スウェーデン・ポーランド戦争 リヴォニア戦争

スウェーデン・ポーランド戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/02 06:54 UTC 版)

リヴォニア戦争

テッラ・マリアナ(中世リヴォニア、現在のエストニアリヴォニア)の支配を巡り行なわれた戦争。

ジギスムンド王との戦い

1600年-1611年の戦争、1617年-1618年の戦争

両国には、王位継承問題が絡み、実質的には1598年以来、戦争状態にあると言っても過言ではなかった。事の発端は、1587年ポーランド・リトアニア共和国合同君主(すなわちポーランド王リトアニア大公)でヴァーサ家のシギスムンド(ポーランド名ジグムント3世)が1592年ウプサラ戴冠式を行いスウェーデン王に即位したことから始まる。

ジギスムンドは、父親はスウェーデン国王ヨハン3世、母親はカタリーナが共和国合同君主(すなわちポーランド王・リトアニア大公)のジグムント1世とその2番目の妃ボナ・スフォルツァとの間に生まれた娘、すなわちポーランド王女であった。そして将来共和国とスウェーデン王国の国家合同を目指す両国指導層の考えの下に、ポーランド王・リトアニア大公(選挙王制による選挙を経て戴冠)とスウェーデン王(世襲王制で半ば自動的に戴冠)となる最有力候補として子供のうちにスウェーデンから共和国へ預けられ、母カタリーナの故郷であるポーランド王国首都クラクフで、対抗宗教改革カトリック改革)の主導的存在であったイエズス会によってカトリック教育を受け、自身はカトリック教徒のなかでも非常に先鋭的な思想を持つようになった。

ジギスムンドは母カタリーナの意思を継いで、スウェーデンのカトリック勢力と結んでスウェーデン国内における対抗宗教改革を主導した。しかしスウェーデンの指導層の多くはルター派プロテスタントであり、彼らはスウェーデンでカトリック再布教を進めようとするジギスムンドを国王とすることに不満を募らせるようになった。スウェーデン保守派(すなわちルター派プロテスタント教徒)は1598年にジギスムンドの叔父でありジギスムンドの摂政をつとめていたプロテスタント教徒のカール(カール9世)を擁立してジギスムンドを廃位した。

これを見たジギスムンドは対スウェーデン戦役など全くの無駄だと主張するヤン・ザモイスキ首相や共和国議会(セイム)の反対を押し切って独断でスウェーデンに侵攻したがあっけなく撃退された。共和国によるスウェーデン本土侵攻は、これが最後となった。その後両国は、リヴォニアリヴォニア公国英語版)で対立し、スウェーデンは当初は共和国守備隊を攻撃していくつかの要塞を確保したものの王冠領大ヘトマン(ポーランド王国大元帥)を兼任するザモイスキ首相が陣頭で指揮する共和国軍が進撃してくると拠点を次々と奪還された。

スウェーデン王となったカール9世が、共和国のザモイスキ首相兼大元帥が体調を崩して一線から退いたことを知って、1605年にリヴォニアのリガに侵攻し包囲戦を行ったもののそれでもリガを陥落させることが出来ず、今度はリトアニア大ヘトマン(リトアニア大公国大元帥)のヤン・カロル・ホトキェヴィチが率いて進軍して来た共和国軍とのキルホルムの戦いに惨敗、あっけなく撃退された。スウェーデン軍は歩兵9000、騎兵2000から成る大軍で、共和国は重騎兵(ポーランド有翼重騎兵軍団ウィングド・ハッサーすなわちフサリア)2600を主体とした総勢3600の圧倒的少数であったが、戦いが開始されると共和国のフサリア重騎兵はスウェーデン軍に騎馬突撃を行ない、共和国軍の3倍の人員を誇ったスウェーデン王国軍を20-30分のうちに完全粉砕した(スウェーデン側の死者・重傷者・行方不明者は5000-9000人にも及んだ一方、ポーランド側の損害は300人(うち死者100人)に過ぎなかった)。当時のスウェーデンは、宗教改革1600年のカトリック教徒諸侯の粛清などもあって国力の弱体化の極致にあり、またカール9世が1604年に国王に即位した直後のことでもあり、軍事力、経済力共に強国との差は歴然で戦争を継続させる国力もなく、17世紀初頭にはヨーロッパの最強国の一つであったポーランド・リトアニア共和国の敵ではなかった[1]

スウェーデンはモスクワ大公国の大動乱(スムータ)に乗じてバルト海沿岸各地の港湾都市に勢力を確保、そのころグスタフ2世アドルフがスウェーデン王位を継承する。一方、当初はモスクワ大公国の大動乱への直接介入を控えていた共和国では、ジグムント3世の政治に反対する議会派有志が起こした強訴ゼブジドフスキの乱」において、王は反乱者の不満をロシア政策に振り向けることで事態を収拾しようとし、モスクワへの介入が本格化していく。

ローマ・カトリック保守過激派である共和国合同君主ジグムント3世は、ロシア全土のカトリック化を画策していることを隠し、表向きは専制を排した自由な国家連合を結成することを標榜してモスクワ大公国の動乱に介入、快進撃を続けて一時はモスクワを占領した。ゼブジドフスキ反乱の参加者たちは恩赦を受けたのち、モスクワ大公国の民主派を支援しようと進軍した。当時のモスクワ大公国では、共和国はそれまでロシア社会を支配していた専制政治に対抗する政治的自由主義の擁護者と見られており、大法官(首相)兼王冠領大ヘトマン(王国大元帥)のスタニスワフ・ジュウキェフスキが率いる占領者の共和国軍は、当初はモスクワのボヤーレや市民によって、圧政からの解放者として歓迎されていた。ところが、しばらくしてジグムント3世がカトリック保守過激主義の立場を露わにすると、状況は一変した。モスクワ市民は話が違うとして不満を募らせるようになった。緩やかな自由主義の国家連合を構想して信教の自由をボヤーレやモスクワ市民に約束していたジュウキェフスキ大元帥もジグムント3世に完全に裏切られた形となり、その一方で結果的にモスクワ市民を裏切ってしまった形となった。信教の自由を推すカトリック穏健派とカルヴァン派プロテスタントの連合勢力が支配する共和国議会(セイム)はこの戦争への非協力の方針を打ち出した。ジュウキェフスキはセイムの決定に従い、遠征軍の主力を率いてワルシャワに帰還するが、共和国内、および共和国とモスクワ大公国との政治的が調整が行われる間、王の配下の守備隊のみがモスクワ市内に残されることになった。残された守備隊は主に傭兵から成っていて、彼らの一部、特にリソフチツィという傭兵集団はモスクワ市内で不法行為を行い、モスクワ市民はこれに怒り、また以前はツァーリ専制体制の立役者だったモスクワのロシア正教会保守過激派がこの不満にうまく乗ってしまい、1612年、モスクワ市民は反ポーランド主義のナショナリズムで一丸となり、共和国守備隊に対する大反乱を起こした。大反乱の知らせを受けて援軍として駆けつけた前述のヤン・カロル・ホトキェヴィチ率いるリトアニア大公国軍が郊外で頑強な抵抗に遭ってモスクワ市内まで到達できず、クレムリンに籠城した共和国守備隊は玉砕した。共和国はモスクワ大公国からの全面撤退を決定、それまでに計上した多大な財政的損失の埋め合わせのめどが立たないまま1618年にモスクワと和睦することになった(デウリノの和約)。このことで共和国の国家財政は大幅に弱体化、以後の対スウェーデン戦争でもこのときの財政的損失が大きく響き、スウェーデンとの間で形勢が逆転していくことになる。

一方、スウェーデン王グスタフ・アドルフは、即位直後の1611年にデンマークとカルマル戦争を行い、その後ロシア、デンマークとも和睦した。グスタフ・アドルフは、ロシアには有利な講和を締結する事は出来たものの、デンマークには不利な講和を余儀なくされた。これにより、グスタフ・アドルフは、軍事力の更なる強化を目指し、オランダやドイツの軍事体系を取り入れ、共和国など周辺諸国との軍事力の差を埋め合わせるための軍事改革を行った。さらに1612年に宰相となったアクセル・オクセンシェルナと共に二人三脚で国力の更なる強化を目指して行った。共和国との対立は、単なる王位継承を巡る争いのみではなく両国の政体、両王家の宗派における対立も絡んでいた。そのためにスウェーデンは、1600年に「リンチェピングの血浴」を行い、カトリックからの対抗宗教改革を阻んだ。一方で中央集権化と絶対王政化は、軍事と国家財政の拡大と効率化を目指した物であり、人的にも物的にも乏しいスウェーデンが国力を高めるためには、軍事改革を通じた「財政=軍事国家」を形成して行く他なかった。16世紀以降の対外膨張も国外での市場の獲得と重商主義政策による財源の確保であり、「バルト海支配=バルト帝国」の形成にあった[2]。バルト海へのロシアの進出を阻止し、その嚆矢としたグスタフ・アドルフは、両ヴァーサ家を巡る問題と国内的な問題を解消した後にスウェーデンをバルト海世界から脱皮させ、ヨーロッパの大国となることを目論むのである。その最大の障壁がポーランド・リトアニア共和国の存在であった。

1620年、グスタフ・アドルフはブランデンブルク選帝侯マリア・エレオノーラとの結婚を目的としてドイツ(神聖ローマ帝国)を訪問し、帰国後に大幅な軍事改革を断行した[3]。 そして両者は1621年、再びリヴォニアで相まみえるのである。戦争は、リガ攻略戦となった第一次と、1625年以降の共和国本土戦役の第二次とに分けられる。

1621年-1625年の戦争

1621年、グスタフ・アドルフは、リガ湾から上陸し、わずか数週間でリガを攻略した。その後、1624年にグスタフ・アドルフは、ドイツ三十年戦争における対ハプスブルク同盟に参加したことで、両国は一端休戦した。しかし宿敵デンマークと反目し、スウェーデンは再び共和国侵攻の準備に取りかかった。

1625年、再びスウェーデン軍は、リヴォニアに侵攻。1626年初頭、北上してきた共和国軍とダウガヴァ川の近くのヴァルホフの戦いで撃破した。これによってほぼスウェーデンは、リガを確保するのである[4]。第一段階は、スウェーデンが勝利したが、共和国は屈服せず、戦争は継続された。

リヴォニアは、その後も両国の交戦を経て、1629年和議の後、北部はスウェーデン領リヴォニア英語版(リーフランド)として、南部はインフランティ公国英語版ラトガレ)として分裂した。リガ以北はすでに1621年以降、スウェーデンの支配下に置かれていたが、共和国がスウェーデン領リヴォニアの主権を正式に認めたのは、1660年、両国との北方戦争大洪水時代)終結後のことであった。


  1. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 4。
  2. ^ 入江、pp. 3-16。
  3. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 6、p. 9。この視察の目的は、ナッサウ=ジーゲン伯ヨハンなどのドイツ・オランダの軍事体系の構築と実践だった。[要出典]
  4. ^ a b ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 6。
  5. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの騎兵、pp. 5-10。スウェーデンは元々騎兵国家ではなく、良質な馬にも恵まれていなかった。グスタフ・アドルフは、騎兵隊の改革に乗り出したが、馬は購入に頼らざるを得なかった。この時代の騎兵は主に本国人の他、フィンランド人騎兵である「ハッカペル」と傭兵のドイツ人騎兵で構成されていた。[要出典]
  6. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 8。ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの騎兵、p. 6。
  7. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの騎兵、p. 40。グスタフ・アドルフは、陸軍とともにスウェーデンを海軍大国にしようと務めていた。[要出典]
  8. ^ ブレジンスキー,グスタヴ・アドルフの歩兵、p. 7。これによって完全な戦争の終結に伴い、リーフランドは正式にスウェーデン領化された。[要出典]
  9. ^ 入江、p. 18。






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