オペラ歌手として
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戦後、公職追放の一環で3人の娘を抱えて職を失う形となったため、立場上戦前には出演出来なかったオペラに手を広げ、1946年(昭和21年)9月藤原歌劇団第21回公演レオンカヴァッロ『道化師』カニオ役でデビュー。藤原義江とのダブルキャストで全国に公演旅行し、他にも二期会、長門美保歌劇団、NHK、労音、新芸術協会及び海外の公演など、1964年(昭和39年)まで20以上の日本初演を含む内外約40本のオペラに参加した。時にはビゼー『カルメン』のドン・ホセ役を1日に3回歌うというハードスケジュールもこなしている。團伊玖磨『夕鶴』の「与ひょう」は1952年(昭和27年)1月初演以来最大の当たり役として歌手生活のほぼ最後まで125回歌い続けたほか、作曲者指揮による録音も残されている。また、直弟子の多くが幹事となって創設した1952年(昭和27年)の二期会旗揚げ公演(プッチーニ『ラ・ボエーム』)では、一期を代表する歌手として主役(ロドルフォ)に招かれている。1964年(昭和39年)7月都民劇場公演モーツァルト『フィガロの結婚』ドン・クルチオ役で最後のオペラ出演。
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オペラ歌手として
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原信子、清水金太郎らと浅草オペラで活動し、当時は物珍しかったオペラのパイオニア的存在としてその名を轟かせた。田谷の歌声に感動して、藤原義江(当時は戸山英次郎)も新国劇を辞して歌手を志した。他にも東八郎や大宮敏充(デン助)にも芸能界へ入る志を与えたといわれている。 大正年間、浅草オペラにおいて人気の頂点に君臨し続け、浅草オペラ壊滅後も"オペラ歌手"(サイン・名刺に常に記していた)として華々しい活躍を続け、本格的なオペラ、オペレッタの舞台に終戦後まで立っている。 浅草時代から得意としていた役はビゼー作曲『カルメン』のドン・ホセ、プッチーニ作曲『ラ・ボエーム』のロドルフォ(日本初演)など、叙情的と劇的の両面を併せ持った重要な役が多い。
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オペラ歌手として
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イタリアのミラノ音楽院でオペラ声楽を学び、黄金期の世界的歌手アンジェロ・ロ・フォレーゼに師事。2012年の声楽コンクールでフィガロの結婚の主役を勝ち取り、オペラデビュー。イタリア全土の主要歌劇場はもちろんのこと、ヨーロッパや日本のオペラ、コンサートにソロとして多数出演。2019年5月にはカーネギー・ホールでも歌を披露した。
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オペラ歌手として
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1920年17歳で渡欧 してオペラ歌手を目指し、ミラノでスカラ座の声楽教授ヴァンツオ に師事。1922年リスボンのサン・カルルシュ国立劇場においてプッチーニ『蝶々夫人』でデビュー。ミラノ、パリ、ローマ、ウィーン、ジュネーブ、ワルシャワ、クラクフ、ポズナン 等、欧州各地で公演した。喜波の衣装は、ヨーロッパ人歌手の『蝶々夫人』が着たまがいものの着物ではなく、母が送った皇室御下賜品をはじめとする一級品の日本製の和服・小物であり、舞台で映えるように柄の大きなものが選ばれ、精巧で美しいものばかりであった。象徴的なものとして、後に愛弟子に「私の残していくものの中で一番大切なもの。私の魂」と語った和傘には、三越のシールが貼られていたという。常に日本人としてふるまい、その態度は毅然としてヨーロッパ各地で評判だったとポーランド公使だった佐藤尚武は『回顧八十年』の中で語っている。また、ドイツでの取材には華道や茶道、和服など日本の女性について正確に語っている。1931年に700回公演、1938年にヘルシンキで1000回公演 を開き、1953年ベルギーでの最後の舞台までほぼ2000回の『蝶々夫人』のプリマドンナとして「日本人」を演じきった。喜波はヨーロッパで絶賛され、イタリアの大女優エレオノーラ・ドゥーゼの名をとって「日本のドゥーゼ」と呼ばれ、三浦環よりも評価が高かったという記載も見られる。イタリア歌曲や日本の歌も歌い、シューベルトやシューマンの歌曲なども歌った。1931年パリオペラ=コミック座での700回目の記念公演はフランス語で歌って観客を驚かせた。しかもその発音は完璧で物語にも不自然さを感じさせなかったという。日本語、英語、イタリア語、ドイツ語、ポーランド語、フランス語を話すことができる当時第一級の国際人だった。その間、テノール歌手から喜波のマネージャーとなったポーランド人の音楽家ラヴィタ・プロショフスキーと結婚。夫はのちフランスで反ナチ活動の義勇軍に加わる。戦後、1953年に引退後は後進の指導にあたり、1954年からフランスのニースに住んだ。1973年に夫ラヴィタ死去。晩年「日本に帰りたいが、知っている人はもういない」と語っていたという。1983年5月29日、敗血症のため同地のパスツール病院 で80年の生涯を閉じた。 1990年テレビ西日本のドキュメンタリー番組『蝶々夫人 オペラ歌手 喜波貞子の生涯』(1990年度 第30回日本テレビ技術賞受賞) が放送され、イタリアで録音されたレコードをもとにCD『忘れないで、私を』が発売されるなどその功績が再評価される。2003年遺骨が83年ぶりに日本へ戻り、横浜の外国人墓地に埋葬された。 なお、2004年3月に「喜波貞子さんを偲ぶ会」により、イタリアから指揮者と歌手、そしてニースで喜波の最後をみとり遺品を保管してきた愛弟子の元オペラ歌手ミレーユ・ガエッティ・カペッルを招いて、「喜波貞子追悼記念公演オペラ」と銘打った『蝶々夫人』がマッシミリアーノ・ムッラーリ指揮による演奏会形式で福岡銀行本店大ホールにおいて上演されている。
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