沈没事故
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1925年4月19日(18日午後)、小麦7400トンをばら積みして、ボストンを出港し、ドイツのハンブルク港へ向け航海中、21日午前5時50分、ノバスコシア州ハリファックスの南南東200海里、北緯41度32分 西経61度41分 / 北緯41.533度 西経61.683度 / 41.533; -61.683付近で「暴風雨のため救命ボート全部破壊された。船体の傾斜30度になり、航行不能。至急救命乞う」との遭難通信を発信。当時の海上は風力9の時化だった。「来福丸」が無線電信で打った遭難信号は、21日午前5時47分にイギリス客船「ホメリック(英語版)」(ホワイト・スター・ライン:34000総トン)により受信された。現場に向かった「ホメリック」は、午前10時54分に「来福丸」を視認したが、すでに60度に大傾斜して転覆寸前の状態であった。「ホメリック」が写真撮影しながら見守る中、午前11時55分に「来福丸」はカナダ沖の大西洋上北緯41度43分 西経61度39分 / 北緯41.717度 西経61.650度 / 41.717; -61.650の地点で転覆沈没した。「ホメリック」は遭難乗組員に白人が含まれていないのを確認すると救命ボートを降ろすことはせず、12時3分に現場を去った。国際汽船会社は22日、来福丸遭難の報を受けると、直ちに乗組員の安否をニューヨーク出張所に照会するとともに、Kライン所属船一隻を遭難現場へ急派することにした。幸いボストン港には入港したばかりの同型の社船の「坡土蘭丸(ぽーとらんまる)」がいたので、炭水を補給させ、ニューヨーク駐在員を乗せて、23日出港させた。一方、ニューヨーク出張所はカナダ総領事館を通して、カナダ政府に救援を要請し、カナダ政府は海事部および漁業管理局の救助船「アルル(英語版)」ほかをハリファックスから出港させて、捜索にあたらせた。カナダ海軍艦艇など数隻も救助に出動したが、生存者も遺留物も発見できず、「来福丸」の乗員38人は全員死亡した。 「ホメリック」が救命ボートを降ろさなかったことについて、日本の海事関係者などから最善を尽くさなかったとして激しい非難が向けられた。十数名の乗員が転覆後も船体にしがみついていたのに、白人が含まれていなかったため見殺しにしたとも報じられた。当時の『ニューヨーク・タイムズ』は、「ホメリック」の乗客の間でも救助活動が十分であったか見解が割れていることを報じている。 日本海員組合と海員協会は抗議の演説会を開催し、1925年5月に開かれた国際労働機関の第7回総会へも、救助活動での人種差別撤廃などを求める緊急議題を労働者代表を通じて提出した。ただ、国際労働機関への議題提出期限が過ぎていたこと、日本政府代表がイギリスとの外交関係悪化を懸念したこと、内示を受けたイギリス代表団が激しく反発したことなどから、正式議題には取り上げられなかった。 ホワイト・スター・ラインは「タイタニック」の船主であったことから、当時の現地報道姿勢は冷ややかだった。報道が日本に伝わると激昂した感情論が沸き起こった。古くはノルマントン号事件から日本は度々、不平等条約、人種差別問題の辛酸を味わった経験から一般世論も過敏であった。 本船の沈没は、上記のように最期の姿まで確認された事故であるが、まったく地点の異なるバミューダトライアングルでの行方不明船として紹介されることがある。例えばノンフィクション作家のリチャード・ワイナー(英語版)の著書では、1925年1月にパナマ運河を抜けてニューヨークへ向かう途中、バハマ近海で「短剣のような危険が迫っている。早く来てくれ。」との意味不明の救難無線発信後に消息不明となった旨が述べられている。都市伝説と化した。
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沈没事故
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大気中の粒子状汚染物質に関する調査のため、2014年10月9日に安平港を出港して金門へ向かった海研5号は、10日夕刻、中心気圧900ヘクトパスカルに達する強力な台風第19号(ヴォンフォン)接近による強風・波浪のなか澎湖島南東海域で暗礁に接触、右舷より浸水して沈没した。海岸巡防署の巡視船4隻とヘリコプターによって悪天候下の救助活動が行われ、乗船していた45名を収容して病院へ搬送したが、うち死亡2名の犠牲者が出た。
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沈没事故
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「エストニア (クルーズフェリー)」の記事における「沈没事故」の解説
1994年9月27日19時、エストニアはタリンを出港し、28日9時30分着の予定でストックホルムへ向かった。その途上、1994年9月28日0時55分から1時50分(UTC+2)にかけて、航路上のバルト海でエストニアは沈没した。
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沈没事故
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1968年12月10日、ぼりばあ丸はペルーのサンニコラス(スペイン語版)で1、3、5番船倉に鉄鉱石計53,746トンを積んで川崎港に向け出港。 1969年1月4日、風力階級8の強風を左舷船首から受けながら、8.7ノットの平均速力で航行していた。1月5日午前10時30分頃、千葉県野島崎南東沖合、北緯33度0分東経144度36分付近にて突然2番船倉付近から船首船体が折損。船首部が脱落して航行不能となり、機関を停止して遭難信号を発し、非常退船準備に入ったが、救命ボート降下の準備中だった午前11時27分、船倉内への大量浸水のため突如船首方向を下にし、垂直状態になって沈没した。付近を航行中の貨物船健島丸が、遭難信号を受信して現場に急行し、12時過ぎに漂流していた2名を救助したが、船長を含む乗組員31名が行方不明となり、死亡認定された。 当時船体強度の不足と応力の集中が原因かもしれないとされたが(コンピューターによる構造シミュレーションは当時まだできなかった)、原因の解明は本船のみの沈没では行えず、1972年11月28日に行われた横浜地方海難審判庁の裁決及び運輸省の報告でも原因は不明とされた。 しかし、ぼりばあ丸の進水後及び定期検査において損傷が多く発生していたことが明らかにされ、この後に続いた5年未満の新造バルクキャリア船型、鉱石運搬船の連続沈没により、ようやく沈没原因の全体像が明らかになった。 ぼりばあ丸が沈没に至った主な原因としては、 水密隔壁数の不足(一般貨物船が9枚以上と規定されているが、ぼりばあ丸は7枚しかなかった) 隆起甲板横造(船体強度を増す目的で採用されたが、今日では採用されていない) 適用基準の不備(ぼりばあ丸は鉱石船、撒積貨物船の規定ではなく、一般貨物船の規定で造られていた) バラストタンクの防食不備 鋼材の問題(低温脆性を起こす高炭素鋼が使われた可能性を否定できない) 溶接不良 が指摘された。 就役からわずか3年3か月でのぼりばあ丸の沈没は、社会に大きな衝撃を与え、造船技術審議会は鉱石運搬船特別部会を設置し、当時の運輸大臣に対策を答申した。
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