朝鮮戦争以降
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朝鮮戦争が勃発すると、延辺では戦場に行くことを希望して入隊を申請した男女が1万9394人に達した。入隊志願者のほとんどは中国人民志願軍に従軍し、合計2万余人が参戦した。ちなみに中国の朝鮮戦争への参戦とともに開始された抗米援朝運動において、 吉林省延辺朝鮮自治州の朝鮮族だけでも青年4万6000人が参戦している。これらは韓国でも知られており、中華人民共和国のために韓国滅亡に共助したことで朝鮮族全体が憎悪される根深い差別の原因となっている。2021年時点でも韓国国内ではいつ中国政府側に立って、韓国を裏切るか疑わしい集団とみなされている。 彼らの多くは朝鮮の地理と言語に詳しかったため、各中隊に連絡員として配属された。彼らは朝鮮戦場における道先案内、宿営地調達、敵情偵察、対民衆宣伝、交渉などにあたり、これによって中国軍の偵察力、兵站の充実、夜間戦闘の卓越および追撃速度を高めた。 1949年1月21日、民族工作座談会が開催された。延辺専員公署専員を務めていた林春秋を代表とする側は、延辺を北朝鮮に帰属させ、東北地区居住朝鮮人問題を根本的に解決しようと主張した。ソ連から帰還した林民鎬を代表とする側は、朝鮮人が中国で血を流し命を捧げた事実とソ連の実例を挙げながら、延辺にソ連式の加盟共和国を成立させることを主張した。民族事務所長の朱徳海は「東北地区居住朝鮮人は100年前から中国に定着して中国人および他民族とともに荒蕪地を開拓し、共同して日本と戦ってきた。中国共産党が指導する自治を実施してこそ、東北地区居住朝鮮人は隆盛し発展することができる」と述べ、中国の領内における自治を提案した。会議はまとまらず、半月も続けられたが、朱徳海の提案は中共吉林省委の支持を得て中共中央も高い関心を寄せ、中国共産党と中央人民政府の指導下に充分な民族自治権利を享受することでようやく一致し、民族工作座談会は閉幕した。 中華人民共和国が成立すると、中国共産党は1952年、民族区域自治実施要綱を発表し、55の国内少数民族に自治権を付与した。これに伴い、吉林省南部に延辺朝鮮族自治区が誕生し、1955年には延辺朝鮮族自治州と改名され、自治州の州長には朝鮮族が就任している。首府・延吉には、朝鮮族のための高等教育機関である延辺大学も設置されている。 1990年代の中韓国交樹立以降、韓国へ移住または出稼ぎに行った朝鮮族は急増したため、朝鮮族村の高齢化・過疎化が目立ちになった。また、特に延辺朝鮮族自治州での朝鮮族の出生率は急落しているため、朝鮮族の人口が減少傾向を示しつつある。
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朝鮮戦争以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 02:15 UTC 版)
南漢山城も朝鮮戦争は避けることができず、城壁と城内の建物が破壊されるなど損害を受けた。李承晩大統領が南漢山城を国立公園に指定したが、四月革命後に樹立された第二共和国はこれを取り消し、1971年に道立公園として指定された。1975年から復元事業が始まり、1997年まで城壁5.1kmを修復した。現在城南市と広州市両方向に南漢山城を貫く道路は1974年に開通した。現在は城壁などの遺構が残る一方、ソウル市民や京畿道民のレジャースポットにもなっている。そのため休日には南漢山城の真ん中で登山者が暫く休むために造成された公園で酒宴が開かれている。しかし、2016年にJTBCに複数の簡易机が設置された周辺で違法な露店によってマッコリなどの酒やかまぼこなどのツマミが販売されていて、それを松林の下でマットを敷いて飲み食いしている韓国人や酔って登っている登山客が多数いるが山城管理所の車両は、城に沿って店主が大声を出して開店中の露店を見て見ぬふりをして通りすぎることが問題だと報道された。南漢山城の現実としてハイキングコース周辺を掘ると大量のゴミが埋まっていて、登山口の入り口に製造年月が1974年8月のゴミが棄てられているというように数十年に渡ってゴミが放置されていると報告された。 JTBCによると目に見える文化財は正常に保存されずに第1南漢城整備工事現場では立ち入り禁止の立て札は床に転がっていて、城に沿って各種建築資材も放置され、発掘された塀が雨風によって浸食されることを防ぐために必要な青いシートが破れてしまっている。昔の塀が追加で発見されたために既存の復元工事が中断された後、予算が足りず、追加で予算を受けて発掘と設計をしなければ即座に進行をすることができる部分は無いとして放置されている。南漢山城で出土した遺物保管の問題も解決されておらず、韓国政府は世界遺産登録時に遺物3000点余りを保持する博物館を建設するとユネスコに約束したが守っていない。ユネスコ世界文化遺産登録当時の南漢山城の価値を世界的に認められたと祝ったが、文化遺産を管理して維持しなければならない責任は果たさしていないために登録から2年が経過した2016年の南漢山城の姿はみすぼらしいと報道された。
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朝鮮戦争以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 01:13 UTC 版)
帰国後は、1952年に陸軍歩兵学校教官となり、歩兵士官養成課程の創設などに携わったほか、1956年に西ドイツの第7師団第86連隊第2大隊長を務めた。1959年には中佐に昇進した後、陸軍指揮幕僚大学教官となった。1963年からの2年間、在韓米軍軍事顧問団の一員として、再び韓国へ赴任することとなり、戦時防御体制や予備兵力動員体制、青瓦台防御などの基礎を考案し、領空防御の為の対空ミサイル部隊創設を軍事顧問団内で建議し、ミサイル部隊創設の主導的役割を担った。1965年に大佐に昇進して以降は、ヨーロッパやハワイなどに赴任し続け、1972年に退役した。 退役後はロサンゼルスに居を構え、全米日系人博物館や韓人健康情報センターなどの創設に尽力したり、ボランティア活動に従事するなどして余生を過ごしたが、朝鮮戦争時に負った傷の後遺症に苦しめられ、晩年は膀胱癌にも罹患し、幾度となく手術を受けることとなった。 2005年12月29日に死去。死後、キムの遺体はハワイ州ホノルル近郊の国立太平洋記念墓地「パンチボウル」に埋葬された。
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