ミュージシャン以外
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明石家さんまは拓郎の大ファンで、さんまが音楽番組「LOVE LOVEあいしてる」に出演した(1996年11月9日)のは拓郎が司会だったから。拓郎の凄さをもうひとつ理解していないKinKi Kidsに、拓郎の素晴らしさを一生懸命説明したという。この後、拓郎が『さんまのまんまスペシャル2001』(2001年12月28日)にゲスト出演したのも、さんまからの強いオファーがあったため。さんまは「"イメージの詩"を人生の教科書とし(拓郎をまねて)ハイライトを吸って生きてきた。今はマルボロですけど」と話し、自身がカラオケで歌うのは「イメージの詩」ぐらいという。ところが拓郎は「体のこと考えて軽いフロンティアに変えたんですよ」「僕の作る歌、全部ウソだから。信用してる人がおかしい」などと話し、さんまと拓郎ファンをがっかりさせた。 志村けんとよく飲み、電話で呼び出せる仲良し。志村の著書のあとがき・解説を拓郎が書いている。 爆笑問題の太田光は「泣ける名曲」として拓郎の「流星」(1979年)を挙げている。太田は拓郎に会って「この曲は僕の曲にしてください!」って頼んだら、拓郎に「そういえば武田鉄矢もおんなじようなこと言ってたな」と言われたという。「流星」は「時代を越えて愛され続ける名曲」と評される。歌詞は拓郎の唯一の子供である四角佳子との間にできた娘のことを歌ったものといわれている。ピースの又吉直樹は、創作活動の原点となるほど拓郎から影響を受けたと話しており、カラオケでも拓郎の曲をよく歌うという。リットン調査団の水野透も拓郎の大ファン。他にダチョウ倶楽部も拓郎ファンという。 秋吉久美子は1972年高校三年生の時、将来を決めかね追い詰められた気持で夜中、ラジオで拓郎の深夜放送を聞いていると、拓郎が夏休み1ヶ月で四国に行って『旅の重さ』を作るのでヒロインを募集する、と言うのを聞き、"ああ、ちょうど夏休み1ヶ月間か、どっかに行っちゃいたいなあ"と思いオーディションを受けたのが芸能界入りしたきっかけだったという。秋吉は"あたしは岡林信康、吉田拓郎、泉谷しげる、などで育った"と話している。秋吉のデビュー作・映画『旅の重さ』は音楽を拓郎が担当した。拓郎はこの『旅の重さ』のヒロインオーディションに審査員として参加したが秋吉に最低得点を付け、高橋洋子には気づかなかったと話している。 高橋洋子も拓郎のファンで、同じ日の放送を聴いてオーディションに応募した。 仲村トオルは、将来の目標が見出せなかった大学時代の夏休みに、友人に誘われて行った拓郎の1985年のつま恋オールナイトコンサートに感銘を受け、俳優として生きていくと決意したという。 江口寿史は「マークII」(1985年)という拓郎に心酔する高校時代の自身を描いた短編を書いているが、レコード・コレクターズ増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」で、拓郎のアルバム『元気です。』を私のベスト1に挙げ、「レコード・コレクターズでは拓郎の評価が低い。ほぼ黙殺に近い」と、同誌に対する皮肉を述べた上で、「このレコードとの出会いがなかったら今の自分はないという意味で断然1位であります」と話している。 柴門ふみは「ある世代の人々にとっての美空ひばり、ある世代の人々にとっての石原裕次郎が特別な意味合いを持っように、私たちの世代にとってのその人は、よしだたくろうである。たくろうが衝撃だったのは、そのストレートなダミ声と、かわいい笑顔であった。それまでのフォークシンガーの貧乏臭い顔(岡林信康とか高石ともや)と比較して、まるで太陽の明るさの邪気のない笑顔であった。オカッパ頭の、人なつっこい丸顔のたくろうに、当時の女の子はみんなシビレたのだ。駄々っ子のようなたくろうのダミ声を復刻版で久しぶりに聴き直す。すると、当時私のまわりにいたボーイフレンドの誰よりもたくろうを愛していたことを確認した。徳島時代の同級生の男の子たちの誰も現在の私の作品に影響を与えていないが、たくろうの歌のいくつかは、私ののちの作品につながるものを感じさせてくれる」「『イメージの詩』に14歳の私のハートは打ち抜かれました。毎日毎日聞き続け、その言葉は40年たった私の体の芯の部分に残っていて、今でもふとした瞬間に立ち上がってくることがあります」などと話している。 漫画家では他に喜国雅彦が拓郎の大ファンで、拓郎のカバーバンド「マサ拓Z」としても活動している。 みうらじゅんの名前がひらがな表記なのは、吉田拓郎の初期の名義が「よしだたくろう」だったことに由来している。みうらが50代半ばにしてまだロン毛にしているのも、あの頃の拓郎さんを引きずっているからという。みうらは拓郎の初エッセイ集「気ままな絵日記」がバイブルといい、自身の文体はどんな文豪より拓郎の影響を受けていると話している。みうらは「昔は吉田拓郎に憧れて、髪の毛のばして、ギターを弾くってのが大概のルールだったんですけどね。それはスチャダラパーあたりでなくなっちゃった」「80年代は吉田拓郎さんの話を熱く語るのって絶対ダメだったね。何だか話しちゃマズイような雰囲気があった。やっと出来るようになったのは真心ブラザーズの倉持君からですよ」と解説している。みうらもえのきどいちろうも「拓郎さんを選んでなかったら、今の仕事はしていない」と話している。 泉麻人も、今の仕事をするキッカケを与えてくれた一冊は、拓郎の著書「気ままな絵日記」で、「こういうエッセーみたいな文章なら書ける」「こんな本だったら出してみたい」と思ったと話している。 中学時代の中森明夫は「オールナイトニッポン」の拓郎の扇動にすっかり感化され、「つま恋オールナイトコンサート」は、その拓郎から招集をかけられたようなものだったと話している。行くか行くまいか最後まで迷ったが、18歳未満の終夜観客は不可とのお達しが出たことで断念したという。中森にとって「東京は、拓郎らフォーク歌手やアイドルが棲む街」で、つま恋の行われた1975年に初めて上京し、原宿のペニーレインなどにも行き東京を感じた。「1975年に上京していなければ、私は表現者になっていない」と話している。中森は拓郎を「かつて体制と闘った若者のカリスマが、時代を経て、今や老いた団塊の星として病と闘っている」と述べている。 森達也も拓郎の深夜放送を夢中になって聴いたという。 拓郎と矢沢永吉ファンという重松清は「拓郎や矢沢は、地方に住む僕たちに『上京の物語』を与えてくれた」と話している。映画「恋妻家宮本」は重松の「ファミレス」であり、映画の中で拓郎に言及する真面がある。映画「恋妻家宮本」の挿入歌(エンディング)は「今日までそして明日から」で、出演者全員で歌唱する場面がある。雑誌「すばる」2010年3月号では拓郎にインタビューを行い、ディープな内容を聞き出すことに成功している。 箭内道彦は、松山千春や吉田拓郎に憧れ、中学二年からギターを始めたという。 任天堂の専務取締役情報開発本部長でゲームクリエイター・宮本茂は、大学時代に拓郎にハマったと話している。 2013年、サッカー日本代表の内田篤人が「拓郎の曲を聴き込んでいる」との新聞記事を読みCDを大量にプレゼントした。内田の一番好きな拓郎曲は「外は白い雪の夜」という。 若い世代のファンとしては、親の影響でファンになったという奈緒、扇久保博正らがいる。扇久保は「コンサートの古い音源から何からオークションで買いまくる拓郎マニアで、「他の吉田拓郎ファンには負けないです」と豪語している。 この他、江田憲司、高須基仁、佐々部清、逢坂誠二、森永卓郎らが、拓郎から特に大きな影響を受けたと話している。
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