沈没事故とは? わかりやすく解説

沈没事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 08:24 UTC 版)

来福丸」の記事における「沈没事故」の解説

1925年4月19日18日午後)、小麦7400トンばら積みして、ボストン出港しドイツハンブルク港へ向け航海中、21日午前5時50分、ノバスコシア州ハリファックス南南東200海里北緯4132西経6141分 / 北緯41.533度 西経61.683度 / 41.533; -61.683付近で「暴風雨のため救命ボート全部破壊された。船体傾斜30度になり、航行不能至急救命乞う」との遭難通信発信当時海上風力9の時化だった。「来福丸」が無線電信打った遭難信号は、21日午前5時47分にイギリス客船「ホメリック(英語版)」(ホワイト・スター・ライン:34000総トン)により受信された。現場向かった「ホメリック」は、午前10時54分に「来福丸」を視認したが、すでに60度に大傾斜して転覆寸前の状態であった。「ホメリック」が写真撮影しながら見守る中、午前1155分に「来福丸」はカナダ沖の大西洋上北4143西経6139分 / 北緯41.717度 西経61.650度 / 41.717; -61.650の地点転覆沈没した。「ホメリック」は遭難乗組員白人含まれていないのを確認する救命ボート降ろすことはせず、12時3分に現場去った国際汽船会社22日来福丸遭難の報を受けると、直ち乗組員安否ニューヨーク出張所照会するとともに、Kライン所属船一隻遭難現場急派することにした。幸いボストン港には入港したばかりの同型の社船の「坡土蘭丸(ぽーとらんまる)」がいたので、炭水補給させ、ニューヨーク駐在員を乗せて23日出港させた。一方ニューヨーク出張所カナダ総領事館通してカナダ政府救援要請しカナダ政府海事部および漁業管理局救助船アルル英語版)」ほかをハリファックスから出港させて、捜索にあたらせた。カナダ海軍艦艇など数隻も救助出動したが、生存者遺留物発見できず、「来福丸」の乗員38人は全員死亡した。 「ホメリック」が救命ボート降ろなかったことについて、日本海事関係者などから最善尽くさなかったとして激し非難向けられた。十数名の乗員転覆後も船体しがみついていたのに、白人含まれていなかったため見殺しにしたとも報じられた。当時の『ニューヨーク・タイムズ』は、「ホメリック」の乗客の間でも救助活動が十分であった見解割れていることを報じている。 日本海組合海員協会抗議演説会開催し1925年5月開かれた国際労働機関第7回総会へも、救助活動での人種差別撤廃などを求める緊急議題労働者代表を通じて提出した。ただ、国際労働機関への議題提出期限過ぎていたこと、日本政府代表がイギリスとの外交関係悪化懸念したこと、内示受けたイギリス代表団が激しく反発したことなどから、正式議題には取り上げられなかった。 ホワイト・スター・ラインは「タイタニック」の船主であったことから、当時現地報道姿勢冷ややかだった。報道日本に伝わると激昂し感情論沸き起こった古くノルマントン号事件から日本は度々、不平等条約人種差別問題辛酸味わった経験から一般世論過敏であった本船沈没は、上記のように最期の姿まで確認され事故であるが、まったく地点異なバミューダトライアングルでの行方不明船として紹介されることがある例えノンフィクション作家のリチャード・ワイナー(英語版)の著書では、1925年1月パナマ運河抜けてニューヨークへ向かう途中バハマ近海で「短剣のような危険が迫っている。早く来てくれ。」との意味不明救難無線発信後に消息不明となった旨が述べられている。都市伝説化した

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沈没事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 03:48 UTC 版)

海研5号」の記事における「沈没事故」の解説

大気中の粒子汚染物質に関する調査のため、2014年10月9日安平港出港して金門向かった海研5号は、10日夕刻中心気圧900ヘクトパスカル達す強力な台風第19号ヴォンフォン接近による強風波浪のなか澎湖島南東海域暗礁接触右舷より浸水して沈没した海岸巡防署巡視船4隻とヘリコプターによって悪天候下の救助活動が行われ、乗船していた45名を収容して病院搬送したが、うち死亡2名の犠牲者出た

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沈没事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 16:04 UTC 版)

エストニア (クルーズフェリー)」の記事における「沈没事故」の解説

1994年9月27日19時、エストニアタリン出港し28日9時30分着の予定ストックホルム向かった。その途上1994年9月28日0時55分から1時50分(UTC+2)にかけて、航路上のバルト海エストニア沈没した

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沈没事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 03:01 UTC 版)

ぼりばあ丸」の記事における「沈没事故」の解説

1968年12月10日ぼりばあ丸ペルーサンニコラススペイン語版)で1、3、5番船倉鉄鉱石53,746トン積んで川崎港に向け出港1969年1月4日風力階級8の強風左舷船首から受けながら、8.7ノット平均速力航行していた。1月5日午前10時30分頃、千葉県野島崎南東沖合北緯33度0分東経14436分付近にて突然2番船倉付近から船首船体折損船首部脱落して航行不能となり、機関停止して遭難信号発し、非常退船準備入ったが、救命ボート降下準備中だった午前1127分、船倉内への大量浸水のため突如船首方向を下にし、垂直状になって沈没した付近航行中貨物船健島丸が、遭難信号受信して現場急行し12時過ぎに漂流していた2名を救助したが、船長を含む乗組員31が行不明となり、死亡認定された。 当時船体強度の不足と応力集中原因かもしれないとされたが(コンピューターによる構造シミュレーション当時まだできなかった)、原因解明本船のみの沈没では行えず、1972年11月28日行われた横浜地方海難審判庁裁決及び運輸省報告でも原因不明とされた。 しかし、ぼりばあ丸進水後及び定期検査において損傷多く発生していたことが明らかにされ、この後続いた5年未満新造バルクキャリア船型、鉱石運搬船連続沈没により、ようやく沈没原因全体像明らかになった。 ぼりばあ丸沈没至った主な原因としては、 水密隔壁数の不足(一般貨物船が9以上と規定されているが、ぼりばあ丸は7しかなかった) 隆起甲板横造(船体強度を増す目的採用されたが、今日では採用されていない適用基準不備ぼりばあ丸鉱石船、撒積貨物船規定ではなく一般貨物船規定造られていた) バラストタンク防食不備 鋼材問題低温脆性起こす高炭素鋼使われ可能性否定できない溶接不良指摘された。 就役からわずか3年3か月でのぼりばあ丸沈没は、社会大きな衝撃与え造船技術審議会鉱石運搬船特別部会を設置し当時運輸大臣対策答申した

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