新国家の形成
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白羊朝との戦いでサファヴィー教団はハイダル、シャイフ・アリーと2代の教主を立て続けに失い、サファヴィー教団をわずか7歳で継いだハイダルの次男でシャイフ・アリーの弟のイスマーイールは、1499年、12歳の時白羊朝の混乱に乗じて亡命先のギーラーンから檄文を発し、クズルバシュを決起させて兵をあげ、1501年、ついに白羊朝を破ってその都タブリーズを占領した。これにより建国されたサファヴィー朝はタブリーズを最初の都とする。イスマーイール1世はサファヴィー教団の教主であると同時に優れた資質をもった詩人でもあり、テュルク語で詩作してクズルバシュの宗教的情熱をかきたてた。こうしてサファヴィー朝は宗教的情熱に支えられ、クズルバシュの軍事力により、またたくまにペルシアの中部から西部を統一する。 1507年、ポルトガル海上帝国のホルムズ占領。 1510年、中央アジアに覇権を確立しヘラートに拠るティムール朝最後の政権を滅ぼして、ペルシア東部のホラーサーンに勢力を伸ばしつつあったシャイバーニー朝のシャイバーニー・ハーン率いるウズベク遊牧民の軍と、サファヴィー朝のイスマーイール1世率いるクズルバシュ遊牧民の軍は、ホラーサーンのメルヴで衝突した。この戦いはサファヴィー朝の圧勝に終わり、英主シャイバーニー・ハーンを失ったシャイバーニー朝の南下は挫かれることになった。
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新国家の形成
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1260年に即位したクビライは、モンゴル王朝で初めての中国風の元号(中統)を立て、漢人官僚を集めた行政府である中書省を新設した。中書省には六部が置かれて旧来の尚書省の機能を兼ねさせ、華北の庶政を取り仕切る最高行政機関とした。続いて軍政を司る枢密院、監察を司る御史台などの諸機関が相次いで設置されて、中国式の政府機関が一通り整備された。紙幣として諸路通行中統元宝交鈔を発行して、それまで他のモンゴルや漢人の諸侯も発行していた通貨を統一した。 アリクブケとの内紛の最中の中統3年(1262年)には山東を支配する漢人軍閥が反乱を起こし窮地に陥ったが、これを鎮圧したクビライは反乱をきっかけとして、華北の各地を支配していた在地軍閥を解体させた。これによりモンゴル皇帝であるカアンと皇族、モンゴル貴族、そして在地領主の間で錯綜していた華北の在地支配関係が整理され、地方には路・州・県の三階層の行政区が置かれた。至元4年(1267年)からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改められた。 このような一連の改革から、クビライの改革はモンゴル王朝の中国王朝化であり、クビライとアリクブケの対立は、中国文化に理解を示し帝国の中心を中国に移そうとする派と、あくまでモンゴル高原を中心と考える守旧派の対立として説明されることが多い。しかし、クビライの宮廷はあくまで遊牧の移動生活を保って大都と上都の間を季節移動しており、元はいまだ遊牧国家としての性格も濃厚であった。中書省の高官はクビライの夫人チャブイの甥にあたるアントンらモンゴル貴族の支配下にあり、州県の多くもモンゴルの王族や貴族の所領に分かたれていて、クビライの直接的な支配は限定的にしか及ばなかった。 また、クビライはチベット仏教の僧のパクパ(パスパ)を国師として仏教を管理させ、モンゴル語を表記する文字としてチベット文字をもとにパスパ文字を制定させるなど、モンゴル独自の文化政策を進めた。パスパ文字によるモンゴル語文は特にモンゴル帝国の公的な性格を持たせていたため、制定以後、元朝ではパスパ文字自体を「国字」や「蒙古字」あるいは「蒙古新字」と称した。クビライは華北支配を進める中で姚枢等の漢人系の諸侯や知識人の登用にも積極的だったが、歴代中華王朝の伝統的なイデオロギーである儒教は特別には重視しなかったため、科挙の復活もクビライのもとでは行われなかった。これは13世紀に入りモンゴル帝国との戦乱が続いた華北では長らく科挙が断続的にしか行われなかったため、クビライが即位した時期には漢人知識人達の間で科挙の有効性を疑問視する者も出て来た事も関係していた。しかしながら、クビライは華北支配にあたって漢学の必要性は十分認知していたようで、即位後にモンゴルの王族子弟に漢学を学ぶように命じており、クビライ自身も「堯・舜・孔子以下の経典・史書に記載されている嘉言、善政」の記録(主に『尚書』『五経要語』)等をモンゴル語に抄訳、上奏させた。また「魏徴のような人物を求めよ。そのような人物がいなければ、魏初に似たような人物を求めよ」というような聖旨をさえ出している。クビライに限らず、歴代もモンゴル宮廷では「見るべき『前代の帝王が天下を治める』文書」の収集に熱心だったようで、漢籍についても後の武宗カイシャン等の皇帝たちは『貞観政要』『帝範』『孝経』等の儒教系の漢籍類のモンゴル語訳もたびたび作らせてあるいは出版させており、近年発見されたカラホト文書のなかには漢文とウイグル文字モンゴル語で併記されたモンゴル語訳『孝経』の断片が発見されている。クビライによるモンゴル王侯への漢学奨励の結果、後のチンキム、英宗シデバラ、文宗トク・テムルら歴代の皇帝・皇族達の漢学愛好の気風が生じたといえる。
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