新国家の形成とは? わかりやすく解説

新国家の形成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 19:52 UTC 版)

サファヴィー朝」の記事における「新国家の形成」の解説

白羊朝との戦いでサファヴィー教団はハイダル、シャイフ・アリーと2代教主立て続け失いサファヴィー教団をわずか7歳継いだハイダルの次男でシャイフ・アリーの弟のイスマーイールは1499年12歳の時白羊朝混乱乗じて亡命先ギーラーンから檄文発しクズルバシュ決起させて兵をあげ、1501年、ついに白羊朝破ってその都タブリーズ占領した。これにより建国されサファヴィー朝タブリーズ最初の都とする。イスマーイール1世サファヴィー教団教主であると同時に優れた資質をもった詩人でもあり、テュルク語詩作してクズルバシュ宗教的情熱かきたてた。こうしてサファヴィー朝宗教的情熱支えられクズルバシュ軍事力により、またたくまペルシア中部から西部統一する1507年ポルトガル海上帝国ホルムズ占領1510年中央アジア覇権確立しヘラート拠るティムール朝最後政権滅ぼしてペルシア東部ホラーサーン勢力伸ばしつつあったシャイバーニー朝シャイバーニー・ハーン率いウズベク遊牧民の軍と、サファヴィー朝イスマーイール1世率いクズルバシュ遊牧民の軍は、ホラーサーンメルヴ衝突した。この戦いサファヴィー朝圧勝終わり英主シャイバーニー・ハーン失ったシャイバーニー朝南下は挫かれることになった

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新国家の形成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:57 UTC 版)

クビライ」の記事における「新国家の形成」の解説

1260年即位したクビライは、モンゴル王朝初めての中国風の元号中統)を立て漢人官僚集めた行政府である中書省新設した。中書省には六部置かれ旧来の尚書省機能兼ねさせ、華北庶政取り仕切る最高行政機関とした。続いて軍政司る枢密院監察司る御史台などの諸機関相次いで設置されて、中国式政府機関が一通り整備された。紙幣として諸路通中統元宝交鈔発行してそれまで他のモンゴル漢人諸侯発行していた通貨統一したアリクブケとの内紛最中中統3年1262年)には山東支配する漢人軍閥反乱起こし窮地陥ったが、これを鎮圧したクビライ反乱きっかけとして、華北各地支配していた在地軍閥解体させた。これによりモンゴル皇帝であるカアン皇族モンゴル貴族、そして在地領主の間で錯綜していた華北在地支配関係整理され地方には路・州・県の三階層の行政区置かれた。至元4年1267年)からは中都郊外中国式方形様式取り入れた都城大都建造開始至元8年11月乙亥1271年12月18日)に国号漢語で「大元」と改められた。 このような一連の改革から、クビライ改革モンゴル王朝中国王朝化であり、クビライアリクブケ対立は、中国文化理解示し帝国中心中国移そうとする派と、あくまでモンゴル高原中心考え守旧派対立として説明されることが多い。しかし、クビライ宮廷はあくまで遊牧移動生活を保って大都上都の間を季節移動しており、元はいまだ遊牧国家としての性格濃厚であった中書省高官クビライ夫人チャブイの甥にあたるアントンモンゴル貴族支配下にあり、州県の多くモンゴル王族貴族所領分かたれていて、クビライ直接的な支配限定的にしか及ばなかった。 また、クビライチベット仏教の僧のパクパパスパ)を国師として仏教管理させ、モンゴル語表記する文字としてチベット文字をもとにパスパ文字制定させるなど、モンゴル独自の文化政策進めたパスパ文字によるモンゴル語文は特にモンゴル帝国公的な性格持たせていたため、制定以後元朝ではパスパ文字自体を「国字」や「蒙古字」あるいは「蒙古新字」と称したクビライ華北支配進める中で姚枢等の漢人系の諸侯知識人登用にも積極的だったが、歴代中華王朝伝統的なイデオロギーである儒教特別に重視しなかったため、科挙復活クビライのもとでは行われなかった。これは13世紀入りモンゴル帝国との戦乱続いた華北では長らく科挙断続的にか行われなかったため、クビライ即位した時期には漢人知識人達の間で科挙有効性疑問視する者も出て来た事も関係していた。しかしながらクビライ華北支配にあたって漢学必要性は十分認知していたようで、即位後にモンゴル王族子弟漢学を学ぶように命じており、クビライ自身も「堯・舜孔子以下の経典史書記載されている嘉言善政」の記録(主に『尚書』『五経要語』)等をモンゴル語抄訳上奏させた。また「魏徴のような人物求めよそのような人物がいなければ、魏初に似たような人物求めよ」というような聖旨をさえ出している。クビライ限らず歴代モンゴル宮廷では「見るべき前代帝王天下治める』文書」の収集に熱心だったようで、漢籍についても後の武宗カイシャン等の皇帝たちは『貞観政要』『帝範』『孝経』等の儒教系の漢籍類のモンゴル語訳もたびたび作らせてあるいは出版させており、近年発見されカラホト文書なかには漢文ウイグル文字モンゴル語併記されモンゴル語訳『孝経』の断片発見されている。クビライによるモンゴル王侯への漢学奨励結果、後のチンキム英宗シデバラ文宗トク・テムル歴代皇帝・皇族達の漢学愛好気風生じたといえる

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