越後長岡藩 越後長岡藩の概要

越後長岡藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/01 05:22 UTC 版)

伊能忠敬による『大日本沿海輿地全図』に描かれた長岡藩(国立国会図書館デジタルコレクションより)

藩庁は長岡城長岡市)。藩主は初めに堀家(8万石)、のちに牧野家に交替した。牧野家の家格帝鑑間詰めの譜代大名で、石高ははじめ6万2千石、後に加増されて7万4千石になった。正徳2年(1712年)の内高は約11万5300石、安政元年(1858年)には約14万2700石あった[要検証]

沿革

堀直寄の像

越後長岡藩の中心領域となった現在の長岡市域には、江戸時代初期には蔵王堂藩が存在していたが断絶し、高田藩領となっていた。

元和2年(1616年)、高田藩主松平忠輝大坂の陣における不始末から除封されると、外様大名堀直寄が8万石をもって古志郡の旧蔵王堂藩領に入封した。直寄は蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、その南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たに築城、城下町を移して長岡藩を立藩した。

牧野忠成の木像

直寄は2年後の元和4年(1618年)には越後村上に移され、代わって譜代大名牧野忠成長峰藩5万石から、長岡へ6万2000石に加増の上で入封する。牧野家は堀家ら外様大名の多い越後を中央部において抑える役割を委ねられ、元和6年(1620年)には1万石を加増、次いで寛永2年(1625年)に将軍秀忠から知行7万4千石余の朱印状を交付された[注釈 1][注釈 2]

その後、長岡城と城下の拡充・整備および領内の田地の改良・新墾田開発をすすめ、藩領の新潟湊新潟町奉行をおいて管理、これを基点とする上方との北前船の物流を活用して藩経済は確立された。知行実高表高を遙かに上回るようになり、新潟湊の運上金収入もあいまって藩は豊かになった。また信濃川水運の船問屋利権も有していた。その後は次第に諸経費が増加する一方で、年貢収納率は逆に低下したために藩財政は逼迫しはじめ、また9代忠精以降は藩主の老中京都所司代への任用が増えて藩の経費もかさみ、さらに天保年間に新潟湊が幕領として上知され、その一方で軍事費の増強の必要性が高まると財政問題は根本的解決が迫られた。その結果、幕末の河井継之助の藩政改革の断行へ進むことになった。

戊辰戦争北越戦争)を描いた浮世絵。画題は『越後国信濃川武田上杉大合戦之図』であるが、時の政府に配慮して、北越戦争を武田・上杉の戦いに見立てて描いたもの。

しかし、改革半ばにして明治維新の動乱に接し、徳川家処罰反対の立場をとった長岡藩は戊辰戦争に巻き込まれ、慶応4年5月(1868年新暦6月)河井の主導のもと奥羽越列藩同盟に参加を決定、同盟軍側(東軍)として長州藩薩摩藩を中心とする維新政府軍(西軍)に抗戦したが敗北した。明治元年12月22日(新暦1869年2月3日)に赦免されて24,000石(牧野家)で復活、まもなく財政窮乏などの理由で藩主牧野忠毅は明治3年10月22日(1870年11月15日)に城知を返上して柏崎県に併合され、長岡藩は廃藩となった。

(この節の出典[3][4]

藩風

藩風は藩祖以来の「常在戦場」「鼻ハ欠とも義理を欠くな」「武士の義理、士の一分を立てよ」「武士の魂ハ清水で洗へ」等の『参州牛窪之壁書』や「頭をはられても、はりても恥辱のこと」「武功の位を知らずして少しの義に自慢すること」等の『侍の恥辱十七箇条』と呼ばれた条目[注釈 3]を常の武士の心がけとしてかかげ、質朴剛健な三河武士の精神を鼓吹するものである。明治初めの藩政再建中に小林虎三郎が、越後長岡藩の窮乏を見かねた支藩の三根山藩から贈られた米百俵を教育費にあてたという「米百俵の精神」もこのような藩風とともに生まれ、その後も長岡人の気風として受け継がれている。小林儀右衛門有之(海鴎)など学問で、上級藩士(大組)入りするものも出た。


注釈

  1. ^ この時の2千石の増分は、この朱印状の表示高7万4千石と添付の知行目録の合計村高(7万2千石余)の差額で、将来の新墾田の開発分2千石を見込んだものである[1]
  2. ^ 元和6年の加増分・栃尾郷1万石は、前年の元和5年の大名福島正則の改易にともない、牧野忠成が改易申し渡しの使者を務め、また安芸国広島城受け取りにも参加して無事任務を終えたので、その恩賞または福島正則正室が徳川家康養女(実は牧野忠成の実妹)であったため忠成がこれを引き取った際の扶養料とされる[2]
  3. ^ 『参州牛窪之壁書』は同藩の藩士・高野餘慶の記した『御邑古風談』に書き留められているもの。また『侍の恥辱十七箇条』は『河井継之助の生涯』などの著者の安藤英男によれば、初代藩主・忠成が長岡城に初めて入った時に諸士出仕の大広間に掲示したものだという[5]
  4. ^ 藩校での修学者の士分限定は柳河藩などでも見られるが、士分以外でも修学できる藩も存在した。
  5. ^ 長岡藩の「安政分限帳」(『長岡藩政史料集(6)長岡藩の家臣団』所収)によれば、50石未満の低位の知行である藩士が大組に119名確認され、最小俸給者は知行高20石または5人扶持の藩士である。
  6. ^ 『長岡市史』では100石以上に馬1〜4匹の保持を認めており、50石未満の低位の知行である藩士が馬一頭を飼う事は常識的には不可能であり、あくまで格式にすぎない。諸藩・幕臣にあっても、その家臣に馬上を許しながら、実際に馬を飼っていなかったということはよくあった。ただし、長岡藩には藩が馬を持たない武士に馬を貸与する制度があったと『長岡市史』にある。
  7. ^ なお、『大武鑑』掲載の江戸武鑑では元文から延享まで、江戸幕府の小姓組を「扈従組」と表記している。
  8. ^ 長岡藩の刀番は小姓組所属は知行100石未満では役高50石、ただし大組所属で100石以上の場合は役高70石の扱いである[12]
  9. ^ 長岡藩士における「筋目」とは藩士個々の家の戦功その他の由緒によるものされ、知行高や役職地位そのものではない。藩士・高野餘慶は『由旧録』で「士に家格あり、役格あり、知行格あり。此中家格ハ、先祖の由緒によりて代々其筋目を重んする事なれハ、秩禄の高下によらさる也」と説明している[13]
  10. ^ 越後長岡藩では一代家老に抜擢されたのは、江戸時代を通じて、三間監物・雨宮修堅・倉沢又左衛門・河井継之助のわずか4名である。家老の家柄でなく、家老職に就任して、執務実績をともなった者は、三間監物と、幕末の河井継之助だけと言える状況であり、この2人も共に有終の美を飾れなかった。他の2名は、家老職に就任しても実権が伴わなかったり、まもなく失脚・お役ご免などに追い込まれた。ほかに明治維新後に就任した大参事(=家老相当)として、小林虎三郎・三島億二郎がある。幕末の薩摩藩、長州藩に見られるような下級藩士からの重臣登用は、長岡藩においては見られなかった。また江戸時代初期の稲垣権右衛門や真木庄左衛門は、家老並の大身であるが、家老職に就任したとする藩政史料は存在しない。
  11. ^ 「蔵米取り」の禄高は俵数で表すが、「知行取り」は石高で表示する。「知行取り」の体裁を保ちながらも実際の支給が蔵米による
  12. ^ 下記、今泉鐸次郎・今泉省三他『越佐叢書 巻8』(1971年、野島出版) 所収、「由旧録 巻之下」で高野餘慶は「代々家老」と題して、「元来、御家老ハ、皆才覚器用よりも古法相伝を専要とする事にて候。……諸役人の申事を聞て、古法の曲尺にはつれぬ事なれハ、其通りに申付候」と長岡藩の家老について説明している。
  13. ^ 諸藩にあっては、寄組を老職クラスを除く上級家臣の総称または、所属としている例があるが、これとは異なる。また上級家臣の精勤者を遇する大寄会と、同じく中堅家臣を遇する寄会とを分けて持つ藩もあるが、越後長岡藩の場合は、特に功績のあった中堅家臣の隠居を遇するポストはなく、大寄会とも云うべき寄会組だけがあった。ただし江戸時代後期から幕末にかけては、特に功績のあった用人・奉行なども寄会組に加えられるようになった。
  14. ^ なお、番頭が用人の下座に置かれるのは他藩では越智松平家家中でも見られる。

出典

  1. ^ 『シリーズ藩物語 長岡藩』
  2. ^ 『長岡の歴史 第1巻』野島出版、1968年
  3. ^ 『長岡の歴史 第1巻』野島出版、1968年
  4. ^ 『長岡市史(通史編・上巻)』長岡市、1996年
  5. ^ 『定本 河井継之助』白川書院、pp19-20
  6. ^ 新潟県立図書館「越後佐渡デジタルライブラリー」『越後国上杉景勝家督争合戦』
  7. ^ a b c 『長岡市史』
  8. ^ 『北越秘話』
  9. ^ 「越後長岡藩文書の備前守殿勝手向賄入用相成候由」『日本歴史地名大系15・新潟県の地名』平凡社
  10. ^ 『長岡の歴史 第1巻』
  11. ^ 『新潟県史・通史3・近世1』
  12. ^ 『長岡の歴史 1』pp270 - 271
  13. ^ 『越佐叢書』所収「由旧録(巻之下)」pp69-70
  14. ^ 『新潟県史・通史3・近世一』
  15. ^ 『長岡の歴史 第1巻』pp224 - 225
  16. ^ 『長岡市史』p134。なお、長岡藩では時代により「用人」を「御用番」とも称している例があるので注意が必要である。
  17. ^ 『長岡市史』137p
  18. ^ 柏書房の『編年江戸武鑑』および『大武鑑』。少なくとも文化年間以降の武鑑では附と奉行または用人の中の一人が常に同姓同名。
  19. ^ 『改訂増補 大武鑑 中巻』
  20. ^ 今泉省三『長岡の歴史 第1巻』(1968年、野島出版)p269
  21. ^ 『編年改訂 大武鑑 中巻』(名著刊行会)






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