スウェーデン・ポーランド戦争 1626年-1629年の戦争

スウェーデン・ポーランド戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/02 06:54 UTC 版)

1626年-1629年の戦争

1626年、グスタフ・アドルフは、グダニスク湾から上陸。東プロイセンのドイツ都市を攻略し、一帯を制圧した。プロイセン奪回のために進軍してきたジグムント3世率いる共和国軍はプロイセン公領の支援を受けずにグルジョンツで戦ったが、スウェーデン軍を撃退することができなかった。伝説的な名将スタニスワフ・ジュウキェフスキの愛弟子で娘婿でもある若きポーランド将軍スタニスワフ・コニェツポルスキはこれを見て自軍を率い怒涛の速さでプロイセンに進軍、グスタフ・アドルフのスウェーデン軍と遭遇し、約1万の自軍で2万を超えるスウェーデン軍を守勢に立たせ、足止めすることに成功した。両軍はにらみ合いとなり、スウェーデン軍は退却した。その後スウェーデン軍は二手に分かれ、プロイセンとポンメルンから南下して共和国を攻略することにした。ポメラニア方面からヴィスワ川を南下する途中スウェーデン軍はコニェツポルスキ率いる共和国軍によって撃破され、この戦略は頓挫した。コニェツポルスキの軍は進軍してグスタフ・アドルフの軍本体と遭遇、この戦闘でグスタフ・アドルフは尻に重傷を負った。この戦闘をきっかけに共和国軍は守勢から攻勢に立つようになり、コニェツポルスキはその後、それまでスウェーデンに占領されていた都市を次々と奪還していく。そしてついにコニェツポルスキとグスタフ・アドルフの軍はグダニスクで決戦を行ったが、戦闘でグスタフ・アドルフはまたもや重傷を負い、スウェーデン軍は敗退した。グスタフ・アドルフはコニェツポルスキの騎兵隊に圧倒されたものの、共和国の国内を転戦し、ドイツ人傭兵マスケット銃兵及びパイク兵などで対抗し、戦争を継続した[5]

1627年3月から4月にかけてチャルネの戦いでコニェツポルスキは篭城したスウェーデン軍を包囲してドイツ人傭兵を降伏させた。これを見たブランデンブルク選帝侯は共和国への支持を宣言した。しかしスウェーデン軍は、新たに徴兵軍を加え8月のトチェフ(ディルシャウ)の戦いで共和国軍に大勝した。しかしこの時も、グスタフ・アドルフは頚部を負傷している(この時の負傷によって、グスタフ・アドルフは、二度と金属製の甲冑を着けることが出来なくなり、また右腕もその影響で不自由となった[6])。コニェツポルスキはポーランド王国国会(セイム)で共和国の海上進出を主張、これが国会で受け入れられ、まずは9隻の戦艦の貸与を受けた。同年11月のバルト海南部のグダニスク湾におけるオリヴァの海戦でポーランド海軍スウェーデン海軍の主力艦隊を撃破した。しかしもともとポーランド海軍は規模は小さかったため、バルト海海上におけるスウェーデンの勢力は相対的に維持された(グスタフ・アドルフは、翌1628年に共和国で予算案の審議が長引いたためヴィスワ川河口に停泊を余儀なくさせられていたポーランド艦船を奇襲攻撃して打撃を与えグダニスクに撤退させている。停泊していた艦隊は警戒を怠っていたとは言え、グスタフ・アドルフにとっては、ポーランドによる陸と海からの挟撃を阻止し得た戦果となった[7])。グスタフ・アドルフのバルト海海上における覇権の意気込みは強く、1628年に竣工した戦列艦ヴァーサのような巨大な帆船の建造もしている。この戦列艦は重心を高くしすぎたため安定性を欠き、間もなくストックホルム沖で沈没するが、重要な海港であるリガを征した事は、その後のスウェーデンのバルト帝国を維持するための重要な拠点の一つとなった。その後、プロイセンで疫病が流行し、荒廃したことでスウェーデン軍に深刻な影響を及ぼし、足止めを余儀なくされた。

1628年になるとポーランド王国国会で戦費調達を継続することに反対意見があがるようになり、予算案の審議が長引いたため共和国は攻勢から守勢に立たされることとなった。グスタフ・アドルフはノヴィとブロドニツァを占領したが、にらみ合いの結果敵陣を攻めあぐねた1626年のプロイセンでの戦いを教訓にコニェツポルスキの軍は重装騎兵と砲兵と銃兵を巧みに使った画期的な戦法を用いてスウェーデン軍を撃破、両市を奪還することに成功した。一方、グスタフ・アドルフはデンマークと同盟を結び、神聖ローマ帝国軍に包囲されたシュトラールズントを解放した。この時三十年戦争は、デンマーク・ニーダーザクセン戦争期である。スウェーデンは、2年後の1630年に再びポンメルンに上陸し、三十年戦争の第二期、スウェーデン戦争を開始することになる。この頃グスタフ・アドルフは、騎兵不足のため、共和国遠征において厳しい局面を迎えていた。圧倒的な戦力を誇るポーランド騎兵(フサリア)の前にスウェーデン軍は殲滅の危機に立たされていた(リヴォニア南東部のラトガレにおいても、1621年から1628年にかけてアレクサンデル・コルヴィン・ゴシェフスキの前に三度スウェーデン軍は敗退し、リヴォニア全土の征服はならなかった)。しかし1628年末、デンマーク・ニーダーザクセン戦争が終結し、新教軍側の傭兵軍が解散されると、グスタフ・アドルフはその傭兵軍をそのままスウェーデン軍に入隊させた。解散した旧デンマーク軍幹部兵も加わった。倍増した騎兵部隊はスウェーデン軍が制圧したプロイセンにおいて編成された。グスタフ・アドルフは、共和国侵攻への自信を回復し、また、三十年戦争介入への決意を固めることとなる。

1629年2月、スタニスワフ・レヴェラ・ポトツキ率いた3000の共和国軍は、グジュノの戦いでヘルマン・ウランゲル率いる8000のスウェーデン軍に敗北した。これを重く見た共和国議会(セイム)は急遽審議を行い軍事予算の増額を可決した。一方この頃になると、両国共に厭戦気分が漂い始める。特にスウェーデンは戦争に次ぐ戦争で国民の不満が高まっていた(徴兵による死亡率が最悪の局面を迎え、徴兵を忌避して暴動も頻発していた。以後グスタフ・アドルフは、徴兵のみならず傭兵の方策をとって戦争を継続していくこととなる)。一方共和国もポーランドおよびリトアニアの国会(セイム)の予算審議において多くの貴族が軍事費の増加に次ぐ増加に懸念を表明することになった。結果としてグスタフ・アドルフは、スウェーデン王位を要求するジグムント3世に対し一定の優位に立つこととなり、スウェーデンの王位継承問題に一区切りを見せ始めていた。共和国軍は神聖ローマ帝国から兵力の支援を受け、スタニスワフ・コニェツポルスキ将軍の活躍によりスウェーデン軍の深部侵攻を阻止することになる[4]。この戦争の最終決戦となったホーニッヒヘルデの戦いで、スタニスワフ・コニェツポルスキ率いる1300騎のフサリア有翼重装騎兵団、1200騎のコサック騎馬隊、2000騎の黒騎兵団から成る総勢4500騎の機動部隊が、グスタフ・アドルフ率いる4000騎のスウェーデン胸甲重騎兵軍団と5000人の銃砲兵隊から成るスウェーデン軍団に対し打撃を与えると、両国の間で和平の気運が高まった。スウェーデン軍は何とか残軍を維持したものの、共和国との戦争を継続することは困難となった。この状況下においてフランス王国が調停に乗り出すこととなり、共和国も国家財政上の懸念から和議に応じアルトマルクの和議によって両国は和睦した。グスタフ・アドルフにとってコニェツポルスキを相手とした連戦連敗は、手痛い誤算であったが、休戦の成立は、共和国との外交上の優位を保った上での撤退の口実となり、三十年戦争への本格介入へ向けて絶好の好機となった。

講和と影響

アルトマルクの和議において、共和国軍は共和国・スウェーデン双方の総大将(スタニスワフ・コニェツポルスキとグスタフ・アドルフ)が現場で指揮したすべての戦闘においてスウェーデン軍に勝利していたものの、被占領地を奪還するまでには至らず、この和議によって実質的には貿易港を譲るなどして侵略者のスウェーデンに多くの利益を供与することとなった。一方、スウェーデンはリヴォニア(リーフランド)を確保するかわりに、プロイセンを共和国を構成するポーランド王国の宗主下に返上した。共和国は、コニェツポルスキが関わった戦闘の勝利が戦争の勝利に結びつかず、スウェーデンは第二期の戦争では苦戦しながらも、北プロイセンとリヴォニアでの拠点を維持していたため、交渉は優位に運び、フランスの調停もあって外交的な勝利を挙げることができた。スウェーデン軍は、当時ヨーロッパ最強とも言われる共和国の軍事力の前に、終盤は幾度ともなく壊滅の危機にさらされたが、グスタフ・アドルフによる粘り腰と政治力によって勢力そのものは維持し、国王自身が幾度となく負傷し戦死の危険にさらされるなどの危機的状況を乗り越え共和国から領土を獲得することにも成功した。これは、スウェーデンにもたらされた軍事改革の一定の成果でもあったと言える

アルトマルクの和議によって共和国はスウェーデン・ヴァーサ家への王位要求権の主張を取り敢えずは保留したが、これは事実上断念させたことと同義であった。王位要求権に関しては、グスタフ・アドルフの死後に再燃するが、取り敢えず両国は、6年間の休戦期間を得た。その後共和国は、政府財政の再建を含む国力の回復と、神聖ローマ皇帝へ接近してカトリックの堅守に専念し、スウェーデンはフランスとベールヴァルデ条約を結び、三十年戦争に本格的に介入することとなった。和議において獲得した徴税権プロイセン船舶関税は、初期スウェーデン戦争における貴重な戦費の一つとなった。

その後、6年間の休戦期間が切れると、1635年に両国はストゥムスドルフの和約で正式に講和した。スウェーデンは、1632年のグスタフ・アドルフの戦死による混乱と、三十年戦争中期のネルトリンゲンの戦いで敗北したため、往時の勢力が減退したことにより、共和国による本土への軍事侵攻を恐れ、共和国と外交交渉を行い、アルトマルクの和議で獲得していた貿易港と徴税権を共和国に返上した[8]。代わりとして共和国は、スウェーデンへの軍事侵攻をしない約束を交わした。これにはスウェーデン本軍がドイツで転戦し、国内が手薄であり、また、王位を継承したクリスティーナが幼く、スウェーデンの統治がままならない時期でもあったからである。しかし共和国は事実上、リヴォニアの大半をスウェーデンによって奪われてしまうこととなった。さらにバルト海は依然としてスウェーデン優位の下にあり、また、ヴワディスワフ4世の海軍増強計画がセイムによって破棄されたことや、共和国が三十年戦争に中立していたこともあり、スウェーデンはその間に勢力を盛り返すことに成功した。グスタフ・アドルフの戦死というアクシデントはあったものの、宰相オクセンシェルナによるイニシアティヴによって、三十年戦争が終結した1648年には、バルト海世界の覇権国そしてヨーロッパでの強国の一つに名実共に登り詰めることとなった[9]。一方その年、共和国においてはフメリニツキーの乱が勃発し、東欧における覇権国である共和国は転機を迎えることとなる。

次にスウェーデンとポーランド・リトアニア共和国が交戦するのは、ストゥムスドルフの和約の20年後、共和国で「大洪水時代」と呼ばれる1655年のことであった。


  1. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 4。
  2. ^ 入江、pp. 3-16。
  3. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 6、p. 9。この視察の目的は、ナッサウ=ジーゲン伯ヨハンなどのドイツ・オランダの軍事体系の構築と実践だった。[要出典]
  4. ^ a b ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 6。
  5. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの騎兵、pp. 5-10。スウェーデンは元々騎兵国家ではなく、良質な馬にも恵まれていなかった。グスタフ・アドルフは、騎兵隊の改革に乗り出したが、馬は購入に頼らざるを得なかった。この時代の騎兵は主に本国人の他、フィンランド人騎兵である「ハッカペル」と傭兵のドイツ人騎兵で構成されていた。[要出典]
  6. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 8。ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの騎兵、p. 6。
  7. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの騎兵、p. 40。グスタフ・アドルフは、陸軍とともにスウェーデンを海軍大国にしようと務めていた。[要出典]
  8. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 7。これによって完全な戦争の終結に伴い、リーフランドは正式にスウェーデン領化された。[要出典]
  9. ^ 入江、p. 18。






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