北欧三国の成り立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:41 UTC 版)
詳細は「ヴァイキング時代」および「ヴァイキング」を参照 スウェーデン、デンマーク、ノルウェーの三国は民族的に深い関わりを持っており、不可分の関係によって歴史を歩んできた。400年ごろから1000年ごろまでの期間、この地の歴史については彼ら自身の手による文献史料はほとんど残されておらず、ヴァイキングに敵意を持つ西欧人の記した記録、伝承記があるのみとなっている。彼らの残した史料として代表的なものとしては8世紀から9世紀にかけてデーン人から伝えられた英雄叙事詩をイギリスの修道僧の手でまとめられた『ベーオウルフ』、ヴァイキング時代に創られた歌謡『エッダ』、それまで口頭で語り継がれてきた神話や伝記を12世紀末に纏め上げた『サガ』、ノルウェーやアイスランドの君主に仕えた宮廷詩人によって詠われた賛歌である『スカルド』などがあるが、いずれも作品の性質上歴史を目的として記されたものではないため、事実特定が困難であった。このため、11世紀ごろまでの北欧の歴史はこれらの諸史料と、各地から出土した遺物や周辺地域の歴史書に言及されている状況などから類推・整理して輪郭を得たものであることを前提とする必要がある。 さて、北欧各地に誕生した原生国家は、800年ごろまでその地の覇権を巡って激しい争いを繰り返し、強国への併合を繰り返しながら国の強化を図っていった。この時代はゲルマン諸族が西欧・南欧へ大きく移動し、各地に王国を築いた民族移動時代とも重複しており、彼らの多くは北欧を原住地としていたため、北欧の地には多くの冨と文化が流入し、大きな文化的発展を遂げた。この時代に対する言及としてはローマの歴史家タキトゥスの『スイオーネス』がある。『スイオーネス』にはスウェーデン中部のスヴェーア人が建国した初期の王国の成り立ちについて記されており、28の部族国家がやがて3つの原生国家へと統合していったとされている。このうちのひとつであったメーラル王国はメーラル湖を中心として栄えた王国であり、6世紀中ごろには残りの2王国を併合してスヴェーア諸族を統合し、シルフィング王朝と呼称されるようになった。シルフィング王朝は650年ごろに後述するデーン王国によって滅ぼされることとなるが、王子ウーロフはヴェルムランド地方へ逃れてインリング王朝として再建させた。その後も領土を拡張していき、南部のゴート王国を服属した後、860年には首都を古ウプサラへ設置し、後のスウェーデン王国の祖形が成立した。 またスヴェーア人は現在のリヴォニア、ロシア、ウクライナと他の東方地域に移住した。ノルウェーとデンマークの移住者が始めに西方と北ヨーロッパに移住した。これらの東方からのスカンディナヴィア人移民はヴァラング人(ヴァリャーグ)(væringjar, 「ののしる人たち」)として知られ、サガによれば8世紀中頃に建設されたラドガ湖南方のスタラヤ・ラドガ(古ノルド語:「アルデイギュボルグ」(Aldeigjuborg))がノルマン人によって支配されていた。最古のスラヴ人の記録によれば、これらヴァラング人がキエフ・ルーシを建国し、10世紀末まで移民は奨励された。この東方ヨーロッパの大国はモンゴル帝国のヨーロッパ侵略に最初に遭遇し征服された。東方に進出したノルマン人は自らは記録には残さなかったが、上記のスラヴ人の記録の他、西欧、ギリシャ、イスラームによってその活動が伝えられている。その一つがヴァラング人を形成するルーシと呼ばれる人々で、8世紀後半から9世紀にかけてのルーシ・カガンの国家群を形成し、そのルーシの中からリューリクがノヴゴロド公国を建国し、その一族であるオレグなどがキエフ・ルーシ創設に関わったという。東方へ進出したノルマン人の足跡は、ルーン文字によって刻銘された石碑によって伝えられた。 また、デンマークではデーン人たちの建国したデーン王国(スキョル王朝)が伸張し、シェラン島に存在していた幾多もの国々を征服していた。彼らはその勢力をユトランド半島方面へも伸ばして行き、5世紀後半には現在のデンマークとスコーネの一部を統一するに至り、650年にはスヴェーアのインリング王朝を滅ぼすなど、北欧において最も勢威の強い王国となった。 一方、フランク王国の成立によって陸を使用した南下が困難となっていったことから北欧の人口は激増し、北欧で土地の獲得が叶わなかった多くの人々は新しい地を求めて海上へと進出を始めた。これによって造船術や航海術が著しく発達し、ヴァイキング時代が始まった。彼らは単独・混成に関わらずノルウェー、デンマーク、スウェーデンの各地にするさまざまな民族によって編成されていたため、西欧の人々は彼らを一様に「北方の人々」を意味するノルマン人と呼称し、区別をつけなかった。北欧海岸地帯沿岸を拠点とする彼らは冒険・略奪・通商を求めて海を渡っていたが、やがてその目的は領土獲得・植民へと変化していった。803年、シーグル王の戦死によってイングランドへと侵攻先が変わると870年にはイングランド東部地域(デーンロウ)の獲得に成功し、スヴェン1世の時代にはイングランドの王を兼ねるまでに至った。クヌーズ2世の時代に入るとさらに勢力を伸ばし、北海を中心とした広大な北海帝国の樹立に成功した。これによってデンマークにはイングランドの文化やキリスト教が流入し、深く浸透していった。しかし、次代ハーデクヌーズの死とともにイングランドは独立を果たし、広大な北海帝国は瓦解、スキョル王朝も滅びることとなった。 スウェーデン、デンマークに対してノルウェー(ノール人)は後進的で、9世紀に入っても統一国家が存在しておらず、小王国に分かれた状態で争っていた。このような状況が続く中で、西南海岸に位置する豪族たちは船団を組織し、海外領土の侵攻を始めるようになった。特に知られているものとしては793年のリンディスファーン島襲撃などがあるが、こうした侵攻は年を経るごとに頻繁に起こるようになった。彼らはシェトランド諸島を拠点にスコットランドやアイルランドへ侵攻を繰り返し、大量の植民を行ったほか、北海を横断してフランス北部に拠点を築いて内陸へと侵攻していった。また、865年にはアイスランドへ到達してこの島に対しても植民を開始している。しかし、インリング王朝の再建によって次第にノール人の国々は併合されていき、インリング王朝は9世紀中ごろまでにその勢力を西海岸まで伸ばすことに成功している。残された小王国は連合艦隊を組み抵抗を試みたが、ハーラル1世・美髪王によって撃退され、885年(872年としているものもある)、ノルウェー王国が誕生した。しかし、ハーラル1世・美髪王の後は王位を巡った内紛が勃発しデンマークのハーラル1世・青歯王によって領土の大半を奪われるなど、その勢力は縮小していった。オーラヴ1世の時代には一度盛り返しを見せたが、スヴェン1世の時代に完全にその領土はデンマークの支配下に置かれることとなった。一方でノール人による海外侵出はこうした国情にも関わらず盛んに行われ、900年ごろにはグリーンランドが発見され、1000年ごろには、グリーンランドに最初に入植したとされる赤毛のエイリークの息子レイフ・エリクソンによって北アメリカ大陸(ヴィンランド)が発見されている。 また、スペイン南部を侵攻したノール人たちは西フランク王国に侵攻、指導者のロロはシャルル3世と和睦し(サン=クレール=シュール=エプト条約(le traité de Saint-Clair-sur-Epte))、キリスト教に改宗、ノルマンディーを与えられ、911年にノルマンディー公国を建国した。彼の子孫に当たるギョーム2世は、イングランド王エドワード懺悔王没後、王位継承を主張し、1066年にイングランドを攻撃、ヘイスティングスの戦いでハロルド2世を破り、現在のイギリス王室の開祖となるノルマン朝を創始した(ノルマン・コンクエスト)。 加えてノルマンディー半島のヴァイキングは地中海に南下、ロベール・ギスカールは11世紀半ばには南イタリアを支配し、その弟ルッジェーロ1世は1071年にシチリア島を占領、ルッジェーロ1世の息子ルッジェーロ2世は対立教皇アナクレトゥス2世からシチリア王を認められた(オートヴィル朝)。 ニューファンドランドのヴァイキングの存在の証拠は、ヴァイキングの遺品と移住の痕跡の発見によって証明された。考古学者の合同チームはルーン文字の遺物を発掘したあと、1960年にはランス・オ・メドーでヴァイキングの村落を発見した。 ヴァイキングによるグリーンランドへの航海の緩やかな成功は島々の人口の当初の核を形成したが、移民は低調なままであった。ヴァイキングは後にヴィンランドもグリーンランドも放棄し、イヌイットと他のカナダ本土の固有の人々が居住するようになった。 ヴァイキングたちはこれらの植民を彼ら自身のホームランドの派生だと考えていたが、植民先が異世界であるという認識は移住先の先住民との相互の影響の後に生じた。
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