ろと‐せんそう〔‐センサウ〕【露土戦争】
読み方:ろとせんそう
露土戦争
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露土戦争(ろとせんそう)は、ロシア帝国もしくはその前身国家とオスマン帝国の戦争である。オスマン帝国とロシアの間の戦争は以下のようにしばしば起こっているが、狭義の露土戦争は1877年-1878年の戦争をいう[1]。
露土戦争
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フランス包囲網である対仏大同盟に参画したオスマン帝国だが、当時のヨーロッパの公法はオスマン帝国には適用されず、ウィーン会議にすら出席できなかった。しかも、1806年に始まった露土戦争は1809年に再開された。これに対抗するためにオスマン帝国は同年にイギリスと秘密同盟して対抗しようとしたが、1812年にオスマン側は敗北し、ロシアとブカレスト条約を締結し、ベッサラビアを割譲しプルート川を国境にして、さらに一部コーカサスの領土をロシア帝国に奪われてしまう有様であった。ブカレスト条約ではセルビアに自治権を与えることが明記されたが、オスマン側はなかなかそれを実行しなかったため、1815年に第二次セルビア蜂起が勃発、2年後にはセルビア自治公国を承認した。 それでも、大半の帝国領土は名目的には保持され、ヨーロッパ列強の思惑もあり、戦後のウィーン体制の一員となった。
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露土戦争
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「アレクサンドルーポリ」の記事における「露土戦争」の解説
デデアガチは、露土戦争(1877-1878)中にロシア帝国軍に占領され、ロシア軍人が入植した。ロシア軍は、軍隊がすばやく移動できるように、町の街道の幅を広くすることに重点を置いて都市計画を行った。この際、街道を平行に敷き、行き止まりを無くしたために、当時のオスマン帝国下の町の特徴である、狭い路地や、石畳の街道、行き止まりといったものはデデアガチでは見られなくなった。デデアガチは、終戦後に再びオスマン帝国の統治下に戻ったが、ロシア軍の一時的な駐在は、アレクサンドルーポリの街道の外観に影響を与え続けた。
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露土戦争
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ヨーロッパ列強に比べて自国の軍事的劣弱を正確に認識していたため、戦争を控えていた。1757年から1763年まで大宰相を務めていたコジャ・ラグプ・パシャはなるべく戦争が起きないように心がけていたが1763年に死去した。後任のデヴキイ・ハムザ・ハミト・パシャもすぐに大宰相を解任されたためキョセ・バヒル・ムスタファ・パシャが就任した。1765年にムスタファ・パシャの汚職が発覚した。ムスタファ・パシャは言い訳を続けていたため、大宰相を解任され後に処刑された。一説には兄のシェフザーデ・メフメトが殺害された時の大宰相でその殺害に関与していたため処刑されたともいわれる。その後任のムフシンザーデ・メフメト・パシャも対外融和に努めていたが1768年にポーランドで内乱が発生し、ロシア軍のコサック騎兵が逃げるポーランド人を追ってオスマン帝国領内(現ウクライナ領バルタ)に侵入したため、ロシア帝国に対し宣戦を布告せざるを得なくなった(第6次露土戦争)。 しかし戦争はムスタファ3世の恐れたとおり敗戦続きで、1769年にロシアはモルドバへと侵攻、ヤッシーを占領された。同年、ロシアはコーカサスへと侵攻した。ただしこちらは1772年までにロシア軍は撤退している。地中海ではロシア海軍がバルト海を経由してペロポネソス半島を占領し、その地でオスマン側への反乱を起こさせた。1771年にロシア海軍が撤退するとペロポネソス半島の反乱は鎮圧された。エジプトやシリアでも反乱が起きており、反乱は次々に拡大していった。オスマン側はこの混乱を収めるべく1769年に大宰相にアルバニア人のイヴァズザーデ・ハリル・パシャを、1771年にシラフダル・メフメト・パシャを任命した。しかし戦争は絶望的な状況で、1774年にムスタファ3世は病により崩御した。弟のアブデュルハミト1世が後を継いだ。 表 話 編 歴 オスマン帝国皇帝 オスマン1世1299-1326? オルハン1326?-1359? ムラト1世1359?-1389 バヤズィト1世1389-1402 メフメト1世1413-1421 ムラト2世1421-1444 メフメト2世1444-1446 ムラト2世(復位)1446-1451 メフメト2世(復位)1451-1481 バヤズィト2世1481-1512 セリム1世1512-1520 スレイマン1世1520-1566 セリム2世1566-1574 ムラト3世1574-1595 メフメト3世1595-1603 アフメト1世1603-1617 ムスタファ1世1617-1618 オスマン2世1618-1622 ムスタファ1世(復位)1622-1623 ムラト4世1623-1640 イブラヒム1640-1648 メフメト4世1648-1687 スレイマン2世1687-1691 アフメト2世1691-1695 ムスタファ2世1695-1703 アフメト3世1703-1730 マフムト1世1730-1754 オスマン3世1754-1757 ムスタファ3世1757-1774 アブデュルハミト1世1774-1789 セリム3世1789-1807 ムスタファ4世1807-1808 マフムト2世1808-1839 アブデュルメジト1世1839-1861 アブデュルアズィズ1861-1876 ムラト5世1876 アブデュルハミト2世1876-1909 メフメト5世1909-1918 メフメト6世1918-1922
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露土戦争
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「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「露土戦争」の解説
1875年にバルカン半島のキリスト教徒のスラブ民族に対して残虐行為を行うオスマン=トルコ帝国の支配に対してスラブ民族が蜂起した。1877年には汎スラブ主義を高揚させたロシア帝国がバルカン半島支配権をめぐってトルコに戦争を挑み、露土戦争が発生した。ディズレーリ首相は親トルコの立場を取ったが、トルコのキリスト教徒への残虐行為から議会・国民世論から強い反発を受けた。ディズレーリを寵愛するヴィクトリアさえもがディズレーリに「なぜトルコのキリスト教徒虐殺に抗議しないのか」と詰め寄っている。 だがディズレーリはバルカン半島をスラブ人小国家郡の割拠状態にしてしまうとロシアの食い物にされるだけと考えていた。ヴィクトリアもこれについては同じ考えであり、彼女はトルコ批判者が主張するようなトルコを処罰してその国土を分割せよというような案はロシアを利するだけとして批判した。また「トルコの野蛮性」を盛んに主張する英国世論が「ロシアの野蛮性」を主張しないことも不可思議に思っていた。 露土戦争は終始ロシア軍の優位で進み、ヴィクトリアはロシアに対する危機感を強めた。ロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフ公爵はスエズ運河、ダーダネルス海峡、コンスタンティノープルを奪ってイギリスの権益を侵すような真似はしないので中立を保ってほしいとイギリス政府に依頼していたが、ヴィクトリアはロシアの約束など全く信じていなかった。対ロシア開戦に消極的な外相ダービー伯爵(かつての首相ダービー伯爵の息子)を批判し、ディズレーリ首相に軍を出動させるよう発破をかけ続けた。しまいには退位をちらつかせて首相を脅迫した。ソールズベリー侯爵夫人はこの頃のヴィクトリアの状態を「自制心を失っており、閣僚たちをこづきまわしては戦争へ持っていこうとした」と評している。1878年1月にはディズレーリに宛てた書状の中で「私が男だったら自ら出ていって、あの憎たらしいロシア人どもをぶちのめしてやるのに」と激昂している。 結局ディズレーリ首相は軍に臨戦態勢に入らせながらも参戦しないまま、3月にはトルコとロシアの間にサン・ステファノ条約が締結された。この条約によりトルコはヨーロッパにおける領土をほぼ喪失し、ロシアはトルコから90キロに及ぶ黒海沿岸地域の割譲を受け、さらにエーゲ海にまで届く範囲でバルカン半島にロシア衛星国ブルガリア公国が置かれ、地中海におけるイギリスの覇権が危機に晒された。またアルメニア地方のカルスやバトゥミをロシアが領有し、イギリスの「インドへの道」も危険に晒された。イギリスの権益など形だけしか守られていないこの条約に英国世論もヴィクトリアも激高した。ディズレーリもロシアに対してブルガリア公国建国の中止、アルメニア地域のロシア領土の放棄を要求し、ロシアが拒否するならイギリスもキプロスとアレクサンドリアを占領すべきと主張するなど強硬姿勢を示すようになった。 ロシアはドイツの支持を当て込んで(またすでにイギリスを半ば敵に回しているのにドイツまで敵に回すわけにはいかないので)ビスマルクが提唱する露土戦争の戦後処理国際会議ベルリン会議の開催に賛同した。ディズレーリは自らがベルリン会議に出席する決意を固めたが、ヴィクトリアは「ディズレーリは健康を害している。彼の命は私と我が国にとって重要な価値があり、危険に晒されることは許されない」として反対した。だがディズレーリは「鉄血宰相」と対決できる者は自分しかいないと主張して女王を説得した。 ベルリン会議でディズレーリはアジアに通じる大英帝国通商路を守るために全力を尽くした。ベルリン会議の結果、ブルガリア公国は分割され、ロシアのエーゲ海への道は閉ざされた。さらにイギリスはキプロス領有が認められ、東地中海の覇権を確固たるものとした。ビスマルクも「あのユダヤ人の老人はまさに硬骨漢だ」と驚嘆したという。
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露土戦争
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「ルーマニアのユダヤ人の歴史」の記事における「露土戦争」の解説
露土戦争(1768年-1774年)の間、ドナウ公国のユダヤ人たちは非常な困難に耐えなければならなかった。全国ほぼ全ての町村で虐殺と略奪が起こった。平和が回復されると、モルダヴィア公アレクサンドル・マヴロコルダトとワラキア公ニコラエ・マヴロゲニ(Nicolae Mavrogheni)はユダヤ人に対する特別な保護を約束し、その状況は1787年、イェニチェリとロシア軍がポグロムに関係するまで順調であった。 ユダヤ人共同体は地元住民によって迫害を被った。ユダヤ人の子供たちが捕まえられて強制的に正教会の洗礼を受けさせられた。ユダヤ人らが儀式的行事に基づいた殺人を犯したという噂が広まっていった。一つは1797年のガラツィで起こり、ことのほか厳しい結果を招いた。ユダヤ人たちは大勢の群衆に攻撃され、自宅からたたき出され、金品を奪われ、通りで待ち伏せされた。多くがその場で殺され、一部はドナウ川へ投じられて溺死した。助けを求めてシナゴーグへ逃げ込んだ人々は、建物に火をつけられ焼死した。聖職者たちの保護を受け、逃亡を助けられたほんの一部の人々が逃げおおせた。1803年、ルーマニア正教会のワラキア首府大主教ヤコブ・スタマティ(Iacob Stamati)の亡くなる少し前、かつてのラビの告白であると偽装して書いた本『ユダヤ人に立ち向かって』の出版によって、彼はブカレストのユダヤ人共同体への攻撃を扇動した。しかし、スタマティの交代要員であったヴェニヤミン・コスタキは、ユダヤ人に対し避難を勧告した。1804年にユダヤ人社会発展の可能性のある出来事が起きた。ワラキア公コンスタンティン・イプシランティ(Constantin Ipsilanti)が『愚かな人々の根拠のない意見』として、儀式に関連した殺人の告発を却下したのである。そしてワラキア中にくまなくある教会で、彼らがユダヤ人を非難する根拠を読み聞かせるよう命じた。この時期、証拠のない申し立てはもはや浮上しなかった。 露土戦争(1806年-1812年)の間、ロシア帝国による侵攻が再びユダヤ人の虐殺を伴って起きた。オスマン帝国軍の軍務についていたカルムイク人の不正規兵らが戦争末期にブカレストで姿を現した。彼らの出現は、都市で暮らすユダヤ人らに恐怖感を巻き起こした。ジューイッシュ・エンサイクロペディアによれば、『彼らは毎日市内の通りを通過し、槍の上の子供たちにつばを吐き付けた。そして、子供たちの親の眼前で子供たちを生きながら焼いて、むさぼり食って見せた。』という。同時代に、ワラキアでは外国の庇護を受けるユダヤ人スディツィ(sudiţi、主に商人)と、地元に定住するユダヤ人・フリソヴォリツィ(hrisovoliţi)の間で対立が浮上していた。フリソヴォリツィが共同体のため彼ら単独の行政を負わせようとした後、スディツィはヨアン・カラジャ公(Ioan Gheorghe Caradja)によってフリソヴォリツィの利益となるよう最終的に都市に定住させられたのである。 ハプスブルク家支配を受けていたトランシルヴァニアでは、皇帝ヨーゼフ2世による改革が導入され、ユダヤ人はハンガリー王国領に直接従属している町へ定住することを許された。しかし、町の共同体がユダヤ人移住を抑圧していた所では、その後10年間態度は厳格なままで、ユダヤ人は歓迎されなかった。
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露土戦争 (1877年-1878年)
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「イオン・クルチェル」の記事における「露土戦争 (1877年-1878年)」の解説
中尉。
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