満洲国の成立と満鉄
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「満洲国」および「満洲国国有鉄道」も参照 第2次若槻内閣総辞職によって、立憲政友会の犬養毅に大命が下される一方、八方ふさがりの状態にあった関東軍が息を吹き返した。関東軍は1932年2月までに東三省のほとんどを占領し、2月5日のハルビン占領と7日以降の馬占山協力の姿勢をみて満洲独立政権の動きが急激に高まった。東三省の要人たちは本庄繁関東軍総司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。関東軍は、2月16日、奉天に黒竜江省長張景恵、奉天省長臧式毅、吉林省長煕洽、そして馬占山の「四巨頭」を集めて張景恵を委員長とする東北行政委員会を組織し、そこでは馬占山が黒竜江省長官に任命された。2月18日、「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」という、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。そして2月24日、元首の称号は執政、国号は満洲国、国旗は新五色旗、年号は大同の基本構想が立てられた。 1932年3月1日、張景恵宅において、上記「四巨頭」に熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞を加えた東北行政委員会が開かれ、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を執政とする満洲国の建国が宣言された。満洲国の首都は長春が選ばれて「新京」と命名され、国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。人口3,400万人、面積は現在の日本の約3倍の115万平方キロメートル、五族共和のスローガンが掲げられたものの、事実上の支配権は関東軍の手にある傀儡国家であった。3月10日、溥儀と鄭孝胥の間で秘密協定が結ばれ、満洲国の国防・治安維持費用は満洲国政府が負担すること、満洲国の鉄道その他社会資本は日本が管理すること、日本が必要とする各種施設は満洲国が準備すること、官吏に日本人を採用し、選任は関東軍司令官の推薦に委ねることが合意された。これは、のちの日満議定書で確認されることとなった。 犬養内閣は、積極外交を方針とする政友会中心の内閣であったが、それでも満洲国を即座には承認しなかった。3月12日、犬養は「満洲国承認に容易に行わざる件」を天皇に上奏し、天皇もそれを喜んだ。犬養首相はしかし、五・一五事件で暗殺され、これにより戦前の政党内閣は幕を閉じた。後継首相は斎藤実であった。斎藤内閣は政友会・民政党からの入閣を得て「挙国一致内閣」として成立したが、世論は満洲事変を熱狂的に支持しており、斎藤も1932年9月には日満議定書を結んで満洲国の承認に踏み切った。 1932年4月、軍部に批判的だった江口定条副総裁は憲政会に近いこともあって解任され、これを知らなかった内田康哉総裁が辞表を提出する事態となったが、内田は軍部の慰留を受けて辞任を撤回した。内田は、この年の7月、斎藤内閣の外務大臣に就任するため満鉄総裁を転出し、林博太郎が新総裁となった。 1932年8月8日、関東軍首脳に人事異動があり、軍司令官に武藤信義大将、軍参謀長に小磯国昭中将、参謀副長に岡村寧次少将が就任し、高級参謀板垣征四郎は関東軍司令部付に、同参謀石原莞爾は参謀本部付に転じた。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の在満洲国特命全権大使であったが、この8月8日をもって関東軍司令官が在満全権大使と関東庁長官を兼任することとなり、その権限は飛躍的に拡大した。関東軍はまた、極東ソ連軍の増強に対抗すべく、わずか1個師団であった戦力が急速に拡大された。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入った。関東軍のなかには、これを機に満鉄の組織を徹底的に改編しようという構想が培われていった。 1932年中、満鉄は関東軍の作戦範囲の拡大に応じて装甲列車を走らせるなど、作戦鉄道としての機能が全面的に発揮された。そして、3月の満洲国成立以降、中国東北にあった国有鉄道は満洲国政府が管轄することとなった。1933年2月9日、満洲国管轄下の鉄道(満洲国国有鉄道)は、南満洲鉄道が満洲国政府に対して供与する借款の担保というかたちで、満鉄が経営を委託された。委託経営することとなった既設の鉄道は2,939.1キロメートルであった。3月1日から委託経営が実施され、満鉄は奉天に鉄路総局を設置した。また、満鉄には鉄道新設の権限もあたえられ、同日、鉄道建設局を大連の本社内に置いた。これにより満鉄が本来所有する路線を「社線」、国鉄線(満洲国国有鉄道の路線)を「国線」と呼ぶようになった。こののち新線建設の計画が実施されたのは、長春 - 大賚 - 洮安間など旧来から懸案となっていた路線や、関東軍が対ソ作戦のために必要と認めた東満や北満の鉄道網であった。 なお、国内では1933年、日本共産党の最高幹部だった佐野学と鍋山貞親は獄中から転向声明を発したが、これを機に大量転向が現れた。かれら転向者には、統制経済や国家官僚を通じた計画経済に新たな期待を寄せ、国家社会主義をとなえる者が多かった。新国家満洲に新たな理想を求めた転向者も多く、満鉄には数多くの左翼運動からの転向者がいた。
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満洲国の成立と満鉄
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「満洲国」および「満州国国有鉄道」も参照 第2次若槻内閣総辞職によって、立憲政友会の犬養毅に大命が下される一方、八方ふさがりの状態にあった関東軍が息を吹き返した。関東軍は1932年2月までに東三省のほとんどを占領し、2月5日のハルビン占領と7日以降の馬占山協力の姿勢をみて満洲独立政権の動きが急激に高まった。東三省の要人たちは本庄繁関東軍総司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。関東軍は、2月16日、奉天に黒竜江省長張景恵、奉天省長臧式毅、吉林省長煕洽、そして馬占山の「四巨頭」を集めて張景恵を委員長とする東北行政委員会を組織し、そこでは馬占山が黒竜江省長官に任命された。2月18日、「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」という、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。そして2月24日、元首の称号は執政、国号は満洲国、国旗は新五色旗、年号は大同の基本構想が立てられた。 1932年3月1日、張景恵宅において、上記「四巨頭」に熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞を加えた東北行政委員会が開かれ、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を執政とする満洲国の建国が宣言された。満洲国の首都は長春が選ばれて「新京」と命名され、国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。人口3,400万人、面積は現在の日本の約3倍の115万平方キロメートル、五族共和のスローガンが掲げられたものの、事実上の支配権は関東軍の手にある傀儡国家であった。3月10日、溥儀と鄭孝胥の間で秘密協定が結ばれ、満洲国の国防・治安維持費用は満洲国政府が負担すること、満洲国の鉄道その他社会資本は日本が管理すること、日本が必要とする各種施設は満洲国が準備すること、官吏に日本人を採用し、選任は関東軍司令官の推薦に委ねることが合意された。これは、のちの日満議定書で確認されることとなった。 犬養内閣は、積極外交を方針とする政友会中心の内閣であったが、それでも満洲国を即座には承認しなかった。3月12日、犬養は「満洲国承認に容易に行わざる件」を天皇に上奏し、天皇もそれを喜んだ。犬養首相はしかし、五・一五事件で暗殺され、これにより戦前の政党内閣は幕を閉じた。後継首相は斎藤実であった。斎藤内閣は政友会・民政党からの入閣を得て「挙国一致内閣」として成立したが、世論は満洲事変を熱狂的に支持しており、斎藤も1932年9月には日満議定書を結んで満洲国の承認に踏み切った。 1932年4月、軍部に批判的だった江口定条副総裁は憲政会に近いこともあって解任され、これを知らなかった内田康哉総裁が辞表を提出する事態となったが、内田は軍部の慰留を受けて辞任を撤回した。内田は、この年の7月、斎藤内閣の外務大臣に就任するため満鉄総裁を転出し、林博太郎が新総裁となった。 1932年8月8日、関東軍首脳に人事異動があり、軍司令官に武藤信義大将、軍参謀長に小磯国昭中将、参謀副長に岡村寧次少将が就任し、高級参謀板垣征四郎は関東軍司令部付に、同参謀石原莞爾は参謀本部付に転じた。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の在満洲国特命全権大使であったが、この8月8日をもって関東軍司令官が在満全権大使と関東庁長官を兼任することとなり、その権限は飛躍的に拡大した。関東軍はまた、極東ソ連軍の増強に対抗すべく、わずか1個師団であった戦力が急速に拡大された。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入った。関東軍のなかには、これを機に満鉄の組織を徹底的に改編しようという構想が培われていった。 1932年中、満鉄は関東軍の作戦範囲の拡大に応じて装甲列車を走らせるなど、作戦鉄道としての機能が全面的に発揮された。そして、3月の満洲国成立以降、中国東北にあった国有鉄道は満洲国政府が管轄することとなった。1933年2月9日、満洲国管轄下の鉄道(満洲国国有鉄道)は、南満洲鉄道が満洲国政府に対して供与する借款の担保というかたちで、満鉄が経営を委託された。委託経営することとなった既設の鉄道は2,939.1キロメートルであった。3月1日から委託経営が実施され、満鉄は奉天に鉄路総局を設置した。また、満鉄には鉄道新設の権限もあたえられ、同日、鉄道建設局を大連の本社内に置いた。これにより満鉄が本来所有する路線を「社線」、国鉄線(満洲国国有鉄道の路線)を「国線」と呼ぶようになった。こののち新線建設の計画が実施されたのは、長春 - 大賚 - 洮安間など旧来から懸案となっていた路線や、関東軍が対ソ作戦のために必要と認めた東満や北満の鉄道網であった。 なお、国内では1933年、日本共産党の最高幹部だった佐野学と鍋山貞親は獄中から転向声明を発したが、これを機に大量転向が現れた。かれら転向者には、統制経済や国家官僚を通じた計画経済に新たな期待を寄せ、国家社会主義をとなえる者が多かった。新国家満洲に新たな理想を求めた転向者も多く、満鉄には数多くの左翼運動からの転向者がいた。
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