法成寺と藤原氏
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藤原道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」(『小右記』)の歌でも知られるように栄華を極めたが、晩年浄土信仰に傾倒し、病に苦しんだことから、寛仁3年(1019年)に出家し、土御門殿に隣接する地に、九体阿弥陀堂の建立を発願し、翌年に完成して無量寿院と号した。 諸国受領の奉仕を受け、続けて十斎堂、講堂、経蔵、道長の正妻源倫子による西北院、金堂、五大堂等と次々に堂舎が建てられ、その規模は東西2町・南北3町に及び、伽藍は豪壮を極めた。治安2年(1022年)には法成寺と寺号を改め、金堂・五大堂の落慶供養が盛大になされた。供養には道長の孫にあたる後一条天皇の他、東宮(後の後朱雀天皇)、いずれも道長の娘である太皇太后藤原彰子・皇太后藤原妍子・中宮藤原威子も参加し、その様子は『栄花物語』に詳しく描かれている。法成寺は平等院の範となった寺院でもあり、当時、鴨川方向から見れば、ちょうど宇治川方向から見た平等院のようであったと思われる。 道長は法成寺で暮らしていたが、1027年、死に臨んで東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入った。そして、九体の阿弥陀如来の手から自分の手まで糸を引き、釈迦の涅槃と同様、北枕西向きに横たわり、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したといわれている。 道長の死後も、長元3年(1030年)に上東門院(藤原彰子)により東北院が建立され、道長の嫡男藤原頼通も新堂を建てる等、繁栄は続いた。天喜6年(1058年)2月23日に全焼した(この時、宋から伝わった大蔵経も一緒に焼けてしまった)ものの、頼通により直ちに再建された。この時本薬師寺から塔が移されたとする記録が残る。 その後、頼通嫡男の藤原師実へと引き継がれたが、鎌倉時代に入りたびたび大火・兵火等の災難に遭遇して伽藍は荒廃した。14世紀前半、吉田兼好は『徒然草』の中で、無量寿院およびその9体の丈六仏と法華堂のみが残っていることを記し、世の無常の例えとしている。 現在は法成寺があったことを示す石標が残るが、天喜6年に全焼した際に東北院は移転・再建され、左京区浄土寺真如町に現存している。
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