大分交通時代
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太平洋戦争開戦後の1942年8月、鉄道省による私鉄・バス会社の企業統合に関する通牒をうけて大分県でも交通事業統合にむけた動きが始まり、県内を県北・県南・日田の3ブロックに分割してそれぞれの域内で統合に向けた準備が進められた。うち別府大分電鉄の事業地域である県北エリアの統合では、別府大分電鉄を母体としてこれに各社を吸収合併させる案が採用され、1943年(昭和18年)4月に統合に関する覚書交換、翌1944年(昭和19年)11月には宇佐神宮での合併契約調印と進んだ。そして大戦末期の1945年(昭和20年)3月1日付で合併に関する当局の認可が下り、4月20日に開催された大分市での合併報告総会をもって合併が成立した。合併に参加したのは存続会社となった別府大分電鉄と、耶馬溪鉄道・宇佐参宮鉄道・豊州鉄道・国東鉄道・宇佐参宮自動車・別杵自動車の7社であり、合同によって大分交通株式会社が成立した。 大分交通成立により旧別府大分電鉄の鉄道路線は同社「別大線」となった。別大線における輸送量のピークは終戦直後の1946年度から1947年度にかけてに出現し、戦前は600万人台であった年間利用者数は一挙に1500万人台へと跳ね上がった。当時の車両は別府大分電鉄時代からの1型12両・100型16両の28両で、戦災にあった1両も戦後すぐ復旧していたが、それでも車両が不足するため名古屋市電から単車を5両購入している。 終戦から日が経ち電車以外の交通機関の輸送状況が好転するにつれて、併走する国鉄日豊本線や自動車との競争が激しくなり、別大線の乗客は減少傾向となった。対策として1951年(昭和26年)6月、単線区間の交換場所変更と車両歯車比変更による速度向上を実施し、全線の運転時間を54分から50分へと短縮した。また観光地として沿線の高崎山が脚光を浴びたため最寄の別院前停留場を改修し、長距離客に同停留場での途中下車を認可するなどの観光客誘致策を実施している。 車両面では1949年(昭和24年)に1932年以来の新車となる200形5両を導入したのを皮切りに、1954年(昭和29年)に300形2両、1956年(昭和31年)から1959年(昭和34年)にかけて500型7両を導入した。これらの新車は輸送力を増やすため連結運転可能な仕様とされ、その後在来車の100型も連結運転に対応するよう改造された(150型)。こうした輸送力増強の一方で、北浜から別府駅前へ伸びる500メートルの支線は1車両平均9人と利用が落ち込んだため、別府市の撤去要望に応える形で1956年10月18日限りで廃線となった。 1960年代に入っても別大線の年間輸送人員は1200万人を超えており、朝ラッシュ時の輸送力増強を目的として1962年(昭和37年)に2車体連接の1000型1編成が登場、さらに翌1963年(昭和38年)には2両を背中合わせに連結した大型車1100型2編成も導入された。しかしながらピークは長く続かず、モータリゼーションの進展によって1964年度の年間1353万人を頂点に翌年度以降輸送人員は毎年減少していき、1969年度には年間1000万人を下回って別大線の営業収支は赤字に転落した。収支悪化に対処するため別府市内運転の減便、大分市内運転のワンマン運転実施(1968年9月)、夜間の減便と終電繰り上げ(1969年11月実施)といった措置が採られたが、経営を改善させるには至らず赤字幅は拡大する一方で、年間輸送人員も1971年度には813万人へと低落した。 電車利用減の反面、別大線のうち半分以上が併用する国道10号では自動車交通が激増したため、大分県では軌道を撤去して国道を2車線から4車線へと拡幅し交通緩和を図ることが適切と判断、1971年(昭和46年)12月に大分交通に対して別大線の撤去を要請した。これに続いて1972年(昭和47年)3月7日に別府・大分両市も撤去を要請する。これらの要請を受けて大分交通は3月8日に軌道撤去を当局へ申請。27日に廃止認可を得て、4月4日限りで別大線全線を廃止した。 この軌道線の廃止に伴い、多数あった大分交通の鉄軌道路線は耶馬渓線を残すのみとなったが、それも1975年10月1日に廃線となり県下の鉄道路線はケーブルカーを除けば国鉄線(→JR九州)のみになり、この状態が現在も続いている。
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