露土戦争とは? わかりやすく解説

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ろと‐せんそう〔‐センサウ〕【露土戦争】

読み方:ろとせんそう

ロシアトルコ戦争


露土戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 01:43 UTC 版)

露土戦争(ろとせんそう)は、ロシア帝国もしくはその前身国家とオスマン帝国の戦争である。オスマン帝国とロシアの間の戦争は以下のようにしばしば起こっているが、狭義の露土戦争1877年-1878年の戦争をいう[1]




「露土戦争」の続きの解説一覧

露土戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:42 UTC 版)

マフムト2世」の記事における「露土戦争」の解説

フランス包囲網である対仏大同盟参画したオスマン帝国だが、当時ヨーロッパ公法オスマン帝国には適用されず、ウィーン会議にすら出席できなかった。しかも、1806年始まった露土戦争は1809年再開された。これに対抗するためにオスマン帝国同年イギリス秘密同盟して対抗しようとしたが、1812年オスマン側は敗北しロシアブカレスト条約締結しベッサラビア割譲しプルート川国境にして、さらに一部コーカサス領土ロシア帝国奪われてしまう有様であったブカレスト条約ではセルビア自治権与えることが明記されたが、オスマン側はなかなかそれ実行しなかったため、1815年第二次セルビア蜂起勃発2年後にはセルビア自治公国承認した。 それでも、大半帝国領土は名目的には保持されヨーロッパ列強思惑もあり、戦後ウィーン体制一員となった

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露土戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/17 03:43 UTC 版)

アレクサンドルーポリ」の記事における「露土戦争」の解説

デデアガチは、露土戦争(1877-1878)中にロシア帝国軍占領されロシア軍人が入植したロシア軍は、軍隊すばやく移動できるように、町の街道の幅を広くすることに重点置いて都市計画行ったこの際街道を平行に敷き行き止まり無くしたために、当時オスマン帝国下の町特徴である、狭い路地や、石畳街道行き止まりといったものはデデアガチでは見られなくなったデデアガチは、終戦後に再びオスマン帝国の統治下に戻ったが、ロシア軍一時的な駐在は、アレクサンドルーポリ街道外観影響与え続けた

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露土戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 02:27 UTC 版)

ムスタファ3世」の記事における「露土戦争」の解説

ヨーロッパ列強比べて自国軍事的劣弱正確に認識していたため、戦争控えていた。1757年から1763年まで大宰相務めていたコジャ・ラグプ・パシャはなるべく戦争起きないように心がけていたが1763年死去した後任のデヴキイ・ハムザ・ハミト・パシャもすぐに大宰相解任されたためキョセ・バヒル・ムスタファ・パシャが就任した1765年にムスタファ・パシャの汚職発覚した。ムスタファ・パシャは言い訳続けていたため、大宰相解任され後に処刑された。一説には兄のシェフザーデ・メフメト殺害され時の大宰相でその殺害関与していたため処刑されたともいわれるその後任のムフシンザーデ・メフメト・パシャも対外融和努めていたが1768年ポーランド内乱発生しロシア軍コサック騎兵逃げポーランド人追ってオスマン帝国領内(現ウクライナバルタ)に侵入したため、ロシア帝国対し宣戦布告せざるを得なくなった第6次露土戦争)。 しかし戦争ムスタファ3世恐れたとおり敗戦続きで、1769年ロシアモルドバへと侵攻ヤッシー占領された。同年ロシアコーカサスへと侵攻した。ただしこちらは1772年までにロシア軍撤退している。地中海でロシア海軍バルト海経由してペロポネソス半島占領し、その地でオスマン側への反乱を起こさせた。1771年ロシア海軍撤退するペロポネソス半島反乱鎮圧された。エジプトシリアでも反乱起きており、反乱次々拡大していった。オスマン側はこの混乱収めるべく1769年大宰相アルバニア人のイヴァズザーデ・ハリル・パシャを、1771年にシラフダル・メフメト・パシャを任命した。しかし戦争絶望的な状況で、1774年ムスタファ3世は病により崩御した。弟のアブデュルハミト1世が後を継いだ。 表 話 編 歴 オスマン帝国皇帝 オスマン1世1299-1326? オルハン1326?-1359? ムラト1世1359?-1389 バヤズィト1世1389-1402 メフメト1世1413-1421 ムラト2世1421-1444 メフメト2世1444-1446 ムラト2世復位)1446-1451 メフメト2世復位)1451-1481 バヤズィト2世1481-1512 セリム1世1512-1520 スレイマン1世1520-1566 セリム2世1566-1574 ムラト3世1574-1595 メフメト3世1595-1603 アフメト1世1603-1617 ムスタファ1世1617-1618 オスマン2世1618-1622 ムスタファ1世復位)1622-1623 ムラト4世1623-1640 イブラヒム1640-1648 メフメト4世1648-1687 スレイマン2世1687-1691 アフメト2世1691-1695 ムスタファ2世1695-1703 アフメト3世1703-1730 マフムト1世1730-1754 オスマン3世1754-1757 ムスタファ3世1757-1774 アブデュルハミト1世1774-1789 セリム3世1789-1807 ムスタファ4世1807-1808 マフムト2世1808-1839 アブデュルメジト1世1839-1861 アブデュルアズィズ1861-1876 ムラト5世1876 アブデュルハミト2世1876-1909 メフメト5世1909-1918 メフメト6世1918-1922

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露土戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:41 UTC 版)

ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「露土戦争」の解説

1875年バルカン半島キリスト教徒スラブ民族に対して残虐行為を行うオスマン=トルコ帝国支配に対してスラブ民族蜂起した1877年には汎スラブ主義高揚させたロシア帝国バルカン半島支配権めぐってトルコ戦争挑み、露土戦争が発生したディズレーリ首相は親トルコ立場取ったが、トルコキリスト教徒への残虐行為から議会国民世論から強い反発受けたディズレーリ寵愛するヴィクトリアさえもがディズレーリに「なぜトルコキリスト教徒虐殺抗議しないのか」と詰め寄っている。 だがディズレーリバルカン半島スラブ人小国家郡の割拠状態にしてしまうとロシア食い物にされるだけと考えていた。ヴィクトリアもこれについては同じ考えであり、彼女はトルコ批判者主張するようなトルコ処罰してその国土分割せよというような案はロシア利するだけとして批判した。また「トルコ野蛮性」を盛んに主張する英国世論が「ロシア野蛮性」を主張しないことも不可思議思っていた。 露土戦争は終始ロシア軍優位進みヴィクトリアロシア対す危機感強めたロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフ公爵スエズ運河ダーダネルス海峡コンスタンティノープル奪ってイギリス権益侵すような真似はしないので中立保ってほしいとイギリス政府依頼していたが、ヴィクトリアロシア約束など全く信じていなかった。対ロシア開戦消極的な外相ダービー伯爵(かつての首相ダービー伯爵息子)を批判しディズレーリ首相に軍を出動させるよう発破をかけ続けたしまいには退位ちらつかせ首相脅迫したソールズベリー侯爵夫人この頃ヴィクトリアの状態を「自制心失っており、閣僚たちをこづきまわしては戦争へ持ってこうとした」と評している。1878年1月にはディズレーリ宛てた書状の中で「私が男だったら自ら出ていって、あの憎たらしいロシア人どもをぶちのめしてやるのに」と激昂している。 結局ディズレーリ首相は軍に臨戦態勢に入らせながらも参戦しないまま、3月にはトルコロシアの間にサン・ステファノ条約締結された。この条約によりトルコヨーロッパにおける領土をほぼ喪失しロシアトルコから90キロに及ぶ黒海沿岸地域割譲を受け、さらにエーゲ海にまで届く範囲バルカン半島ロシア衛星国ブルガリア公国置かれ地中海におけるイギリス覇権危機晒された。またアルメニア地方カルスバトゥミロシア領有しイギリスの「インドへの道」も危険に晒された。イギリス権益など形だけしか守られていないこの条約英国世論ヴィクトリア激高したディズレーリロシアに対してブルガリア公国建国中止アルメニア地域ロシア領土放棄要求しロシア拒否するならイギリスキプロスアレクサンドリア占領すべきと主張するなど強硬姿勢を示すようになったロシアドイツ支持当て込んで(またすでにイギリス半ば敵に回しているのにドイツまで敵に回すわけにはいかないので)ビスマルク提唱する露土戦争の戦後処理国際会議ベルリン会議開催賛同したディズレーリは自らがベルリン会議出席する決意固めたが、ヴィクトリアは「ディズレーリは健康を害している。彼の命は私と我が国にとって重要な価値があり、危険に晒されることは許されない」として反対した。だがディズレーリは「鉄血宰相」と対決できる者は自分かいない主張して女王説得したベルリン会議ディズレーリアジア通じ大英帝国通商路を守るために全力尽くしたベルリン会議結果ブルガリア公国分割されロシアエーゲ海への道は閉ざされた。さらにイギリスキプロス領有認められ東地中海覇権確固たるものとした。ビスマルクも「あのユダヤ人老人はまさに硬骨漢だ」と驚嘆したという。

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露土戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:03 UTC 版)

ルーマニアのユダヤ人の歴史」の記事における「露土戦争」の解説

露土戦争(1768年-1774年)の間、ドナウ公国ユダヤ人たちは非常な困難に耐えなければならなかった。全国ほぼ全ての町村虐殺略奪起こった。平和が回復されると、モルダヴィア公アレクサンドル・マヴロコルダトとワラキア公ニコラエ・マヴロゲニ(Nicolae Mavrogheni)はユダヤ人対す特別な保護約束し、その状況1787年イェニチェリロシア軍ポグロム関係するまで順調であったユダヤ人共同体地元住民によって迫害被ったユダヤ人の子供たちが捕まえられ強制的に正教会洗礼を受けさせられた。ユダヤ人らが儀式的行事基づいた殺人犯したという噂が広まっていった。一つ1797年ガラツィ起こりことのほか厳し結果招いたユダヤ人たちは大勢群衆攻撃され自宅からたたき出され金品奪われ通り待ち伏せされた。多くその場殺され一部ドナウ川投じられ溺死した助け求めてシナゴーグ逃げ込んだ人々は、建物に火をつけられ焼死した聖職者たちの保護を受け、逃亡助けられたほんの一部人々逃げおおせた1803年ルーマニア正教会ワラキア首府大主教ヤコブ・スタマティ(Iacob Stamati)の亡くなる少し前、かつてのラビ告白であると偽装して書いた本『ユダヤ人立ち向かって』の出版によって、彼はブカレストユダヤ人共同体への攻撃扇動した。しかし、スタマティの交代要員であったヴェニヤミン・コスタキは、ユダヤ人対し避難勧告した1804年ユダヤ人社会発展可能性ある出来事起きたワラキア公コンスタンティン・イプシランティ(Constantin Ipsilanti)が『愚かな人々根拠のない意見』として、儀式関連した殺人告発却下したのである。そしてワラキア中にくまなくある教会で、彼らがユダヤ人非難する根拠読み聞かせるよう命じた。この時期証拠のない申し立てはもはや浮上しなかった。 露土戦争(1806年-1812年)の間、ロシア帝国による侵攻が再びユダヤ人虐殺伴って起きたオスマン帝国軍軍務についていたカルムイク人不正規兵らが戦争末期ブカレストで姿を現した。彼らの出現は、都市で暮らすユダヤ人らに恐怖感巻き起こしたジューイッシュ・エンサイクロペディアによれば、『彼らは毎日市内通り通過しの上の子供たちにつばを吐き付けた。そして、子供たちの親の眼前子供たち生きながら焼いてむさぼり食って見せた。』という。同時代に、ワラキアでは外国庇護を受けるユダヤ人スディツィ(sudiţi、主に商人)と、地元定住するユダヤ人・フリソヴォリツィ(hrisovoliţi)の間で対立浮上していた。フリソヴォリツィが共同体のため彼ら単独行政を負わせようとした後、スディツィはヨアン・カラジャ公(Ioan Gheorghe Caradja)によってフリソヴォリツィの利益となるよう最終的に都市定住させられのであるハプスブルク家支配受けていたトランシルヴァニアでは、皇帝ヨーゼフ2世による改革導入されユダヤ人ハンガリー王国領に直接従属している町へ定住することを許された。しかし、町の共同体ユダヤ人移住抑圧していた所では、その後10年態度厳格なままで、ユダヤ人歓迎されなかった。

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露土戦争 (1877年-1878年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 16:57 UTC 版)

イオン・クルチェル」の記事における「露土戦争 (1877年-1878年)」の解説

中尉

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