満洲国外交部
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1919年(大正8年)11月、早稲田大学を中途退学し、外務省の官費留学生となった。この官費留学生の募集では、英独仏語の講習生募集は行われず、英語で受験した千畝は当初スペイン語の講習を希望していたが、今後のロシア語の重要性を説く試験監督官の勧めでロシア語講習生となった。官費留学生として中華民国のハルピンに派遣され、ハルピン学院で聴講生としてロシア語を学んだ。ハルピン学院の学生の過半数は、外務省や満鉄、あるいは出身県の給費留学生であった。当時の千畝は、三省堂から刊行されていたコンサイスの露和辞典を二つに割って左右のポケットに一つずつ入れ、寸暇を惜しんで単語を一ページずつ暗記しては破り捨てていくといった特訓を自分に課していたという。 1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営(一年志願兵)。最終階級は陸軍少尉。1923年(大正12年)3月、満州里(領事館)へ転学命令。満州里領事代理の考査では、ロシア語の総合点は100点満点の90点であった。「一、二年前の卒業任官の留学生と比較するも遜色なし。むしろ正確優秀」という折り紙つきの評価を受け、生徒から教員として教える方に転じる。1930年(昭和5年)に日露協会学校を卒業した佐藤四郎(哈爾濱学院同窓会会長)は、「ドブラエ・ウートラ」(おはよう)と一言挨拶すると、謄写版刷りのソビエト連邦の新聞記事を生徒たちに配布して流暢なロシア語で読み上げ解説する青年教師の千畝を回顧している。外務書記生の身分のまま母校・ハルビン学院でロシア語講師を務めることになった千畝は、ロシア語文法・会話・読解、ソ連の政治・経済および時事情勢などの講義を担当した。佐藤は「ロシア語の力は、日本人講師でずば抜けていた」と証言している。 1924年(大正13年)に外務省書記生として採用され、ハルビン総領事館などを経て、1932年(昭和7年)に満洲国外交部事務官に転じた。1926年(大正15年)、600ページあまりにわたる報告書『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、 「本書は大正十五年十二月、在哈爾濱帝國總領事館、杉原書記正の編纂に係はる。執務上の參考に資すること多大なるを認め、これを剞劂に付す」【現代日本語訳=この本は、大正15年(1926年)12月、ハルビンの日本総領事館の杉原書記官が書き上げたもので、仕事をする上で大いに役立つと思いますので、これを出版します】 高い評価を外務省から受け、26歳の若さにして、ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす。 1932年(昭和7年)3月、事実上の日本の傀儡国家として満洲国の建国が宣言され、ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で満洲国政府の外交部に出向。1933年(昭和8年)、満洲国外交部では書記官としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当。鉄道および付帯施設の周到な調査をソ連側に提示し、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4,000万円にまで値下げさせた。ソ連側の提示額は当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利であった。外務省人事課で作成した文書には、杉原に関して「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせり」という記述が見られる。 ところが、日本外交きっての「ロシア通」という評価を得て間もなく、1935年(昭和10年)には満洲国外交部を退官。満洲赴任時代、1924年(大正13年)に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚していたが、1935年(昭和10年)に離婚。この在満の時期に、千畝は正教会の洗礼を受けた。正教徒としての聖名(洗礼名)は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」、つまりパウェル(パウロ)である。 このハルビン在職期に千畝は、有名なシモン・カスペ(英語版)殺害事件など、ユダヤ人や中国人の富豪の誘拐・殺害事件を身近で体験することになった。これらの事件の背後には、関東軍に後援された、白系ロシア人のファシスト組織があった。 千畝は、破格の金銭的条件で関東軍の橋本欣五郎から間諜(スパイ)になるよう強要されたが、これを拒否。千畝自身の言葉によれば「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になって外交部を辞任した。 かつてリットン調査団へのフランス語の反駁文を起草し、日本の大陸進出に疑問を持っていなかった千畝は、この頃から「大日本帝国の軍国主義」を冷ややかな目で見るようになる。千畝の手記には「当時の日本では、既に軍人が各所に進出して横暴を極めていたのであります。私は元々こうした軍人のやり方には批判的であり、職業軍人に利用されることは不本意ではあったが、日本の軍国主義の陰りは、その後のヨーロッパ勤務にもついて回りました」と、千畝には稀な激しい言葉が見られる。 千畝の拒絶に対し、関東軍は、前妻クラウディアが「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、これが離婚の決定的理由になった。満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍だったため、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務することは、事実上不可能だった。 満洲時代の蓄えは離婚の際に前妻クラウディアとその一族に渡したため、ハルビンに渡ったときと同じように、千畝はまた無一文になった。そこで、弟が協力して池袋に安い下宿先を見つけてくれた。帰国後の千畝は、知人の妹である菊池幸子と結婚し、日本の外務省に復帰するが、赤貧の杉原夫妻は、結婚式を挙げるどころか記念写真一葉撮る金銭的余裕さえなかった。 手記のなかで千畝は「この国の内幕が分かってきました。若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになった」と述べている。ソ連と関東軍の双方から忌避された千畝は、満洲国外交部を退職した理由を尋ねられた際、関東軍の横暴に対する憤慨から「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかったんだ」と幸子夫人に答えている。
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