戦闘経緯とは? わかりやすく解説

戦闘経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 01:39 UTC 版)

ウェーク島の戦い」の記事における「戦闘経緯」の解説

日本側は当初航空戦基地航空隊陸上攻撃機)でウェーク島陸上施設破壊した後、艦船所属する陸戦隊だけでウェーク島占領する計画立てていた。だがウェーク島アメリカ軍守備隊兵力予想よりも多かったため、急遽特別陸戦隊2個中隊を追加したウェーク島攻略作戦そのものは、日本艦隊行動からアメリカ側警報与えないため、真珠湾攻撃から3日遅れて実施することになった日本軍1941年昭和16年12月8日開戦同時に攻撃開始した。まず5時10分、クェゼリン環礁ルオット島出発した24航空戦隊の九六式陸上攻撃機34機がウェーク島到達し、高度450mで爆撃開始した。この攻撃は高度3600mを飛行していた4機のF4F 戦闘機含め守備隊日本軍機にまったく気づいていなかった。飛行場砲台損害与え飛行場並んでいた8機のF4F 戦闘機は7機が全壊、1機はひどく壊れ、第211海兵戦闘飛行機55名のうち23戦死11名が負傷した負傷免れた整備員一人もいなかったが、整備員必死残存5機の整備修理おこなった昼過ぎにはウェーク島攻略部隊クェゼリン環礁出撃した。第24航空戦隊は12月9日千歳海軍航空隊陸上攻撃機27機で2度目空襲敢行F4F 戦闘機は1機撃墜記録した。翌10日にも陸上攻撃機26機で3度目空襲敢行したが、対空砲火熾烈となり、残存F4F 戦闘機必死に反撃陸上攻撃機1機が撃墜米軍記録2機撃墜)された。ウィルクス島の弾薬庫爆発し高射砲一門破壊した人的被害戦死1名負傷者4名だった。この間進撃中の攻略部隊幸先良い戦果報告のみを重視して油断しきっていたが、アメリカ側残存F4F 戦闘機爆弾懸吊できるよう改装し即製戦闘爆撃機仕立てて攻略部隊待ち受けた12月10日夜、呂65号潜水艦第七潜水戦隊、第27潜水隊)に誘導され攻略部隊ウェーク島沖に到着した夜闇利用しての上作戦計画である。日本側は上陸隊形整えたが、その日は波が高く攻略部隊の各艦は各々当の地点から舟艇発進させることとなった。ところが、「金龍丸」と「金剛丸」では陸戦隊乗せた大発動艇大発)をおろすのに難航したついには大発破壊転覆相次いだ攻略部隊上陸を一旦延期し巡洋艦駆逐艦は島に接近して艦砲射撃を行うことにした。12月11日米軍指揮官日本軍攻略船団発見巡洋艦からアウトレンジ砲撃されることを警戒しぎりぎりまで射撃をしないよう部下達厳命した。3時25分にまず軽巡3隻(夕張天龍龍田)が、続いて3時43分に駆逐隊砲撃開始した4時ウェーク島砲台近寄ってきた攻略部隊に対して反撃開始ウェーク島米軍砲台を「叩き潰した」と信じきっていた攻略部隊驚かせた。まずウェーク島ピーコック岬のA砲台旗艦夕張」を砲撃し、「夕張」は煙幕展開する南へ避退した。4時3分、ウィルクス島沖で砲撃行っていた「疾風」が轟沈米軍側はウィルクス島L砲台による戦果認定している。ビール島のB砲台駆逐艦2隻(米軍側は弥生睦月記録)と交戦し、2隻は煙幕展開して避退した。付近には一旦降ろした大発ひしめき合い、艦が密集し身動き取り辛いところに砲台からの砲弾次々と降り注ぎF4F 戦闘機攻撃繰り返した砲戦開始から20分も経過しないうちに、梶岡司令官撤退命令出した攻略部隊砲台射程外へ退避したが、日本軍航空攻撃警戒して上空待機していたF4F 戦闘機4機は『用が済んでいなかった』。4機は弾薬燃料補給繰返しながら9回も出撃F4F 隊は逃走する日本艦隊夕張天龍龍田)を爆撃し第十八戦隊天龍龍田)は機銃掃射死傷者出した。5時42分、攻略部隊各艦と共に退避中の「如月」は、ウェーク島ピーコック岬沖地点F4F 戦闘機襲撃され100ポンド(約45キロ爆弾1発が命中、同艦は爆沈した。F4F 戦闘機はさらに追い討ちをかけ、「金剛丸」を機銃掃射して搭載していたガソリン炎上させた。各艦(弥生睦月望月追風哨戒艇32号哨戒艇33号)も襲撃され、各艦とも死傷者続出する海上状況依然として悪く時刻改めての奇襲上陸見込み事実上潰えた攻略部隊各艦はクェゼリン環礁退却することとなった米軍戦死者1名、負傷者4名、F4F 戦闘機1機が被弾により不時着し全壊となったが、守備隊戦力尽きようとしていた。12月13日日本軍攻略部隊クェゼリン環礁帰投した。12月14日F4F 戦闘機1機は着陸失敗して飛行不能となった12月20日飛行可能なF4F は2機に減少した

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戦闘経緯

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ウェーク島の戦い」の記事における「戦闘経緯」の解説

攻略部隊21日4時30分、再度出撃した。同じ頃、南雲機動部隊から分派された第八戦隊司令官阿部弘毅少将旗艦利根」)指揮下の第二航空戦隊司令官山口多聞少将旗艦蒼龍」)は南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官指揮下に入りウェーク島西方300海里地点空母2隻(蒼龍飛龍)より戦闘機18機、艦上爆撃機29機、艦上攻撃機2機を発進ウェーク島に対して空襲行った。これに呼応して千歳海軍航空隊陸上攻撃機27機がウェーク島空襲した。22日第二航空戦隊戦闘機6機、艦上攻撃機33機でウェーク島対す2回目空襲実施攻撃隊がウェーク島上空達した時、その上空には F4F 戦闘機2機が待ち伏せていた。 F4F 戦闘機寡兵ながら攻撃に対して奇襲敢行し、艦上攻撃機2機を撃墜したこのうちの1機は、水平爆撃名手として知られ真珠湾攻撃の際に艦攻隊の誘導機務めた金井一等飛行兵曹機であった直後F4F 戦闘機全て撃墜された。 攻略部隊順調にウェーク島接近22日午後に上陸戦隊形占位し、誘導潜水艦頼りウェーク島南岸接近していった。21時、上陸命令令され、これと同時に18戦隊ウェーク島東岸移動して陽動作戦実施した第六戦隊洋上展開して上陸支援敵艦隊に備えた。しかし、この日も海上状況悪く大発降ろすのに順調さを欠いたため、ついに哨戒艇2隻(第32号、第33号)が海岸擱座陸戦隊上陸させた。それに続き各艦(金龍丸、睦月追風)からも陸戦隊大発ウェーク島南岸ウィルクス島に上陸した上陸した陸戦隊のうち、舞鶴特陸一個中隊本隊砲台機銃陣地真正面上陸し猛烈な反撃受けて中隊長戦死した。第6根拠地隊一個中隊ウィルクス島に上陸。これまた猛烈な反撃を受け、小隊全滅等の損害出した舞鶴第二特陸一個中隊負傷者続出。凄まじい彼我銃火応酬により、23日になって戦線こう着態となった。日本軍米軍がいりくんで戦ったため、洋上日本艦隊艦砲射撃もできなくなった戦況一気日本側に傾いたのは、舞鶴特陸一個中隊のうちの決死隊働きよるものである。決死隊反撃かわしてアメリカ軍捕虜道案内として進撃中、飛行場近辺海兵隊指揮官ジェームズ・デベル少佐捕虜とした。さらに進撃すると、ジープ乗った将校発見尋問結果将校ウェーク島守備隊指揮官ウィンフィールド・カニンガム中佐だった。決死隊カニンガム中佐捕虜としてジープ乗せ白旗掲げて戦線を回らせ降伏呼びかけさせた。この結果7時45分ごろにはウェーク島からの砲声途絶え四方状況からアメリカ軍守備隊降伏判断された。残敵掃討後の12月23日10時40分、日本軍ウェーク島の完全攻略宣言通報したこれをもって第二航空戦隊第八戦隊南洋部隊第四艦隊)の指揮下を離れた12月29日、6隻(利根筑摩蒼龍飛龍浦風谷風)は呉に到着した

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戦闘経緯

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シュガーローフの戦い」の記事における「戦闘経緯」の解説

5月12日 安謝川渡河後、第22海兵連隊G中隊安里川目指し進撃中に小さな丘に直面、これを占領するため、戦車1個小隊支援の攻撃開始した。この時点でこの丘は戦略上重要視されておらず、単に進撃途中の1拠点であった。 しかし、丘に向かったG中隊は、日本軍十字砲火浴び戦車隊激し対戦車攻撃前進阻まれ煙幕の中を撤退せざるを得ない状況陥った日没までに半数上の兵士死傷したため、G中隊事実上壊滅した5月13日 この日、E中隊とF中隊の2個中をもって、丘を攻撃したものの、前日のG中隊と全く同じ状況陥った。丘にたどり着いた中隊は、激し日本軍十字砲火浴びて後退余儀なくされた。 5月14日 この日、シュガーローフ攻撃担当していた第22海兵連隊第2大隊は、前日までに消耗していた配下のE中隊、F中隊、G中隊の全兵力使ってシュガーローフ攻撃敢行した。日没までにF中隊は丘に張り付いたが、激し日本軍攻撃の中、大隊本部連絡取れなくなってしまった。大隊幕僚コートニー少佐日没後、大隊残存兵力結集し丘の救援向かったが、激し日本軍迫撃砲攻撃兵力見る間に減少していった。 大隊本部は、深夜になって炊事兵通信兵憲兵掻き集め、丘に送り込んだものの夜半には丘を維持できなくなり、さらに午前3時頃には新たな増援としてK中隊送り込んだ。しかし日本軍攻撃の手緩めず頂上部では稜線挟んで激し手榴弾投擲合戦続いた。(後にこの峰はハンドグレネードリッジと呼ばれた)。 コートニー少佐はこの晩の戦闘戦死し、後に名誉勲章授与された。 5月15日 夜明けと共に、第29海兵連隊D中隊が、シュガーローフ救援向かい、丘を維持していた部隊交代した。しかし視界が利くようになった日本軍は、周囲の丘からシュガーローフ十字砲火浴びせて海兵隊シュガーローフ周辺部からも一掃してしまった。 第29海兵連隊D中隊には、カレッジフットボールスター選手通称アイリッシュこと、ジョージ・マーフィー中尉がいたが、この日の戦闘戦死した。さらに、この朝、大隊本部日本軍迫撃砲弾直撃し大隊長や、通信兵戦車中隊長戦死し配下中隊長負傷してしまった。 5月16日 ようやく米軍は、2つの丘からなる日本軍防御網の全体像把握し始めており、シュガーローフハーフムーン同時に攻撃しなければ残った丘から十字砲火浴びて撃退されてしまうことに気が付き始めていた。 このため、この日は、1個連隊もの兵力動員して総攻撃実施した。しかし、首里高地からの砲撃含めた激し日本軍攻撃前に支援の戦車隊次々と撃破され、またしても歩兵部隊十字砲火浴びて撃退されてしまった。さらに撤退途中部隊にも容赦なく銃弾浴びせられ死傷者増大していった。結局、この日も丘を掌握できずに、第6海兵師団にとって、最悪1日となった5月17日 この日は、第22海兵連隊及び、第29海兵連隊部隊により、再び連隊規模攻撃実施した。しかし、海兵隊またしても日本軍激し攻撃により、シュガーローフ制圧できなかったが、日没までにハーフムーン一部掌握し翌日攻撃路を確保できた。日本軍も、絶え間ない艦砲射撃空爆、あるいは夜間の斬り込み攻撃により、かなり消耗しており、陸軍正規兵の姿は少なくなり、海軍支援部隊や、沖縄義勇兵辛うじて戦線維持している状況になってきた。 5月18日29海兵連隊は、前日攻撃ハーフムーン北側進入路確保しており、有利な位置から攻撃開始した。既に日本軍対戦車網も消耗していたため、この日、はじめてシュガーローフ南側まで戦車隊前進させることに成功し一気シュガーローフ占拠反対側の斜面戦車隊掃討し、遂にシュガーローフ米軍側に手におちた。その後、第6海兵師団最後予備部隊、第4海兵連隊投入され一帯掌握した

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