朝鮮戦争以降とは? わかりやすく解説

朝鮮戦争以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 14:14 UTC 版)

朝鮮族」の記事における「朝鮮戦争以降」の解説

朝鮮戦争勃発すると、延辺では戦場に行くことを希望して入隊申請した男女1万9394人に達した入隊志願者のほとんどは中国人民志願軍従軍し合計2万余人が参戦したちなみに中国朝鮮戦争への参戦とともに開始された抗米援朝運動において、 吉林省延辺朝鮮自治州朝鮮族だけでも青年46000人が参戦している。これらは韓国でも知られており、中華人民共和国のために韓国滅亡共助したことで朝鮮族全体憎悪される根深い差別原因となっている。2021年時点でも韓国国内ではいつ中国政府側に立って韓国裏切るか疑わしい集団みなされている。 彼らの多く朝鮮地理言語詳しかったため、各中隊連絡員として配属された。彼らは朝鮮戦場における道先案内宿営地調達敵情偵察、対民衆宣伝交渉などにあたり、これによって中国軍偵察力、兵站充実夜間戦闘卓越および追撃速度高めた1949年1月21日民族工作座談会開催された。延辺専員公署専員を務めていた林春秋を代表とする側は、延辺北朝鮮帰属させ、東北地区居住朝鮮人問題根本的に解決しよう主張したソ連から帰還した林民鎬を代表とする側は、朝鮮人中国で血を流し命を捧げた事実ソ連実例挙げながら、延辺ソ連式の加盟共和国成立させることを主張した民族事務所長の朱徳海は「東北地区居住朝鮮人100年前から中国定着して中国人および他民族とともに荒蕪地を開拓し共同して日本戦ってきた。中国共産党指導する自治実施してこそ、東北地区居住朝鮮人隆盛発展することができる」と述べ中国領内における自治提案した会議まとまらず半月続けられたが、朱徳海提案中共吉林省委の支持得て中共中央も高い関心寄せ中国共産党中央人民政府指導下に充分な民族自治権利を享受することでようやく一致し民族工作座談会閉幕した中華人民共和国成立すると、中国共産党1952年民族区域自治実施要綱発表し55国内少数民族自治権付与したこれに伴い吉林省南部延辺朝鮮族自治区誕生し1955年には延辺朝鮮族自治州改名され自治州の州長には朝鮮族就任している。首府延吉には、朝鮮族のための高等教育機関である延辺大学設置されている。 1990年代中韓国交樹立以降韓国へ移住または出稼ぎ行った朝鮮族急増したため、朝鮮族高齢化過疎化目立ちになったまた、特に延辺朝鮮族自治州での朝鮮族出生率急落しているため、朝鮮族人口減少傾向示しつつある。

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朝鮮戦争以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 02:15 UTC 版)

南漢山城」の記事における「朝鮮戦争以降」の解説

南漢山城朝鮮戦争避けることができず、城壁城内建物破壊されるなど損害受けた李承晩大統領南漢山城国立公園指定したが、四月革命後に樹立され第二共和国はこれを取り消し1971年道立公園として指定された。1975年から復元事業始まり1997年まで城壁5.1kmを修復した。現在城南市広州市両方向に南漢山城を貫く道路1974年開通した。現在は城壁などの遺構が残る一方ソウル市民や京畿道民のレジャースポットにもなっている。そのため休日には南漢山城真ん中登山者暫く休むために造成された公園酒宴開かれている。しかし、2016年JTBC複数簡易設置され周辺違法な露店によってマッコリなどの酒やかまぼこなどのツマミ販売されていて、それを松林の下でマット敷いて飲み食いしている韓国人酔って登っている登山客が多数いるが山城管理所車両は、城に沿って店主大声出して開店中の露店見て見ぬふりをして通りすぎることが問題だと報道された。南漢山城現実としてハイキングコース周辺を掘ると大量ゴミ埋まっていて、登山口入り口製造年月が1974年8月ゴミ棄てられているというように数十年に渡ってゴミ放置されていると報告された。 JTBCによると目に見える文化財正常に保存されずに第1南漢整備工事現場で立ち入り禁止立て札は床に転がっていて、城に沿って各種建築資材放置され発掘された塀が雨風によって浸食されることを防ぐために必要な青いシート破れてしまっている。昔の塀が追加発見されたために既存復元工事中断された後、予算足りず追加予算受けて発掘設計をしなければ即座に進行をすることができる部分は無いとして放置されている。南漢山城出土した遺物保管問題解決されておらず、韓国政府世界遺産登録時に遺物3000余り保持する博物館建設するユネスコ約束した守っていない。ユネスコ世界文化遺産登録当時南漢山城価値世界的に認められたと祝ったが、文化遺産管理して維持しなければならない責任は果たさしていないために登録から2年経過した2016年南漢山城の姿はみすぼらしいと報道された。

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朝鮮戦争以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 01:13 UTC 版)

ヨンオク・キム」の記事における「朝鮮戦争以降」の解説

帰国後は、1952年陸軍歩兵学校教官となり、歩兵士官養成課程創設などに携わったほか、1956年西ドイツ第7師団86連隊第2大隊長を務めた1959年には中佐昇進した後、陸軍指揮幕僚大学教官となった1963年からの2年間、在韓米軍軍事顧問団一員として、再び韓国へ赴任することとなり、戦時防御体制予備兵力動体制青瓦台防御などの基礎考案し領空防御為の対空ミサイル部隊創設軍事顧問団内で建議しミサイル部隊創設主導的役割担った1965年大佐昇進して以降は、ヨーロッパハワイなどに赴任し続け1972年退役した退役後はロサンゼルスに居を構え全米日系人博物館韓人健康情報センターなど創設尽力したり、ボランティア活動従事するなどして余生過ごしたが、朝鮮戦争時負った傷の後遺症苦しめられ晩年膀胱癌にも罹患し幾度となく手術を受けることとなった2005年12月29日死去死後キム遺体ハワイ州ホノルル近郊国立太平洋記念墓地パンチボウル」に埋葬された。

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