ミュージシャン以外とは? わかりやすく解説

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ミュージシャン以外

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:11 UTC 版)

吉田拓郎」の記事における「ミュージシャン以外」の解説

明石家さんま拓郎大ファンで、さんまが音楽番組LOVE LOVEあいしてる」に出演した1996年11月9日)のは拓郎司会だったから。拓郎の凄さをもうひとつ理解していないKinKi Kidsに、拓郎素晴らしさ一生懸命説明したという。この後拓郎が『さんまのまんまスペシャル2001』(2001年12月28日)にゲスト出演したのも、さんまからの強いオファーがあったため。さんまは「"イメージの詩"を人生教科書とし(拓郎をまねて)ハイライト吸って生きてきた。今はマルボロですけど」と話し自身カラオケで歌うのは「イメージの詩」ぐらいという。ところが拓郎は「体のこと考えて軽いフロンティア変えたんですよ」「僕の作る歌、全部ウソだから。信用してる人がおかしい」などと話し、さんまと拓郎ファンをがっかりさせた。 志村けんとよく飲み電話呼び出せ仲良し志村著書あとがき解説拓郎書いている。 爆笑問題太田光は「泣ける名曲」として拓郎の「流星」(1979年)を挙げている。太田拓郎会って「この曲は僕の曲にしてください!」って頼んだら、拓郎に「そういえば武田鉄矢おんなじようなこと言ってたな」と言われたという。「流星」は「時代越えて愛され続け名曲」と評される歌詞拓郎唯一の子供である四角佳子との間にできた娘のことを歌ったものといわれている。ピース又吉直樹は、創作活動原点となるほど拓郎から影響受けた話しており、カラオケでも拓郎の曲をよく歌うという。リットン調査団水野透拓郎大ファン。他にダチョウ倶楽部拓郎ファンという。 秋吉久美子1972年高校三年生の時、将来決めかね追い詰められ気持夜中ラジオ拓郎深夜放送聞いていると、拓郎夏休み1ヶ月四国行って旅の重さ』を作るのでヒロイン募集すると言うのを聞き、"ああ、ちょうど夏休み1ヶ月間か、どっかに行っちゃいたいなあ"と思いオーディション受けたのが芸能界入りしたきっかけだったという。秋吉は"あたしは岡林信康吉田拓郎泉谷しげる、などで育った"と話している。秋吉デビュー作映画旅の重さ』は音楽拓郎担当した拓郎はこの『旅の重さ』のヒロインオーディションに審査員として参加した秋吉に最低得点付け高橋洋子には気づかなかったと話している。 高橋洋子拓郎ファンで、同じ日の放送聴いてオーディション応募した仲村トオルは、将来目標見出せなかった大学時代夏休みに、友人誘われて行った拓郎1985年つま恋オールナイトコンサートに感銘を受け、俳優として生きていくと決意したという。 江口寿史は「マークII」(1985年)という拓郎心酔する高校時代自身描いた短編書いているが、レコード・コレクターズ増刊日本のフォークロック アルバム・ベスト100 1960-1989」で、拓郎アルバム元気です。』を私のベスト1に挙げ、「レコード・コレクターズでは拓郎評価が低い。ほぼ黙殺に近い」と、同誌に対する皮肉を述べた上で、「このレコードとの出会いなかったら今の自分はないという意味で断然1位であります」と話している。 柴門ふみは「ある世代人々にとっての美空ひばり、ある世代人々にとっての石原裕次郎特別な意味合いを持っように、私たち世代にとってのその人は、よしだたくろうである。たくろう衝撃だったのは、そのストレートなダミ声と、かわいい笑顔であったそれまでフォークシンガー貧乏臭い顔(岡林信康とか高石ともや)と比較して、まるで太陽明るさ邪気のない笑顔であったオカッパ頭の、人なつっこい丸顔たくろうに、当時女の子はみんなシビレたのだ。駄々っ子のようなたくろうダミ声復刻版久しぶり聴き直す。すると、当時のまわりにいたボーイフレンドの誰よりもたくろう愛していたことを確認した徳島時代同級生男の子たちの誰も現在の私の作品影響与えていないが、たくろうの歌のいくつかは、私ののちの作品につながるものを感じさせてくれる」「『イメージの詩に14歳の私のハート打ち抜かれました。毎日毎日聞き続け、その言葉40年たった私の体の部分残っていて、今でもふとした瞬間立ち上がってくることがあります」などと話している。 漫画家では他に喜国雅彦拓郎大ファンで、拓郎のカバーバンド「マサ拓Z」としても活動している。 みうらじゅんの名前がひらがな表記なのは、吉田拓郎初期名義が「よしだたくろう」だったことに由来している。みうらが50代半ばにしてまだロン毛にしているのも、あの頃拓郎さんを引きずっているからという。みうらは拓郎の初エッセイ集気まま絵日記」がバイブルといい、自身文体はどんな文豪より拓郎影響受けていると話している。みうらは「昔は吉田拓郎憧れて髪の毛のばしてギターを弾くってのが大概ルールだったんですけどね。それはスチャダラパーあたりでなくなっちゃった」「80年代吉田拓郎さんの話を熱く語るのって絶対ダメだったね。何だ話しちゃマズイような雰囲気があった。やっと出来ようになったのは真心ブラザーズ倉持君からですよ」と解説している。みうらもえのきどいちろうも「拓郎さんを選んでなかったら、今の仕事はしていない」と話している。 泉麻人も、今の仕事をするキッカケ与えてくれた一冊は、拓郎著書気まま絵日記」で、「こういうエッセーみたいな文章なら書ける」「こんな本だったら出してみたい」と思った話している。 中学時代中森明夫は「オールナイトニッポン」の拓郎扇動にすっかり感化され、「つま恋オールナイトコンサート」は、その拓郎から招集かけられたようなのだった話している。行くか行くまいか最後まで迷ったが、18歳未満終夜観客不可とのお達し出たことで断念したという。中森にとって「東京は、拓郎フォーク歌手アイドル棲む街」で、つま恋行われた1975年初め上京し原宿ペニーレインなどにも行き東京感じた。「1975年上京してなければ、私は表現者になっていない」と話している。中森拓郎を「かつて体制闘った若者カリスマが、時代経て今や老いた団塊の星として病と闘っている」と述べている。 森達也拓郎深夜放送夢中になって聴いたという。 拓郎矢沢永吉ファンという重松清は「拓郎矢沢は、地方に住む僕たちに『上京物語』を与えてくれた」と話している。映画恋妻宮本」は重松の「ファミレス」であり、映画の中で拓郎言及する真面がある。映画恋妻宮本」の挿入歌エンディング)は「今日までそして明日から」で、出演者全員歌唱する場面がある。雑誌「すばる」2010年3月号では拓郎インタビュー行いディープ内容聞き出すことに成功している。 箭内道彦は、松山千春吉田拓郎憧れ中学二年からギター始めたという。 任天堂専務取締役情報開発本部長でゲームクリエイター宮本茂は、大学時代拓郎ハマった話している。 2013年サッカー日本代表内田篤人が「拓郎の曲を聴き込んでいる」との新聞記事読みCD大量にプレゼントした内田の一番好きな拓郎曲は「外は白い雪の夜」という。 若い世代ファンとしては、親の影響ファンになったという奈緒扇久保博正らがいる。扇久保は「コンサートの古い音源から何からオークションで買いまくる拓郎マニアで、「他の吉田拓郎ファンには負けないです」と豪語している。 この他江田憲司高須基仁佐々部清逢坂誠二森永卓郎らが、拓郎から特に大きな影響受けた話している。

※この「ミュージシャン以外」の解説は、「吉田拓郎」の解説の一部です。
「ミュージシャン以外」を含む「吉田拓郎」の記事については、「吉田拓郎」の概要を参照ください。

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