西鹿田中島遺跡とは? わかりやすく解説

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西鹿田中島遺跡

名称: 西鹿田中島遺跡
ふりがな さいしかだなかじまいせき
種別 史跡
種別2:
都道府県 群馬県
市区町村 みどり市
管理団体 みどり市
指定年月日 2004.09.30(平成16.09.30)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 西鹿田中島遺跡は、群馬県南部足尾山地赤城山の間を貫流してきた渡良瀬川平野部流れ込んで作った大間々扇状地が、早川などによって浸食されてできた南西方向に細長く延び舌状台地先端部に所在する遺跡北西側南東側には、早川とそれに合流する小河川流れ台地頂部とこれら河川との比高4mから5mである。昭和14年1939)より学会誌等に紹介され昭和34年1959)には、爪形文土器住居遺構など発見されたことで著名となった平成10年土地改良事業先立つ試掘確認調査笠懸町教育委員会実施したところ、縄文時代草創期土器多数出土するとともに同時期の住居推定される竪穴土坑などの遺構検出された。笠懸町では、その重要性鑑み遺跡の保存を図ることとし平成11年12年範囲確認調査行った
縄文時代草創期遺物遺構は、遺跡所在する舌状台地平坦部から南側緩斜面にかけての東西150m南北120m楕円形の範囲分布する調査出土した遺物は、2700点以上の厚手爪形文、薄手爪形文、多縄文土器等の土器片、数十点の石鏃、有尖頭器など、3000以上にのぼるが、放射性炭素年代測定法AMS法)で11200±40年B.P.(非補正値)と測定され厚手爪形文土器時期と、10110±70年B.P.(非補正値)と測定され薄手爪形文・多縄文土器時期分かれる厚手爪形文土器時期については、遺跡北部で5基前後土坑とそれに伴う土器等の集中部が2箇所東部土器等の集中部が1箇所検出された。このうち土坑は袋状のものを含む直径1.0mから1.4m、深さ0.3mから0.9mのもので重複する土坑底面土器底部片や堅果類検出されたり、埋土多量炭化物焼土を含むものも見られ貯蔵穴考えられている。薄手爪形文・多縄文土器時期では、遺跡中央部から南西部にかけて、竪穴2基、土坑、集石などとともに箇所土器集中部が検出された。2基の竪穴長軸4.5m、短軸4.0mの不整隅丸方形のものと、長軸3.8m、短軸3.2mの楕円形のもので重複する。ともに検出面からの掘込みが0.25mと浅くすり鉢状窪むまた、柱穴や炉跡は検出されていないが、床面埋土には土器片、石鏃炭化物などが多く見られる。なお、このほかにも、年代を示す遺物との明瞭な共伴見られないものの、遺物集中部との位置的な関係や遺構配置などから縄文時代草創期のものである可能性が高い竪穴住居跡土坑複数検出されている。
縄文時代特徴一つとして定住基本とする生活様式開始定着することがあげられるが、本遺跡は、東日本において、竪穴貯蔵穴、集石といった定住生活支え一連の施設備わっていく状況をよく示すとともに同時期の遺跡の中では大規模なものであり、東日本における縄文時代的な生活様式開始期の年代やその具体的な内容考え上で重要な意義をもつ。また、学史的にも著名な遺跡である。よって、史跡指定し保護図ろうとするものである
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西鹿田中島遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/27 14:05 UTC 版)

座標: 北緯36度24分25秒 東経139度15分24秒 / 北緯36.40694度 東経139.25667度 / 36.40694; 139.25667

西鹿田
中島遺跡
遺跡位置

西鹿田中島遺跡(さいしかだなかじまいせき)は、群馬県みどり市笠懸町西鹿田にある縄文時代の遺跡[1][2]2004年平成16年)9月30日国史跡に指定された[3]

概要

西鹿田中島遺跡は、群馬県南部、足尾山地赤城山の間を貫流してきた渡良瀬川が平野部に流れ込んで作った大間々扇状地が、早川などによって浸食されてできた南西方向に細長く延びる舌状台地の先端部に所在する。遺跡の北西側、南東側には、早川とそれに合流する小河川が流れ、台地頂部とこれら河川との比高は4 - 5 mである。1939年昭和14年)より学会誌等に紹介され、1959年(昭和34年)には、爪形文土器と建物状遺構などが発見されたことで著名となった[4]1998年(平成10年)に土地改良事業に先立つ試掘確認調査を笠懸町教育委員会が実施したところ、縄文時代草創期の土器多数が出土するとともに、同時期の建物と推定される竪穴、土坑などの遺構も検出された。笠懸町では、その重要性に鑑み、遺跡の保存を図ることとし、1999年(平成11年)から翌2000年(平成12年)にかけて範囲確認調査を行った[4]

縄文時代草創期の遺物、遺構は、遺跡が所在する舌状台地の平坦部から南側緩斜面にかけての東西150 m、南北120 mの楕円形の範囲に分布する[4]。調査で出土した遺物は、2700点以上の厚手爪形文、薄手爪形文、多縄文系土器等の土器片、数十点の石鏃有茎尖頭器など、3000点以上にのぼるが、放射性炭素年代測定法(AMS法)で11200±40年B.P.(非補正値)と測定された厚手爪形文土器の時期と、10110±70年B.P.(非補正値)と測定された薄手爪形文・多縄文系土器の時期に分かれる[4]。厚手爪形文土器の時期については、遺跡の北部で5基前後の土坑とそれに伴う土器等の集中部が2箇所、東部で土器等の集中部が1箇所検出された。このうち、土坑は袋状のものを含む直径1.0 - 1.4m、深さ0.3 - 0.9mのもので重複する。土坑底面で土器底部片や堅果類が検出されたり、埋土に多量の炭化物や焼土を含むものも見られ、貯蔵穴と考えられている[3]。薄手爪形文・多縄文系土器の時期では、遺跡の中央部から南西部にかけて、竪穴2基、土坑、集石などとともに数箇所の土器の集中部が検出された[4]。2基の竪穴は長軸4.5 m、短軸4.0 mの不整隅丸方形のものと、長軸3.8 m、短軸3.2 mの楕円形のもので重複する。ともに検出面からの掘込みが0.25 mと浅く、すり鉢状に窪む。また、柱穴や炉跡は検出されていないが、床面や埋土には土器片、石鏃、炭化物などが多く見られる[4]。なお、このほかにも、年代を示す遺物との明瞭な共伴は見られないものの、遺物集中部との位置的な関係や遺構配置などから縄文時代草創期のものである可能性が高い竪穴建物跡や土坑が複数検出されている[4]

縄文時代の特徴の一つとして、定住を基本とする生活様式が開始、定着することがあげられるが、本遺跡は、東日本において、竪穴、貯蔵穴、集石といった定住生活を支える一連の施設が備わっていく状況をよく示すとともに、同時期の遺跡の中では大規模なものであり、東日本における縄文時代的な生活様式の開始期の年代やその具体的な内容を考える上で、重要な意義をもつ。また、学史的にも著名な遺跡である[4]。そのため、国史跡に指定されている。

出典

  1. ^ 西鹿田中島遺跡史跡公園が完成しました!”. 群馬県みどり市. 2021年1月5日閲覧。
  2. ^ 西鹿田中島遺跡とは”. コトバンク. 朝日新聞. 2021年1月6日閲覧。
  3. ^ a b 西鹿田中島遺跡 文化遺産オンライン”. 文化庁. 2021年1月6日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h 国指定文化財等データベース”. 文化庁. 2021年1月5日閲覧。


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