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アルフレート・ローゼンベルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/02 03:34 UTC 版)

アルフレート・ローゼンベルク
Alfred Rosenberg
Bundesarchiv Bild 146-2005-0168, Alfred Rosenberg.jpg

ナチス・ドイツの旗 ドイツ
東部占領地域相

出生: 1893年1月12日
レヴァル(現タリン
死去: 1946年10月16日
ニュルンベルク
政党: Reichsadler der Deutsches Reich (1933–1945).svg 国家社会主義ドイツ労働者党

アルフレート・ローゼンベルクAlfred Rosenberg1893年1月12日 - 1946年10月16日)は、ドイツ政治家思想家国家社会主義ドイツ労働者党対外政策全国指導者(de:Außenpolitisches Amt der NSDAP)。第二次世界大戦期には東部占領地域大臣(de:Reichsministerium für die besetzten Ostgebiete)も務めた。ニュルンベルク裁判で死刑判決を受け処刑された。

目次

生涯

1893年ロシア帝国エストニアのレヴァル(現タリン)に、バルト・ドイツ人の靴職人の子として生まれ、その後はモスクワ建築家になるための勉強をしていたが、ロシア革命の影響を受けてドイツに住む。J. Rajandiによればローゼンベルクというのもユダヤの名だが、アルフレート・ローゼンベルクの場合、エストニア系である。

1918年ナチスに入党。トゥーレ協会の結社員でもあり、ディートリヒ・エッカートの友人としてアドルフ・ヒトラーの側近となった。ヒトラーはローゼンベルクが建築家としての修業をしていたという経歴を好んで重宝したとされる。1921年、ナチスの機関誌『フェルキッシャー・ベオバハター』(Völkischer Beobachter、「民族の観察者」の意)の編集責任者となった。

1923年11月8日ミュンヘン一揆を最初に計画し、翌日の失敗に至るまでヒトラーと行動を共にした。ヒトラーが刑務所に入っていたときには政治運動の采配を一時任され、党の代理総裁にも就任した。1924年にドイツ民族自由党と選挙での協力関係を結ぶことに同意し、5月の国会選挙では意外にも200万近い票を集めることに成功したが、決断力がなくインテリ型のローゼンベルクは、党員のいがみ合いを制止することができず、民族自由党との合同を維持することもできなくなり、国会でのナチスの議席を減らしてしまった。さらに、ヒトラーのはっきりした支持も得られなかった事も原因となって、代理総裁の座も途中で投げ出してしまった。

1933年には対外政策全国指導者に就任、1934年からはナチス理論の宣伝者として活動をはじめる。彼の組織の任務は、東ヨーロッパとバルカン諸国のファシスト集団との連絡を維持することであり、外務大臣の地位をヨアヒム・フォン・リッベントロップと争った。1939年にはエーリヒ・レーダーノルウェー国粋党の仲介などを行った。1940年フランクフルト・アム・マインユダヤ人問題研究所を設立した。1937年にはノーベル賞に対抗してナチス・ドイツが制定した「ドイツ芸術科学国家賞」を受賞する。

1941年に独ソ戦が始まると、ヒトラーに命じられて新しい占領地域に3つの弁務官区(Reichskommissariat)を作る計画を立案し、東部占領地域大臣に任命された。しかし東方におけるハインリヒ・ヒムラーヘルマン・ゲーリングらの権力争いのために名ばかりの任命となり、敗戦に至るまでその政争は続いた。1941年7月16日に行われた総統本営での会議では、占領したウクライナの住民に対して友好的な政策を採用してもらいたいと訴えるが、ヒトラーに一蹴された。

第二次世界大戦後の5月19日、イギリス軍によってフレンブルク=ミュルヴィクの海軍歩兵部隊の野戦病院で逮捕され、ニュルンベルク裁判により戦争犯罪人として絞首刑に処せられた。

人柄と思想

ローゼンベルクはヒトラーに忠実に仕え、ヒトラーも様々な地位を与えたが、ローゼンベルクはどれ一つとして首尾よくこなすことが出来なかった。ヒトラーは、彼を人種論の担当者、そして文化宣伝の責任者にしたが、最終的には彼を疎んじるようになっていった。ヒトラーの他の部下たちよりは人柄が高尚で、権力闘争はおろか自分の政策を実行するための根回しすらできないため、マルティン・ボルマンやコッホなどに重要な事柄が自分の権限を無視されて実現されることとなった。権力機構から見られるローゼンベルクの権力の大きさと、それに相反した発言力の無さは奇妙な印象を与えるが、これはローゼンベルクがナチス内部での権力闘争に敗北していた事を意味している。

初期の彼の民族論・文化論は、著書二十世紀の神話Der Mythus des 20.Jahrhunderts, 1930年)にまとめられている。しかしながら、その思想が偏狭で融通に欠けていることからヒトラーの側近には侮られ、後にはヨーゼフ・ゲッベルスにも「イデオロギーのげっぷ」と軽蔑された。彼の民族論によれば、人種の多元性を認め、未来のドイツ帝国から排除される人種はユダヤ人だけであるとしている。

それゆえか、ゲルマン民族以外は人類から排除するという徹底的な主張の持ち主であったヒムラーやボルマンらがヒトラーの信頼を勝ち得、ローゼンベルクは次第に実質的な権力を喪失していった。

又、リガ工科大学在学中より古代インドのアーリア人神話や神秘主義哲学に傾倒、ラスプーチングルジエフの影響を受けたロシア神秘主義サークルで修行を積んできたオカルティストでもあった。

しかし、近年では定型的な批判とは別に、ゴシック様式の評価などの内容をはじめ、思想的内容も常識的であるとする見方も思想史的に登場しつつある。






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