救難活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 04:01 UTC 版)
「プリンセンダム (客船)」の記事における「救難活動」の解説
1時19分の遭難信号を受信したのは周辺の船舶も同様であった。当時プリンセンダムの南方90マイルを航行していたVLCCタンカーウィリアムズバーグ(WILLIAMSBURGH、103,812t)はバルディーズからコーパスクリスティへ向かう定期航路上にあったが、SOSを受信して17ノットで北上を開始した。ウィリアムズバーグは全長332.9m(1092フィート)、全幅43.8m(143.7フィート)の当時アメリカ合衆国で建造された最大のタンカーであり、乗員こそ31人と少なかったがそのうち2人は通信士であった。荷の石油を満載していたため安定すると共に乾舷が低く、前方にヘリパッドと広大かつ平坦な甲板、数百人を収容できる船内スペースを有していた。石油タンカーソヒオ・イントレピッド(Sohio Intrepid、39,000t)とコンテナ船ポートランド(Portland)も遭難信号を受信し、プリンセンダムへと向かった。 ジュノーからリチャード・ショーエル(Richard Schoel)が救難作戦の指揮をとった。当時の水温は13℃(華氏55度)以下で水中での生存時間は1時間以下、乗客の年齢からはその半分程度と見積もられており、救難は時間との闘いになると考えられた。動員した勢力は、以下の通り。 投入された機材基地機材コディアック救難調整所 HH-3 2機、HC-130 2機 エルメンドルフ空軍基地(アンカレッジ) HH-3E 1機、HC-130 1機 シトカ救難調整所 HH-3 2機、設標船ウッドラッシュ(英語版) カナダ空軍(ブリティッシュコロンビア州) CH-113 ラブラドール 2機、CP-107 アーガス(英語版) 1機、CC-115 バッファロー 2機 ジュノー ハミルトン級カッターバウトウェル(英語版) バンクーバー近海 ハミルトン級カッターメロン(英語版) 4時には、コディアックからのHC-130が上空に入り現場での指示を出す体勢を作った。次いでシトカからのHH-3が現場海域に到着し、プリンセンダムの状態を確認したが、異常を発見することは出来なかった。プリンセンダムは、3時45分には前方にまで煙が及んでいたが、未だ負傷者は出しておらず、負傷者無しとの連絡を受けたHH-3は、消火機材の調達のため既に80km(50マイル)の距離に接近していたウィリアムズバーグに向かった。一方、ジュノーは町が出来て丁度100年目に当たる祝祭の最中であり、バウトウェルの乗員は24時間の上陸休暇を得ていた。このため警官や消防官を動員して乗組員の捜索を行い、出港準備を2時29分より開始したバウトウェルは4時にようやく出港した。 4時35分、エルメンドルフ救難調整所からの報告を受けてエルメンドルフ空軍基地からHH-3EとHC-130が出発、空軍仕様のHH-3Eは沿岸警備隊のHH-3と異なり空中給油が可能であり、捜索及び現場管制を担うHC-130にはHH-3Eへの給油能力があった。HH-3Eは軍医と空挺降下が可能なレスキューダイバーを含む5人を載せていた。ヤクタト方面に向けてポーテージ・パス(英語版)を抜けるショートカットルートで急行、カイアック島上空で空中給油を行い現場へ向かった。 4時54分それまで退船を避けていた船長は、天気予報の見通しこそ明るく無かったが、1.5m(5フィート)の波高と秒速4.4m(毎時10マイル)の風、14℃(華氏57度)の気温というそれまでよりも穏やかな状況と夜明けが近いといった理由で、ついにプリンセンダムからの退船を指示した。テンダーボート1隻はダビット(英語版)が作動せず使用できなかったが、他の7隻は無事乗客を収容することが出来た。6時30分、テンダーボート1隻、救命ボート6艘、救命いかだ4枚がプリンセンダムから脱出、船内には40人が残った。ウィリアムズバーグへ向かっていたHH-3は4.8km(3マイル)手前から引き返し、その機より消防を専門とする沿岸警備隊隊員がプリンセンダムに乗船した。だが、既に爆発によって開いた穴より海水が流れ込んで船体が傾いており、さらにポンプは機能せず、消火は果たせなかった。 7時45分、ウィリアムズバーグが現場海域に到着。だが、300m以上の巨大船は小回りがきかず、自ら接近することで衝突の危険性があった。手動式の救命ボートは60から65人乗りであったが、定員を大きく超えた人数が乗船していたため身動きが取れず、救命いかだは元より動力が無く、救命ボート1号以外は動力が作動しなかった。結果、救命ボート1号のみがウィリアムズバーグに接して救助された。 8時50分にエルメンドルフからの空軍機が到着、毛布と軍医をウィリアムズバーグに降ろすと救助作業に入った。9時35分には燃料補給のためヤクタトまで戻っていたシトカのHH-3が現場に戻った。5機のHH-3により、救命ボート・いかだからバスケットでつり上げ、ウィリアムズバーグまで輸送する作業が進行した。カナダ空軍が正午過ぎに到着、CH-113は救助用ホイストを用いて救助を行い、固定翼機は上空からの捜索を支援した。さらにバウトウェルが13時30分に到着し、救助作業に加わった。燃料補給のために帰還する機体は、数名を同時にヤクトカへ輸送していた。13時45分、1機のCH-113が電気系統の故障により航法装置が応答せず離脱したが、14時30分にはプリンセンダムから最後の一人となる船長を救出、救助作業は完了したかと思われた。健在であったCH-113は、燃料切れ寸前でエンジン1基がフレームアウトを起こしたもののヤクタトにたどり着いた。18時10分にバウトウェルから全員救助の報告がなされ、20時には一旦全員救助との扱いがなされた。 しかし、21時16分にエルメンドルフ空軍基地から行われた問い合わせにより、救命ボート6号の救助作業補助に降下した空軍のダイバー2名が未帰還であったことから誤報と判明した。この時点で降下した2人を含む20人程が取り残されていた。
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救難活動
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「エストニア (クルーズフェリー)」の記事における「救難活動」の解説
救難活動は、1979年の海上捜索救助に関する国際条約に基づき、事故海域に最も近いトゥルクの救難調整所がフィンランドの計画に従って調整を行った。バルト海は世界で最も混雑した海域であり、常に2000隻以上の船が航行していることから、遭難船の救命艇と近隣の船舶が第一に対応し、1時間後にヘリコプターによる救難活動を可能とする計画であった。この計画は、ほとんどの船では乗船者が少ないことから比較的少数の実例(2006年に3件)では機能しているものであった。 1時50分、トゥルクの救難調整所がヘルシンキの無線局経由で受け取った交信内容は、メーデーよりも緊急性に劣るパン-パンであった。全面的な緊急事態宣言が行われたのは、2時30分であった。
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救難活動
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「エルトゥールル号遭難事件」の記事における「救難活動」の解説
樫野埼灯台下に流れ着いた生存者のうち、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守は応急手当を行ったが、お互いの言葉が通じないことから国際信号旗を使用し、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦であることを知った。 通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風によって出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、米、卵やサツマイモ、それに非常用の鶏すら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還に成功した。その一方、司令官のオスマン・パシャを含めた587名は死亡または行方不明という大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき あまね)に伝えられた。 その後、付近を航行中だった船に大島港へ寄港してもらい、生存者2名が連絡のために神戸港へ向かった。神戸港に停泊中だったドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、生存者は神戸の和田岬消毒所へ搬送・収容された。沖村長は県を通じて日本政府に通報し、それを聞いた明治天皇は政府に可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、義捐金や弔慰金も寄せられた。
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