戦闘経緯
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日本側は当初、航空戦(基地航空隊の陸上攻撃機)でウェーク島の陸上施設を破壊した後、艦船に所属する陸戦隊だけでウェーク島を占領する計画を立てていた。だがウェーク島のアメリカ軍守備隊の兵力が予想よりも多かったため、急遽特別陸戦隊2個中隊を追加した。ウェーク島攻略作戦そのものは、日本艦隊の行動からアメリカ側に警報を与えないため、真珠湾攻撃から3日遅れて実施することになった。 日本軍は1941年(昭和16年)12月8日の開戦と同時に攻撃を開始した。まず5時10分、クェゼリン環礁のルオット島を出発した第24航空戦隊の九六式陸上攻撃機34機がウェーク島へ到達し、高度450mで爆撃を開始した。この攻撃は高度3600mを飛行していた4機のF4F 戦闘機を含め、守備隊は日本軍機にまったく気づいていなかった。飛行場と砲台に損害を与え、飛行場に並んでいた8機のF4F 戦闘機は7機が全壊、1機はひどく壊れ、第211海兵戦闘飛行機隊55名のうち23名戦死・11名が負傷した。負傷を免れた整備員は一人もいなかったが、整備員は必死で残存5機の整備と修理をおこなった。昼過ぎにはウェーク島攻略部隊がクェゼリン環礁を出撃した。第24航空戦隊は12月9日に千歳海軍航空隊の陸上攻撃機27機で2度目の空襲を敢行。F4F 戦闘機は1機撃墜を記録した。翌10日にも陸上攻撃機26機で3度目の空襲を敢行したが、対空砲火は熾烈となり、残存の F4F 戦闘機も必死に反撃。陸上攻撃機1機が撃墜(米軍記録2機撃墜)された。ウィルクス島の弾薬庫が爆発し、高射砲一門を破壊したが人的被害は戦死1名負傷者4名だった。この間、進撃中の攻略部隊は幸先良い戦果報告のみを重視して油断しきっていたが、アメリカ側も残存の F4F 戦闘機を爆弾が懸吊できるよう改装し、即製の戦闘爆撃機に仕立てて攻略部隊を待ち受けた。 12月10日夜、呂65号潜水艦(第七潜水戦隊、第27潜水隊)に誘導された攻略部隊はウェーク島沖に到着した。夜闇を利用しての上陸作戦計画である。日本側は上陸隊形を整えたが、その日は波が高く、攻略部隊の各艦は各々適当の地点から舟艇を発進させることとなった。ところが、「金龍丸」と「金剛丸」では陸戦隊を乗せた大発動艇(大発)をおろすのに難航した。ついには大発の破壊や転覆が相次いだ。攻略部隊は上陸を一旦延期し、巡洋艦や駆逐艦は島に接近して艦砲射撃を行うことにした。12月11日、米軍指揮官は日本軍攻略船団を発見、巡洋艦からアウトレンジ砲撃されることを警戒し、ぎりぎりまで射撃をしないよう部下達に厳命した。3時25分にまず軽巡3隻(夕張、天龍、龍田)が、続いて3時43分に駆逐隊が砲撃を開始した。4時、ウェーク島の砲台が近寄ってきた攻略部隊に対して反撃を開始、ウェーク島の米軍砲台を「叩き潰した」と信じきっていた攻略部隊を驚かせた。まずウェーク島ピーコック岬のA砲台が旗艦「夕張」を砲撃し、「夕張」は煙幕を展開すると南へ避退した。4時3分、ウィルクス島沖で砲撃を行っていた「疾風」が轟沈、米軍側はウィルクス島L砲台による戦果と認定している。ビール島のB砲台は駆逐艦2隻(米軍側は弥生、睦月と記録)と交戦し、2隻は煙幕を展開して避退した。付近には一旦降ろした大発がひしめき合い、艦が密集し身動きが取り辛いところに砲台からの砲弾が次々と降り注ぎ、 F4F 戦闘機は攻撃を繰り返した。砲戦開始から20分も経過しないうちに、梶岡司令官は撤退命令を出した。 攻略部隊は砲台の射程外へ退避したが、日本軍の航空攻撃を警戒して上空に待機していたF4F 戦闘機4機は『用が済んでいなかった』。4機は弾薬と燃料の補給を繰返しながら9回も出撃。F4F 隊は逃走する日本艦隊(夕張、天龍、龍田)を爆撃し、第十八戦隊(天龍、龍田)は機銃掃射で死傷者を出した。5時42分、攻略部隊各艦と共に退避中の「如月」は、ウェーク島ピーコック岬沖地点でF4F 戦闘機に襲撃され、100ポンド(約45キロ)爆弾1発が命中、同艦は爆沈した。F4F 戦闘機はさらに追い討ちをかけ、「金剛丸」を機銃掃射して搭載していたガソリンを炎上させた。各艦(弥生、睦月、望月、追風、哨戒艇32号、哨戒艇33号)も襲撃され、各艦とも死傷者が続出する。海上の状況も依然として悪く、時刻を改めての奇襲上陸の見込みも事実上潰えた。攻略部隊各艦はクェゼリン環礁に退却することとなった。米軍の戦死者1名、負傷者4名、F4F 戦闘機1機が被弾により不時着して全壊となったが、守備隊の戦力は尽きようとしていた。12月13日、日本軍攻略部隊はクェゼリン環礁に帰投した。12月14日、F4F 戦闘機1機は着陸に失敗して飛行不能となった。12月20日、飛行可能なF4F は2機に減少した。
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戦闘経緯
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攻略部隊は21日朝4時30分、再度出撃した。同じ頃、南雲機動部隊から分派された第八戦隊司令官阿部弘毅少将(旗艦「利根」)指揮下の第二航空戦隊(司令官山口多聞少将、旗艦「蒼龍」)は南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官の指揮下に入り、ウェーク島西方300海里の地点で空母2隻(蒼龍、飛龍)より戦闘機18機、艦上爆撃機29機、艦上攻撃機2機を発進。ウェーク島に対して空襲を行った。これに呼応して、千歳海軍航空隊の陸上攻撃機27機がウェーク島を空襲した。22日、第二航空戦隊は戦闘機6機、艦上攻撃機33機でウェーク島に対する2回目の空襲を実施。攻撃隊がウェーク島上空に達した時、その上空には F4F 戦闘機2機が待ち伏せていた。 F4F 戦闘機は寡兵ながら攻撃隊に対して奇襲を敢行し、艦上攻撃機2機を撃墜した。このうちの1機は、水平爆撃の名手として知られ、真珠湾攻撃の際に艦攻隊の誘導機を務めた金井昇一等飛行兵曹機であった。直後、 F4F 戦闘機は全て撃墜された。 攻略部隊は順調にウェーク島に接近。22日午後に上陸戦の隊形に占位し、誘導潜水艦を頼りにウェーク島の南岸に接近していった。21時、上陸命令が令され、これと同時に第18戦隊はウェーク島の東岸に移動して陽動作戦を実施した。第六戦隊は洋上に展開して、上陸支援や敵艦隊に備えた。しかし、この日も海上の状況は悪く、大発を降ろすのに順調さを欠いたため、ついに哨戒艇2隻(第32号、第33号)が海岸に擱座し陸戦隊を上陸させた。それに続き各艦(金龍丸、睦月、追風)からも陸戦隊が大発でウェーク島南岸とウィルクス島に上陸した。上陸した陸戦隊のうち、舞鶴特陸一個中隊の本隊は砲台と機銃陣地の真正面に上陸し、猛烈な反撃を受けて中隊長が戦死した。第6根拠地隊一個中隊はウィルクス島に上陸。これまた猛烈な反撃を受け、小隊全滅等の損害を出した。舞鶴第二特陸一個中隊も負傷者が続出。凄まじい彼我の銃火の応酬により、23日になっても戦線はこう着状態となった。日本軍と米軍がいりくんで戦ったため、洋上の日本艦隊は艦砲射撃もできなくなった。 戦況が一気に日本側に傾いたのは、舞鶴特陸一個中隊のうちの決死隊の働きによるものである。決死隊は反撃をかわしてアメリカ軍捕虜を道案内として進撃中、飛行場近辺で海兵隊指揮官ジェームズ・デベル少佐を捕虜とした。さらに進撃すると、ジープに乗った将校を発見。尋問の結果、将校はウェーク島守備隊指揮官ウィンフィールド・カニンガム中佐だった。決死隊はカニンガム中佐を捕虜としてジープに乗せ、白旗を掲げて戦線を回らせ降伏を呼びかけさせた。この結果、7時45分ごろにはウェーク島からの砲声は途絶え、四方の状況からアメリカ軍守備隊の降伏と判断された。残敵掃討後の12月23日10時40分、日本軍はウェーク島の完全攻略を宣言、通報した。これをもって第二航空戦隊・第八戦隊は南洋部隊(第四艦隊)の指揮下を離れた。12月29日、6隻(利根、筑摩、蒼龍、飛龍、浦風、谷風)は呉に到着した。
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戦闘経緯
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「シュガーローフの戦い」の記事における「戦闘経緯」の解説
5月12日 安謝川の渡河後、第22海兵連隊G中隊が安里川を目指して進撃中に、小さな丘に直面、これを占領するため、戦車1個小隊の支援の下攻撃を開始した。この時点でこの丘は戦略上重要視されておらず、単に進撃途中の1拠点であった。 しかし、丘に向かったG中隊は、日本軍の十字砲火を浴び、戦車隊も激しい対戦車攻撃で前進を阻まれ、煙幕の中を撤退せざるを得ない状況に陥った。日没までに半数以上の兵士が死傷したため、G中隊は事実上壊滅した。 5月13日 この日、E中隊とF中隊の2個中隊をもって、丘を攻撃したものの、前日のG中隊と全く同じ状況に陥った。丘にたどり着いた両中隊は、激しい日本軍の十字砲火を浴びて、後退を余儀なくされた。 5月14日 この日、シュガーローフの攻撃を担当していた第22海兵連隊第2大隊は、前日までに消耗していた配下のE中隊、F中隊、G中隊の全兵力を使ってシュガーローフの攻撃を敢行した。日没までにF中隊は丘に張り付いたが、激しい日本軍の攻撃の中、大隊本部と連絡が取れなくなってしまった。大隊幕僚のコートニー少佐は日没後、大隊の残存兵力を結集し丘の救援に向かったが、激しい日本軍の迫撃砲攻撃で兵力は見る間に減少していった。 大隊本部は、深夜になって炊事兵や通信兵、憲兵を掻き集め、丘に送り込んだものの夜半には丘を維持できなくなり、さらに午前3時頃には新たな増援としてK中隊を送り込んだ。しかし日本軍は攻撃の手を緩めず、頂上部では稜線を挟んで、激しい手榴弾の投擲合戦が続いた。(後にこの峰はハンドグレネードリッジと呼ばれた)。 コートニー少佐はこの晩の戦闘で戦死し、後に名誉勲章が授与された。 5月15日 夜明けと共に、第29海兵連隊のD中隊が、シュガーローフの救援に向かい、丘を維持していた部隊と交代した。しかし視界が利くようになった日本軍は、周囲の丘からシュガーローフに十字砲火を浴びせて、海兵隊をシュガーローフの周辺部からも一掃してしまった。 第29海兵連隊D中隊には、カレッジフットボールのスター選手、通称アイリッシュこと、ジョージ・マーフィー中尉がいたが、この日の戦闘で戦死した。さらに、この朝、大隊本部を日本軍の迫撃砲弾が直撃し、大隊長や、通信兵、戦車中隊長が戦死し、配下の中隊長も負傷してしまった。 5月16日 ようやく米軍は、2つの丘からなる日本軍の防御網の全体像を把握し始めており、シュガーローフ、ハーフムーンを同時に攻撃しなければ、残った丘から十字砲火を浴びて、撃退されてしまうことに気が付き始めていた。 このため、この日は、1個連隊もの兵力を動員しての総攻撃を実施した。しかし、首里高地からの砲撃も含めた、激しい日本軍の攻撃の前に、支援の戦車隊は次々と撃破され、またしても歩兵部隊は十字砲火を浴びて、撃退されてしまった。さらに撤退途中の部隊にも容赦なく銃弾が浴びせられ、死傷者は増大していった。結局、この日も丘を掌握できずに、第6海兵師団にとって、最悪の1日となった。 5月17日 この日は、第22海兵連隊及び、第29海兵連隊の部隊により、再び連隊規模の攻撃を実施した。しかし、海兵隊はまたしても日本軍の激しい攻撃により、シュガーローフを制圧できなかったが、日没までにハーフムーンの一部を掌握し、翌日の攻撃路を確保できた。日本軍も、絶え間ない艦砲射撃や空爆、あるいは夜間の斬り込み攻撃により、かなり消耗しており、陸軍の正規兵の姿は少なくなり、海軍の支援部隊や、沖縄の義勇兵が辛うじて戦線を維持している状況になってきた。 5月18日 第29海兵連隊は、前日の攻撃でハーフムーン北側の進入路を確保しており、有利な位置から攻撃を開始した。既に日本軍の対戦車網も消耗していたため、この日、はじめてシュガーローフの南側まで戦車隊を前進させることに成功し、一気にシュガーローフを占拠、反対側の斜面を戦車隊が掃討し、遂に、シュガーローフが米軍側に手におちた。その後、第6海兵師団最後の予備部隊、第4海兵連隊が投入され、一帯を掌握した。
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