総長辞任以後
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「マルティン・ハイデッガー」の記事における「総長辞任以後」の解説
1934年1月、カトリック学生同盟とドイツ学生同盟が学生同盟リプアリアの活動停止を求め2月に停止されたが、ナチ学生同盟の指導者シュテーベルによって取り消された。その結果、停止処分を訴えていた学生同盟指導者ミューレンが退任することとなり、ミューレンと協力関係にあったハイデッガーは、シュテーベルへ「当地においてカトリシズムが公的に勝利することはなどは、どうしてもあってはならないこと」としてミューレンの復帰を訴えた。 ハイデッガーの「改革」は大学内に内紛をもたらし、混乱を収拾できなくなったハイデッガーは1934年4月23日の会議で総長辞任を伝えた。ハイデッガーによれば、大管区学生指導者グスターフ・シェールらの「ハイデルベルクグループ」とフランクフルト大学のエルンスト・クリークらの妨害工作によって学長職を辞任せざるをえなかったという。また1933年10月1日に法学国家学部長にエーリク・ヴォルフ、医学部長にヴィルヘルム・フォン・メレンドルフを任命すると、文部省がこれを認可せず、他の人物に変更することを要求し、ハイデッガー学長は拒否したことが辞任につながったともハイデッガーは言っている。エーリク・ヴォルフ法学国家学部長就任にあたっては国民経済学者ヴァルター・オイケンとの対立があり、オイケンは副学長ザウアーに対してヴォルフはハイデッガー崇拝者であり正常ではないと申し立てた。 1934年5月、ハイデッガーはドイツ法律アカデミー法哲学委員会(委員長ハンス・フランク)に招聘された。 1934年6月30日から7月2日にかけて長いナイフの夜でエルンスト・レーム、グレゴール・シュトラッサーら突撃隊幹部が殺害された。ハイデッガーは、突撃隊の立場に近かったといわれ、アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックの用語(若き力など)、ナチス左派のグレゴールとオットーのシュトラッサー兄弟の用語を使っているとW.D.グードップは指摘している。ハイデッガーと親しかったドイツ学生同盟帝国指導者オスカー・シュテーベルもレームと非常に親しく、長いナイフの夜以後拘禁され、罷免された。ハイデッガーはレームに同調して、「大学こそは真の革命の出発点」とこの頃考えていた。総長辞任後のハイデッガーは「長いナイフの夜」による突撃隊路線の敗北、エルンスト・クリークらといったナチ党系の思想家との対立により、ややナチスとの距離を置くようになった。 1934年夏学期、フライブルク大学で「言葉の本質への問いとしての論理学」講義。 1934年8月3日、ヒンデンブルクドイツ国大統領死後、大統領職は首相職と合一され、大統領の権能は指導者兼首相(Führer und Reichskanzler)であるアドルフ・ヒトラー個人に移譲された。8月19日にこの措置の正統性を問う民族投票(ドイツ語版)が行われた際、ヒトラーを支持するドイツの学者声明(ドイツ学者によるヒトラー後援声明(ドイツ語版))が出された。声明では「ここにアドルフ・ヒトラーを国家の指導者として信任することを表明する。総統こそがドイツ民族をその困窮と重圧から救い出してくれるからである」とあり、ベルリン大学からは哲学者ニコライ・ハルトマン、遺伝学者オイゲン・フィッシャー、経済学者ヴェルナー・ゾンバルト、法学者カール・シュミット、哲学者フリードリヒ・アドルフ・トレンデンブルク、K.A.フォン・ミュラー、文学者ユリウス・ペーターゼン、ハイデルベルク大学からはフリードリヒ・パンツァー(Friedrich Panzer)、マールブルク大学からは心理学者W・イェンシュ、ミュンヘン大学からは地政学者カール・ハウスホーファー、グライフスヴァルト大学からF.A.クリューガー、ゲッティンゲン大学からH・マルティウス、フライブルク大学からはハイデッガーが署名した。 プロイセン大学教官アカデミー計画 ハイデッガーは1934年2月頃にはプロイセン大学教官アカデミーの会長候補となっていたが、マールブルク大学のW・イェンシュやエルンスト・クリークから否定的な覚書がナチ党人種政策局(Rassenpolitisches Amt der NSDAP)長ヴァルター・グロス(Walter Gross)のナチ党外交局(Außenpolitisches Amt der NSDAP)長ティーロ・フォン・トロータ(Thilo von Trotha)宛書簡で報告され、ローゼンベルクは「各方面からハイデッガー教授の人物に対する警告を耳にする」ため調査すると答えている。プロイセン大学教官アカデミー計画は、ケルン大学、ハレ大学、マールブルク大学、ケーニヒスベルク大学、ギーセン大学、キール大学、ブレスラウ大学、ゲッティンゲン大学、ミュンスター大学、ボン大学、ベルリン大学、フランクフルト大学、グライフスヴァルト大学の教官をプロイセン大学教官同盟に統合するという1933年10月11日の文部省通達にもとづき、ベルリンのプロイセン教官同盟の政治教育機関としてプロイセン大学教官アカデミーを設置するという計画であった。この計画を一任されていたのはヴィルヘルム・シュトゥッカートであり、シュトゥッカートは1933年にハイデッガーをベルリン大学に招聘しようとした。1934年8月28日のハイデッガーのシュトゥッカート宛書簡ではプロイセン大学教官アカデミー計画について、「教育的心構えを覚醒し強化すること」「これまでの学問をナチズムが問題とする方向およびナチズムの力から根本的に考え直すこと」「完成した世界観からなる教育的生活共同体としての将来の大学を念頭に置いて出撃準備を整える」、教師は「何よりもまずナチ党員でなければならない」とし、教育課題、大学施設、図書室、生徒数、生徒の選考、講習期間など詳細な計画を提案し、「今日の研究活動における、さなきだにアメリカニズムは克服されねばならず、将来はこれを避けねばならない」「これは個々の学派や個々の方針の一面的な支配を意味するのではなく、あらゆる事物の父の精神の中にある戦い、いやその中にこそある戦いだけが要求するもの」であると、ヘラクレイトスの言葉を使い説明した。しかし、こうした計画は、エルンスト・クリークは「ハイデッガーの手に委ねられる」と「取り返しのつかないことになる」とイェンシュに伝え、心理学者イェンシュらはハイデッガーはボイロンで心霊修行をしたり、学生にハイデッガーの文章を読解させた心理学実験では被験者は何も理解できていなかったという実験結果、またハイデッガーの哲学は「分裂症的なたわごと」であり、プロイセン大学教官アカデミー指導者にはエルンスト・クリークがこの職にふさわしい唯一の人物であると文部省のシュヴァルム博士に報告したが、文部省参事官アヘーリスはこの報告に反発し、今後このような干渉をすると懲戒処分になると伝えた。プロイセン大学教官アカデミー計画はナチ党世界観担当幹部の反対意見もあり実現しなかった。 1934年夏学期にハイデッガーはベルリン大学とドイツ政治大学で、帝国内務省局長アルトゥール・ギュット(Arthur Gütt0、ブラウンシュヴァイク州首相・親衛隊大将ディートリッヒ・クラッゲス(Dietrich Klagges)、ナチ党中央指導部経済政策委員会議長ベルンハルト・コーラー、国民啓蒙・宣伝省参事官ヤーンケ、副首相フランツ・フォン・パーペンらと講義シリーズを担当した。1934年冬学期のドイツ政治大学講義予告でも宣伝省ヨーゼフ・ゲッベルス、ヘルマン・ゲーリング、リヒャルト・ヴァルター・ダレ、アルフレート・ローゼンベルク、バルドゥール・フォン・シーラッハと並んでハイデッガーは掲載された。 1934年から1935年にかけての冬学期に「ヘルダーリンの讃歌『ゲルマーニエン』と『ライン』」講義を行った。 1935年夏学期、フライブルク大学で「形而上学入門」を講義し、このなかで「ヨーロッパは今日救いがたい盲目のままに、いつもわれと我が身を刺し殺そうと身構え、一方にはロシア、一方にはアメリカと、両方から挟まれて大きな万力のなかに横たわっている。ロシアもアメリカも形而上学的に見ればともに同じである。それは狂奔する技術と平凡人の無底の組織との絶望的狂乱である」「存在の問いを問うことは、精神を覚醒させるための本質的な条件のひとつであり、したがって歴史的現存在の根源的な世界のための、したがってまた世界の暗黒化の危険を制御するための、したがってまた西洋の中心である我がドイツ民族の歴史的使命を引き受けるための本質的な根本条件である」と述べた。また「形而上学入門」講義草稿では、ルドルフ・カルナップの「言語の論理的分析による形而上学の克服 」による批判に反論した。1935年秋、物理学者・哲学者カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー、ハイゼンベルクとトートナウベルク山荘で数日間対話する。1935年11月13日、ブライスガウ地方フライブルク芸術学協会で「芸術作品の起源」講演。1935年、W.F.オットーの求めでニーチェ全集刊行委員となり、以降「ニーチェ文庫」を訪れ、遺稿の刊行を提案する。1935年から1936年にかけての冬学期に「物への問い:カントの超越論的原則論に向けて」講義を行う。 ハイデッガーの妻エルフリーデ・ハイデッガー=ペトリは1935年、「女子高等教育についての母親の考え」を発表し、「軍人精神と闘争精神がすべての男性を戦友にするのと同様に、女性魂と母性愛がすべての女性を結びつける」と論じた。 1936年1月、チューリヒで「芸術作品の起源」講演。1936年夏学期、フライブルク大学で「シェリング『人間的自由の本質について』」を講義し、シェリングのこの著作はドイツ観念論の限界を越えて西洋哲学の頂点の一つと評価した。またこのシェリング講義が1971年に刊行された際に削除された一節には、「ムッソリーニとヒトラーはニヒリズムに抗する運動をそれぞれ異なった仕方で開始した存在であるが、両者ともに、しかしそれぞれまったく違った形で、ニーチェから学んでいる。しかし、それだけではニーチェの本来的な形而上学的領域は、真価を発揮するには至っていない」と語った。また冒頭で「やがて、ナポレオンがエアフルトでゲーテに<政治は運命である>といった言葉の持つ深い虚偽性が明るみに出るだろう。そうではなく、精神が運命であり、運命が精神である。しかし精神の本質は自由である」と、政治から精神を重視している。 1936年4月、ローマのドイツ学イタリア研究所で「ヘルダーリンと詩の本質」「ヨーロッパとドイツ哲学」の講演を行った。ハイデッガーの講演にはその頃イタリアにいたレーヴィットも出席し、レーヴィットと遠足に出かけた時もハイデッガーはナチス党の党員バッジをはずすことはなく、「ナチズムがドイツの発展の方向を指し示す道だと相変わらず確信していた」という。また、1935年、ユダヤ人との性交渉をするとアーリア人の血が汚れる等という記事を掲載する雑誌『シュテュルマー』の編集者ユリウス・シュトライヒャーがドイツ法律アカデミー法哲学委員会に入会したことをレーヴィットが聞くと、ハイデッガーは「シュトライヒャーについて言うことはなにもない。だって彼が編集している雑誌『突撃兵』はポルノグラフィー以外のなにものでもない。なぜヒトラーは彼を追放しないのかわからない」と述べた。
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