長楽寺 (京都市) 歴史

長楽寺 (京都市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 02:03 UTC 版)

歴史

長楽寺は一説によれば、延暦24年(805年)に勅命により最澄延暦寺の別院として創建したのに始まるという。『平家物語』「灌頂巻」によると、文治元年(1185年)には高倉天皇中宮安徳天皇の生母である建礼門院(平徳子)が壇ノ浦の戦いの後、僧印誓についてこの寺で出家したとしている。

法然の弟子、隆寛はこの寺に居住して多念義を唱えた。隆寛の系譜は寺院名をとって後に長楽寺義・長楽寺流・長楽寺派といわれている。

至徳2年(1385年)に時宗の僧国阿が入寺して中興し、時宗の寺に改められた。

延享2年(1745年)、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗により1万坪もの境内地を没収された。没収された土地は長楽寺に隣接する真宗大谷派大谷祖廟(東大谷)に寄進されている。

これ以降、寺勢は衰微しはじめ、文化年間(1804年 - 1818年)には養福寺に寺地の一部を譲って浄土宗西山派に改宗する。しかし、1870年明治2年)には時宗遊行派に改めている。また、1871年(明治4年)に上知令によって境内地を政府に没収された。没収された土地は1886年(明治19年)に円山公園の一部とされた。

1906年(明治39年)には、時宗遊行派の有力寺院である七条道場金光寺を合併する。長楽寺が所蔵する重要文化財の時宗祖師像7躯(慶派仏師の作)は、金光寺から移されたものである。

2008年平成20年)、文化財を納めた収蔵庫が火災によりほぼ全焼した。この際、一遍木像(重要文化財)を始めとする全ての文化財は住職らによって火災直後に運び出されたため難を免れた。

本尊

本尊の准胝観音は天皇即位時にしか開帳されない「勅封・厳秘」の本尊であり、玉躰護持と皇室安寧祈祷の本尊とされる。その姿は立像で1面3目18臂、二匹の龍の上に蓮台があり、その上に立っている。

伝説によれば、伝教大師最澄が入唐の際に海難に遭遇したので三宝に祈願したところ、二頭の龍に跨がった准胝観音が顕れて最澄の衣に飛び移ると、たちまち波風が収まったといわれ、その姿を彫ったものであるという。

普段は厨子(後水尾天皇の中宮・東福門院が寄進した「泰安の厨子」)の中に安置されている。また、御前立本尊となっている阿弥陀如来像(阿弥陀三尊像)は崇徳天皇念持仏といわれる。

最新の開帳は今上天皇の即位に伴う2019年令和元年)5月1日から6月16日までの開帳となる[1]

なお、本尊両脇には伝・最澄作の弁才天像と円爾(聖一国師)がインド中国日本の三国の土で作ったといわれる布袋尊像が安置されている。

境内




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