法成寺と藤原氏とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 法成寺と藤原氏の意味・解説 

法成寺と藤原氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 08:42 UTC 版)

法成寺」の記事における「法成寺と藤原氏」の解説

藤原道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」(『小右記』)の歌でも知られるように栄華極めたが、晩年浄土信仰傾倒し、病に苦しんだことから、寛仁3年1019年)に出家し土御門殿隣接する地に、九体阿弥陀堂建立発願し、翌年完成して無量寿院号した諸国受領奉仕を受け、続けて斎堂講堂経蔵道長正妻源倫子による西北院、金堂五大堂等と次々堂舎建てられ、その規模東西2町・南北3町に及び、伽藍豪壮極めた治安2年1022年)には法成寺寺号改め金堂五大堂落慶供養盛大になされた供養には道長の孫にあたる後一条天皇の他、東宮(後の後朱雀天皇)、いずれも道長の娘である太皇太后藤原彰子皇太后藤原妍子中宮藤原威子参加しその様子は『栄花物語』に詳しく描かれている。法成寺平等院の範となった寺院でもあり、当時鴨川方向から見れば、ちょうど宇治川方向から見た平等院のようであった思われる道長法成寺暮らしていたが、1027年死に臨んで東の五大堂から東橋渡って中島、さらに西橋渡り、西の阿弥陀堂入った。そして、九体の阿弥陀如来の手から自分の手まで糸を引き釈迦涅槃と同様、北枕西向き横たわり僧侶たちの読経の中、自身念仏を口ずさみ、西方浄土願いながら往生したといわれている。 道長死後も、長元3年1030年)に上東門院藤原彰子)により東北院建立され道長嫡男藤原頼通新堂建てる等、繁栄続いた天喜6年1058年2月23日全焼した(この時、宋から伝わった大蔵経一緒に焼けてしまった)ものの、頼通により直ち再建された。この時本薬師寺から塔が移されたとする記録が残る。 その後頼通嫡男藤原師実へと引き継がれたが、鎌倉時代入りたびたび大火兵火等の災難遭遇して伽藍荒廃した14世紀前半吉田兼好は『徒然草』の中で、無量寿院およびその9体の丈六仏法華堂のみが残っていることを記し世の無常例えとしている。 現在は法成寺があったことを示す石標が残るが、天喜6年全焼した際に東北院移転再建され左京区浄土寺真如町現存している。

※この「法成寺と藤原氏」の解説は、「法成寺」の解説の一部です。
「法成寺と藤原氏」を含む「法成寺」の記事については、「法成寺」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「法成寺と藤原氏」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「法成寺と藤原氏」の関連用語

1
10% |||||

法成寺と藤原氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



法成寺と藤原氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの法成寺 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS