総長辞任以後とは? わかりやすく解説

総長辞任以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)

マルティン・ハイデッガー」の記事における「総長辞任以後」の解説

1934年1月カトリック学生同盟ドイツ学同盟学生同盟リプアリアの活動停止求め2月停止されたが、ナチ学生同盟指導者シュテーベルによって取り消された。その結果停止処分訴えていた学生同盟指導者ミューレン退任することとなり、ミューレン協力関係にあったハイデッガーは、シュテーベルへ「当地においてカトリシズム公的に勝利することはなどは、どうしてもあってはならないこと」としてミューレン復帰訴えたハイデッガーの「改革」は大学内に内紛もたらし混乱収拾できなくなったハイデッガー1934年4月23日会議総長辞任伝えたハイデッガーによれば大管区学生指導者グスターフ・シェールらの「ハイデルベルクグループ」とフランクフルト大学エルンスト・クリークらの妨害工作によって学長職を辞任せざるをえなかったという。また1933年10月1日法学国家学部長にエーリク・ヴォルフ、医学部長にヴィルヘルム・フォン・メレンドルフを任命すると、文部省がこれを認可せず、他の人物変更することを要求しハイデッガー学長拒否したことが辞任つながったともハイデッガー言っている。エーリク・ヴォルフ法学国家学部長就任にあたって国民経済学者ヴァルター・オイケンとの対立があり、オイケン副学長ザウアーに対してヴォルフハイデッガー崇拝者であり正常ではないと申し立てた1934年5月ハイデッガードイツ法律アカデミー法哲学委員会委員長ハンス・フランク)に招聘された。 1934年6月30日から7月2日にかけて長いナイフの夜エルンスト・レームグレゴール・シュトラッサー突撃隊幹部殺害された。ハイデッガーは、突撃隊立場近かったといわれ、アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックの用語(若き力など)、ナチス左派グレゴールオットーシュトラッサー兄弟の用語を使っているとW.D.グードップは指摘している。ハイデッガー親しかったドイツ学同盟帝国指導者オスカー・シュテーベルもレームと非常に親しく長いナイフの夜以後拘禁され罷免された。ハイデッガーレーム同調して、「大学こそは真の革命出発点」とこの頃考えていた。総長辞任後ハイデッガーは「長いナイフの夜」による突撃隊路線敗北エルンスト・クリークらといったナチ党系の思想家との対立により、ややナチスとの距離を置くようになった1934年学期フライブルク大学で「言葉本質への問いとしての論理学講義1934年8月3日、ヒンデンブルクドイツ国大統領死後大統領職首相職合一され、大統領権能指導者首相(Führer und Reichskanzler)であるアドルフ・ヒトラー個人移譲された。8月19日にこの措置正統性を問う民族投票ドイツ語版が行われた際、ヒトラー支持するドイツ学者声明ドイツ学者によるヒトラー後援声明ドイツ語版))が出された。声明では「ここにアドルフ・ヒトラー国家の指導者として信任することを表明する総統こそがドイツ民族をその困窮重圧から救い出してくれるからである」とあり、ベルリン大学からは哲学者ニコライ・ハルトマン遺伝学者オイゲン・フィッシャー、経済学者ヴェルナー・ゾンバルト法学者カール・シュミット哲学者フリードリヒ・アドルフ・トレンデンブルク、K.A.フォン・ミュラー、文学者ユリウス・ペーターゼン、ハイデルベルク大学からはフリードリヒ・パンツァー(Friedrich Panzer)、マールブルク大学からは心理学者W・イェンシュ、ミュンヘン大学からは地政学者カール・ハウスホーファーグライフスヴァルト大学からF.A.クリューガーゲッティンゲン大学からH・マルティウス、フライブルク大学からはハイデッガー署名したプロイセン大学教官アカデミー計画 ハイデッガー1934年2月頃にはプロイセン大学教官アカデミー会長候補となっていたが、マールブルク大学のW・イェンシュやエルンスト・クリークから否定的な覚書ナチ党人種政策局(Rassenpolitisches Amt der NSDAP)長ヴァルター・グロス(Walter Gross)のナチ党外交局(Außenpolitisches Amt der NSDAP)長ティーロ・フォン・トロータ(Thilo von Trotha)宛書簡で報告されローゼンベルクは「各方面からハイデッガー教授人物対す警告を耳にする」ため調査する答えている。プロイセン大学教官アカデミー計画は、ケルン大学ハレ大学マールブルク大学ケーニヒスベルク大学ギーセン大学キール大学ブレスラウ大学ゲッティンゲン大学ミュンスター大学ボン大学ベルリン大学フランクフルト大学グライフスヴァルト大学教官プロイセン大学教官同盟統合するという1933年10月11日文部省通達もとづきベルリンプロイセン教官同盟政治教育機関としてプロイセン大学教官アカデミー設置するという計画であった。この計画一任されていたのはヴィルヘルム・シュトゥッカートであり、シュトゥッカートは1933年ハイデッガーベルリン大学招聘ようとした1934年8月28日ハイデッガーのシュトゥッカート宛書簡ではプロイセン大学教官アカデミー計画について、「教育的心構え覚醒し強化すること」「これまでの学問ナチズム問題とする方向およびナチズムの力から根本的に考え直すこと」「完成した世界観からなる教育的生活共同体としての将来大学念頭に置いて出撃準備整える」、教師は「何よりもまずナチ党員でなければならない」とし、教育課題、大学施設図書室生徒数生徒選考講習期間など詳細な計画提案し、「今日研究活動における、さなきだにアメリカニズム克服されねばならず、将来はこれを避けねばならない」「これは個々学派個々方針一面的な支配意味するではなくあらゆる事物の父の精神中にある戦い、いやその中にこそある戦いだけが要求するもの」であると、ヘラクレイトス言葉使い説明した。しかし、こうした計画は、エルンスト・クリークは「ハイデッガーの手委ねられる」と「取り返しつかないことになる」とイェンシュに伝え心理学者イェンシュらはハイデッガーはボイロンで心霊修行をしたり、学生ハイデッガー文章読解させた心理学実験では被験者は何も理解できていなかったという実験結果、またハイデッガー哲学は「分裂症的なたわごと」であり、プロイセン大学教官アカデミー指導者にエルンスト・クリークがこの職にふさわしい唯一の人物であると文部省シュヴァルム博士報告したが、文部省参事官アヘーリスはこの報告反発し今後このような干渉をすると懲戒処分になると伝えたプロイセン大学教官アカデミー計画ナチ党世界観担当幹部反対意見もあり実現しなかった。 1934年学期ハイデッガーベルリン大学ドイツ政治大学で、帝国内務省局長アルトゥール・ギュット(Arthur Gütt0、ブラウンシュヴァイク州首相親衛隊大将ディートリッヒ・クラッゲス(Dietrich Klagges)、ナチ党中央指導部経済政策委員会議長ベルンハルト・コーラー、国民啓蒙・宣伝省参事官ヤーンケ、副首相フランツ・フォン・パーペンらと講義シリーズ担当した1934年冬学期ドイツ政治大学講義予告でも宣伝省ヨーゼフ・ゲッベルスヘルマン・ゲーリングリヒャルト・ヴァルター・ダレアルフレート・ローゼンベルクバルドゥール・フォン・シーラッハ並んでハイデッガー掲載された。 1934年から1935年にかけての冬学期に「ヘルダーリン讃歌『ゲルマーニエン』と『ライン』」講義行った1935年学期フライブルク大学で「形而上学入門」を講義しこのなかでヨーロッパ今日救いがたい盲目のままに、いつもわれと我が身刺し殺そう身構え一方にはロシア一方にはアメリカと、両方から挟まれ大きな万力のなかに横たわっている。ロシアアメリカ形而上学的に見ればともに同じである。それは狂奔する技術と平凡人の無底の組織との絶望的狂乱である」「存在問いを問うことは、精神覚醒させるための本質的な条件のひとつであり、したがって歴史的現存在根源的な世界のための、したがってまた世界暗黒化の危険を制御するための、したがってまた西洋中心である我がドイツ民族歴史的使命引き受けるための本質的な根本条件である」と述べた。また「形而上学入門講義草稿では、ルドルフ・カルナップの「言語論理的分析による形而上学克服 」による批判反論した1935年秋、物理学者哲学者カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーハイゼンベルクとトートナウベルク山荘数日間対話する1935年11月13日、ブライスガウ地方フライブルク芸術学協会で「芸術作品起源講演1935年、W.F.オットー求めニーチェ全集刊行委員となり、以降ニーチェ文庫」を訪れ遺稿刊行提案する1935年から1936年にかけての冬学期に「物への問いカント超越論的原則論向けて講義を行う。 ハイデッガーの妻エルフリーデ・ハイデッガー=ペトリ1935年、「女子高教育について母親考え」を発表し、「軍人精神闘争精神すべての男性戦友にするのと同様に女性魂と母性愛すべての女性結びつける」と論じた1936年1月チューリヒで「芸術作品起源講演1936年学期フライブルク大学で「シェリング人間的自由の本質について』」を講義しシェリングのこの著作ドイツ観念論限界越えて西洋哲学頂点一つ評価した。またこのシェリング講義1971年刊行された際に削除され一節には、「ムッソリーニヒトラーニヒリズム抗する運動それぞれ異なった仕方開始した存在であるが、両者ともに、しかしそれぞれまったく違った形で、ニーチェから学んでいる。しかし、それだけではニーチェの本来的な形而上学的領域は、真価を発揮するには至っていない」と語った。また冒頭で「やがて、ナポレオンエアフルトゲーテに<政治運命である>といった言葉の持つ深い虚偽性明るみに出るだろう。そうではなく精神運命であり、運命精神である。しかし精神本質は自由である」と、政治から精神重視している。 1936年4月ローマドイツ学イタリア研究所で「ヘルダーリンと詩の本質」「ヨーロッパドイツ哲学」の講演行ったハイデッガー講演にはその頃イタリアにいたレーヴィット出席しレーヴィット遠足に出かけた時もハイデッガーナチス党党員バッジをはずすことはなく、「ナチズムドイツ発展方向指し示す道だと相変わらず確信していた」という。また、1935年ユダヤ人との性交渉をするとアーリア人の血が汚れる等という記事掲載する雑誌シュテュルマー』の編集者ユリウス・シュトライヒャードイツ法律アカデミー法哲学委員会入会したことをレーヴィット聞くと、ハイデッガーは「シュトライヒャーについて言うことはなにもない。だって彼が編集している雑誌突撃兵』はポルノグラフィー以外のなにものでもない。なぜヒトラーは彼を追放しいのかわからない」と述べた

※この「総長辞任以後」の解説は、「マルティン・ハイデッガー」の解説の一部です。
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