連項目
スウェーデン・ポーランド戦争
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「ジグムント3世 (ポーランド王)」の記事における「スウェーデン・ポーランド戦争」の解説
1621年、スウェーデン王となった従弟のグスタフ2世アドルフがリガに侵攻し、8年にわたるスウェーデン・ポーランド戦争が開始された。戦争当初ジグムント3世はスウェーデン軍に圧倒され、リガが陥落した後、1626年までに従属国プロイセン公国(東プロイセン)を占領された。しかしジグムント3世はハプスブルク家と同盟を結び、さらに、ヘトマンとなったばかりの若き天才将軍スタニスワフ・コニェツポルスキの大活躍でワルシャワ侵攻を阻止、その後コニェツポルスキ率いるポーランドは攻勢に転じ、画期的な戦法を駆使してスウェーデン軍を次々と撃破、スウェーデンの勢力をバルト海沿岸まで押し返すことに成功した(これはコニェツポルスキによる戦った相手の長所の取り入れと、敵国スウェーデンの軍制を研究・分析して自軍の火力増強なども行った結果であった)。 その後、グジュノの戦いの後に再びポーランドに侵攻することとなったスウェーデン軍だったが、この間グスタフ2世アドルフはコニェツポルスキに2度重傷を負わされ、コニェツポルスキの前にスウェーデン軍が総崩れとなった最後の決戦プツクの戦いではかろうじて死を免れるまでになった。こうした展開にもかかわらずポーランド国会(セイム)は戦費の捻出に時間をかけており、ポーランドが攻勢とはいえ、財政的な余裕は乏しくなってきており、余勢を駆ってスウェーデン軍すべてをバルト海まで駆逐する財政的な余力はなかった(スウェーデン軍も傭兵軍を加えて残軍勢力を維持していた)。また、スウェーデン軍の敗戦はすべてコニェツポルスキによるものであり、彼の猛攻なくしてはポーランドの優位もありえず、ポーランドがこの戦争を乗り切ったのもすべてコニェツポルスキのおかげだった。さらに三十年戦争初期の神聖ローマ帝国による支援も、スウェーデン軍によるワルシャワ侵攻を阻止しえた要因であったといえる。一方、スウェーデンによるポーランド征服が絶望的となり、厭戦気分が漂いだすと、この情勢を見たフランス王国はスウェーデンの勢力弱体を恐れ、調停に乗り出す。 1629年、ポーランドとスウェーデンは、アルトマルクの和議を結び、戦争は終結した。しかし、スウェーデンに対し戦闘では勝利したもののロシア、オスマン帝国、タタール、スウェーデンなどとの度重なる大戦争で財政が苦しくなりつつあったポーランドは、この和議によって、以後スウェーデンがポーランドに敵対行動を取らないかわりに、バルト海沿岸のいくつかの都市における徴税権をスウェーデンに譲り、グスタフ2世アドルフのスウェーデン王位を容認することとなった(ジグムント3世は王位の容認に関しては保留したが、この時はスウェーデン王位への請求は断念せざるを得なかった)。領土に関しては、東プロイセンをプロイセン公国に返還させたが、占領されたリガ以北のリヴォニアの奪還は果たせなかった(講和条約である1635年のストゥムスドルフの和約でも同様であった)。戦後、ジグムント3世はハプスブルク家に接近し、よりカトリック諸国と連携を深めていった。 三十年戦争でスウェーデンはグスタフ2世アドルフの戦死による混乱で勢力が減退し、今度はスウェーデン併合の機会をうかがうポーランドから逆にスウェーデン本土に侵攻を受ける可能性が高まった。国内が手薄であり危機を感じたスウェーデンは、ストゥムスドルフの和約でポーランドがスウェーデン本土へ侵略しない約束をするかわりにバルト海沿岸の諸都市の徴税権はポーランドに返還することになった。 三十年戦争に直接介入しなかったポーランドはその勢力を維持させる事は出来たものの、スウェーデンは三十年戦争で最終的に勝利国となったため、ポーランドがバルト海における覇権を得る可能性はなくなり、逆にスウェーデンがその地位を安定させたため、ポーランド・ヴァーサ家のもくろみは成功しなかった(当時のポーランド海軍は、スウェーデン海軍ほどの規模はなく、バルト海に勢力を伸張出来なかった)。しかしポーランド・ヴァーサ家はなおもスウェーデン王位を諦めきれず、ポーランドとスウェーデン間のしこりとなり、やがて北方戦争として両者は対決する事となる。なお、ジグムント3世とグスタフ2世アドルフは、共に1632年に崩御している。
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