満洲国外交部とは? わかりやすく解説

満洲国外交部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:05 UTC 版)

杉原千畝」の記事における「満洲国外交部」の解説

1919年大正8年11月早稲田大学中途退学し、外務省官費留学生となった。この官費留学生募集では、英独仏語の講習募集行われず、英語で受験した千畝は当初スペイン語講習希望していたが、今後ロシア語重要性説く試験監督官の勧めロシア語講習となった官費留学生として中華民国ハルピン派遣されハルピン学院聴講生としてロシア語学んだハルピン学院学生過半数は、外務省満鉄、あるいは出身県の給費留学生であった当時の千畝は、三省堂から刊行されていたコンサイス露和辞典二つ割って左右ポケット一つずつ入れ寸暇を惜しんで単語一ページずつ暗記して破り捨てていくといった特訓自分課していたという。 1920年大正9年12月から1922年大正11年3月まで朝鮮駐屯陸軍歩兵第79連隊入営一年志願兵)。最終階級陸軍少尉1923年大正12年3月満州里(領事館)へ転学命令満州里領事代理考査では、ロシア語総合点は100点満点90であった。「一、二年前卒業任官留学生比較する遜色なし。むしろ正確優秀」という折り紙つきの評価を受け、生徒から教員として教え方に転じる1930年昭和5年)に日露協会学校卒業した佐藤四郎哈爾濱学院同窓会会長)は、「ドブラエ・ウートラ」(おはよう)と一言挨拶すると、謄写版刷りソビエト連邦新聞記事生徒たち配布して流暢なロシア語読み上げ解説する青年教師の千畝を回顧している。外務書記生の身分のまま母校ハルビン学院ロシア語講師務めることになった千畝は、ロシア語文法会話読解ソ連政治・経済および時事情勢などの講義担当した佐藤は「ロシア語の力は、日本人講師ずば抜けていた」と証言している。 1924年大正13年)に外務省書記生として採用されハルビン総領事館など経て1932年昭和7年)に満洲国外交部事務官転じた1926年大正15年)、600ページあまりにわたる報告書ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、 「本書大正十五十二月、在哈爾濱帝國總領事館杉原書記正の編纂に係はる。執務上の參考資すること多大なる認め、これを剞劂付す」【現代日本語訳=この本は、大正15年1926年12月ハルビン日本総領事館杉原書記官書き上げたもので、仕事をする上で大いに役立つと思いますので、これを出版します高い評価外務省から受け、26歳若さにして、ロシア問題エキスパートとして頭角をあらわす。 1932年昭和7年3月事実上日本傀儡国家として満洲国建国宣言されハルビン日本総領事館にいた千畝は、上司大橋忠一総領事要請満洲国政府外交部出向1933年昭和8年)、満洲国外交部では書記官としてソ連との北満洲鉄道東清鉄道譲渡交渉担当鉄道および付帯施設周到な調査ソ連側提示しソ連側当初要求額の6億2,500万円1億4,000万円にまで値下げさせた。ソ連側提示額は当時日本国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結大きな外交的勝利であった外務省人事課作成した文書には、杉原に関して外務省書記生たりしか滿州國成立と共に國外交部に入り政務俄國課長として北鐵譲渡交渉有力なる働をなせり」という記述見られる。 ところが、日本外交きってのロシア通」という評価得て間もなく1935年昭和10年)には満洲国外交部を退官満洲赴任時代1924年大正13年)に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚していたが、1935年昭和10年)に離婚。この在満の時期に、千畝は正教会洗礼受けた正教徒としての聖名洗礼名)は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」、つまりパウェルパウロ)である。 このハルビン在職期に千畝は、有名なシモン・カスペ(英語版殺害事件など、ユダヤ人中国人富豪誘拐・殺害事件を身近で体験することになった。これらの事件背後には、関東軍後援された、白系ロシア人ファシスト組織があった。 千畝は、破格金銭的条件関東軍橋本欣五郎から間諜スパイ)になるよう強要されたが、これを拒否。千畝自身言葉によれば驕慢、無責任出世主義一匹狼年若い職業軍人充満する満洲国へ出向三年宮仕えが、ホトホト厭」になって外交部辞任した。 かつてリットン調査団へのフランス語反駁文を起草し日本大陸進出疑問持っていなかった千畝は、この頃から「大日本帝国軍国主義」を冷ややかな目で見るようになる。千畝の手記には「当時日本では、既に軍人各所進出して横暴極めていたのであります。私は元々こうした軍人やり方には批判的であり、職業軍人利用されることは不本意ではあったが、日本軍国主義陰りは、その後ヨーロッパ勤務にもついて回りました」と、千畝には稀な激し言葉見られる。 千畝の拒絶対し関東軍は、前妻クラウディアが「ソ連側スパイである」という風説流布し、これが離婚決定的理由になった満洲国建前上は独立国だったが、実質上の支配者関東軍だったため、関東軍からの要請断り同時に満洲国官吏として勤務することは、事実上不可能だった満洲時代蓄え離婚の際に前妻クラウディアとその一族渡したため、ハルビン渡ったときと同じように、千畝はまた無一文になった。そこで、弟が協力して池袋に安い下宿先を見つけてくれた。帰国後の千畝は、知人の妹である菊池幸子結婚し日本の外務省復帰するが、赤貧杉原夫妻は、結婚式挙げるどころか記念写真一葉撮る金銭的余裕さえなかった。 手記のなかで千畝は「この国の内幕分かってきました。若い職業軍人が狭い了見で事を運び無理強いしているのを見ていやになった」と述べている。ソ連関東軍双方から忌避された千畝は、満洲国外交部を退職した理由尋ねられた際、関東軍横暴に対す憤慨から「日本人中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかったんだ」と幸子夫人答えている。

※この「満洲国外交部」の解説は、「杉原千畝」の解説の一部です。
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