越後長岡藩 職制

越後長岡藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 15:38 UTC 版)

職制

越後長岡藩には以下の職制があった。なお、藩の宝暦の制により、各職制に相当する役高が定められていたが役高は役職手当と異なり、定めの役職に必要な石高を指す。よって、担当者の知行高が足りない時は一定の足し米を支給して要件を満たす(幕府の足高の制に準じたものと考えられる)。しかし、財政難からこの足高は、遵守されず、実際は規定に近いものが支給されていたようである。

また、部屋住み身分でも、勘定見習い、小姓、小納戸役、用人見習、代官を初めとする諸役に登用の場合があった。

時代によって変更されている場合もある。なお『長岡市史』掲載の役職の内容は新潟町奉行がないので新潟湊上知以降の内容と推測される。

役高および役料は『長岡市史』によると最高は家老の役高1000石と役料15両、最低は坊主の役高20石と役料3分で江戸定府には加算給があったとする。

評定役

越後長岡藩では評定役は重要事項の裁決機関であり、その役所を評定所(のちの会所)と呼んだ。家老職・中老職・奉行職の職にある者と、特に参加を許された者により合議した。

家老職

家老は平時においては、毎月交代で出仕し日常決済を行った。その当番者を用番といった[18]。主に古法・前例に照らして逸脱がないかを判断した[注釈 12]。通常の布達は担当家老職名で行い、重要案件では中老・奉行の各職とともに評定役を構成した。役高1000石(知行700石の家老は不足分を100石につき50俵の御足米すなわち150俵支給)。家老職見習は出役御免(出仕免除だが惣領分として300石支給)。ただし、見習でも出仕して用番を務めれば500石支給。

また、家老は軍事面では大組の組頭(侍大将)を務める。各分限帳ではその組別に所属の藩士名が記載されている。軍制における装備義務(軍役と呼ぶ)は別項の軍制を参照。

また、世襲家老家のうちから江戸家老として1名を置き、不定期に交代した。時代により定府の場合と、江戸詰めの場合があった。また、藩主が京都所司代や大坂城代拝命の際には国元・江戸の家老とは別に臨時に老職を選任した。

中老職

家老職に次ぎ、評定役を構成。常設の機関ではなく一代限り。役高500石。『長岡市史』では500石高の奉行で功労者であるが家老家の格式でないので家老になれない者のためのポストとし、家老格になって用番勤務となった者は600石になるとある。中老職・年寄役は同じ役職であり、呼び方の違いである。

長岡藩では着座家から推挙され、本人の意志で辞職可能であった。江戸時代初期には存在しなかったポストである。なお、家老連綿の格式の者を家老職とする場合と異なり、若輩者が家督を相続していきなり、筋目だけで中老職・年寄役に就任することはなかった。

長岡藩の中老職・年寄役について定数は特にないが、武鑑では文化6年(1809年)頃以後には増加が見られる。

世禄120石の河井継之助は別格として、現存する長岡分限帳で、中老職に名があるものは、長岡入封以来または、新規召し出し以降で、先祖の家禄が300石以上あった者がほとんどであるが、知行250石で就任した者もある。柳営の老中就任資格が3万石以上であったとされるが、2万5千石以上の諸侯が老中に数例、就任したことに似ている。

なお、『新潟市史・資料編』14号の『新潟町奉行・町方役人勤役期間留書』の解説に原資料の『天保十亥年正月 貞亨元子年より諸役人留』に中老・中老格の記載があったが、新潟市と直接関係ないので省略した旨の説明がある。

中老の前職は番頭職であることがほとんど、番頭で功績があった者を就任させたことが多い。 なお、幕末・非常時の河井継之助のように奉行加判役から、番頭を経験せずに中老職に列したのを例外と見る向きもあるが、後述のとおり町奉行は番頭兼務なので、番頭を経験していないわけでない。

奉行職

長岡藩の奉行職は「御奉行」・「奉行役」とも呼ばれた家老職の補佐を行う常任の職。定員7名である。家格に特別な決まりはなく、役高は300石。郡奉行や町奉行などを統括し、実質的に藩全般の行政を動かした。

なお、『長岡市史』では300石高以上の者が任じられ、家格不定。家老同様に毎月交代で執務。当番者を月番といった。また、『新潟県史 通史3 近世一』では長岡藩の年貢割付状承応2年(1653年)から明暦元年(1656年)頃までの一時期を除いて奉行の連署で発行しているとしている。

江戸武鑑に奉行が掲載されるようになるのは宝暦年中以降であるが、長岡藩に限らず、諸藩で奉行職がある藩(仙台藩米沢藩)は奉行職を「年寄」や「中老」として掲載して奉行を呼称するのを避けており、長岡藩の場合は幕末までは「中老」や「年寄」の項目で奉行を掲載し、中老職が置かれた場合は「中老」項目内で中老とは差別されて掲載される。

なお、『新潟市史・資料編』14号の『新潟町奉行・町方役人勤役期間留書』の解説に原資料の『天保十亥年正月 貞亨元子年より諸役人留』に奉行の記載があったが、中老同様に省略した旨の説明がある。

また、町奉行郡奉行勘定奉行などの町方や地方(じかた)の行政職(役方)である奉行とは呼称が同一であるが、全く別の職制であり、これは奉行職の設置されている諸藩と共通する。

藩士の格としては、行政職(役方)の奉行と比較して格上である。奉行職を束ねる役職として、奉行組支配職が存在したことがあったが常置の役職ではなく、家禄400石から500石級の者から任命された。奉行には、加判の列の者とそうではない者が存在し、加判の者は、評定所(会所)の構成員となった。

寄会組

寄会組(よりあいぐみ)は大組所属の藩士で特別な功労者が列することができ、その栄に浴せた。また、大組に属さない先法家と呼ばれた槇内蔵助家、能勢三郎右衛門家、疋田水右衛門家の3家は、先祖の筋目によって、寄会組に列することを世襲した。なお、『長岡市史』では寄合組と表記する。

寄会組は先法家の他に功労者として、中老職などの重役経験者・番頭の精勤者が加えられ、時代によっては藩主の国許の菩提寺である長興寺栄涼寺も寄会組の扱いを受けた。また時代が下ると精勤者の役職の範囲も広がった。寄会組は藩政の諮問機関と思われるが多分に名誉的側面が強い。役高250石(ただし着座家の寄会組は300石高であるが、江戸時代中期ごろまでは、家禄と別にわずかな手当がついたに過ぎなかった)[注釈 13]

取次

取次は主に評定役が取りまとめた裁可を仰ぐべき重要案件を藩主に取り次ぐ機関である。地位は用人の下、役高200石高。人数不明。『長岡市史』では取次は旧名を奏者番といい[19]、定員は不明、配下に進物番本〆2名、進物番12名がいる他に、儀礼典礼の際には故術傳師範(小笠原流2名)を指揮すると記す。

なお、江戸武鑑で譜代大名の取次を掲載する場合は、全4巻のうち藩職を掲載する1、2巻のでなく、幕職を掲載する3巻に登場し、長岡藩の場合は牧野忠精が老中として掲載される文化13年の武鑑の場合は取次は11名掲載され、うち3名は取次頭取として掲載されている。

用人

『長岡市史』では用人は旧名を御用番というとされる。用人は奉行職に同じく家老職の補佐役を務め、細かな用向きを伝え庶務を司った(ただし、大奥以外での藩主の衣食、日常生活に関する用向きの伝達は刀番・小納戸の職域)。用人の地位は奉行職の下位。役高200石高。

先法三家の中から、1名が用人職を兼帯する慣行があり、この役目は、いわば用人組支配職とも云えるものであった。『長岡市史』では寄合組から1名、その他から5人とある。

用人の精勤者は、家格の高い者は番頭職に進み、それ以外は奉行職となった。時々ではあるが用人、奉行、番頭と順次、班を進める者もあった。100石級の藩士は、用人・取次が一応の出世の到達点であり、それ以上となると稀である。なお、江戸組には別に対幕府・諸藩等の対外的用向き専門の非常置の公用人を置いた。→江戸組の項参照。

側用人との違い

越後長岡藩では、用人と側用人を、役職名として常に、かつ明瞭に分離していたかどうか定かでないが、江戸武鑑に『附』とある用人は、諸藩との比較上で側用人たる役目を担っていたと考えられる。なお、『長岡市史』では側用人職は登場しない。

『附』とあるは、江戸に定府して、嫡子および正室の伝奏を行い庶務を司った。幕府の広敷用人の役割りも併せ持っていたとする説もある。ただし、江戸武鑑上においては『附』は世子がいる藩で見られることが多く、世子だけでなく藩主舎弟の項目にも掲載されることもある役職である。

なお、江戸武鑑上において長岡藩の場合は当初は附役と用人は別々に登用していたが、財政難で個々に登用できなくなったためか、少なくとも牧野忠鎮の附役以降は定府の奉行か用人が兼務することが慣例となっている[20]

なお、『長岡市史』では若殿様附、奥様附、大殿様附があるとしているが、煩わしいとの理由で省略されている。

支藩の与板(小諸)・三根山では、初期には用人・側用人制度がなく、本藩の長岡を模してこれらの職制を導入したとするのが通説的である。これらでは、用人が家老職の補佐機関(長岡の中老・奉行に相当)としての権能を併せ持った。また用人が加判の列に加えられることもあり、番頭職より格上であるのが特徴的である[注釈 14]

役方の各奉行職

町奉行

定員は2名。商業や物価の適正化や戸籍調査などの民事の取締まりと犯罪人逮捕の警察行為を主務とした。通常は会所(評定所)に詰めるが、藩主在国中は城内上の間に出仕した。城下膝元を司る要職のため、番頭を兼帯。従って足高による給付が行われたことは、ほとんどない。役高は200石高。『新潟市史』では新潟町奉行と区別して長岡町奉行と呼称している。ちなみに長岡町奉行の方が新潟町奉行より序列は高い。

郡奉行

郡奉行は地方(じかた)支配すなわち藩領の農業を監督し米等生産物の収量増大を推進し、年貢徴収・賦役の監督、また訴訟を受付け裁断した。また、郡奉行の配下に代官が属した。定員は3名。役高100石。者頭格又は目付格。

代官

役高は小組25石役・大組30石役である。代官は藩の行政上の区割りである各組を担当し巡回監督し、配下の各組方の割元が通常業務をこなした。代官の定員は時代により変動したがおよそ、上組・北組3〜4人、栃尾組・西組・河根川組・巻組は1〜2人、曽根組1人。上組・北組代官は上御蔵・北御蔵の蔵屋敷に詰め、藩士への渡し米(知行米・扶持米の引き渡し)の業務も担当した。他の組の代官はそれぞれの住居兼用の役宅が宛われ、これに常駐した。代官の要員は主に小組の士が充てられたが大組の士がなる場合もあった。なお、村役人(武士ではない)である庄屋およびその補佐の郷横目は郡奉行・代官の支配に属して村政にあたったが、自治組織としての村と藩政の接点である。

なお、『新潟県史・通史3・近世一』では栃尾組代官の初見が確認される皆済状が発行された元和7年(1621年)から寛文頃までの栃尾代官は槇氏、秋山氏、平岡氏、須山(陶山)氏の代官が長く在勤し、世襲の可能性が同書で指摘されている。栃尾組代官は承応2年から「栃尾御旅屋」に居住したとされる。

新潟町奉行(初期は新潟代官)

藩領であった新潟は港があり、物流・軍事の面で重要であるため、はじめは郡奉行配下の代官を派遣して管理したが、延宝4年(1676年)から、専任の新潟町奉行を新設して町政全体を管理した。初代の新潟町奉行のみ、担当の代官2名をそのままこれに昇格させ、役高は150石高という説があるが異説有り。なお、『長岡市史』ではこの役職の説明はない。詳細は新潟町奉行を参照。

勘定奉行(勘定頭)

藩の米穀や金子などの藩庫の出納並びに藩財政収支の記録・管理を司る。奉行配下に勘定頭・本〆・勘定方・同見習などの職員がいた。この部署の要員は当然に筋目より能力才覚で登用される傾向があった。奉行(勘定頭)は150石役。職員は大組から登用は30石役、小組は25石役。

宗門奉行(宗門改役)

主に藩内の神社・寺院の監督と宗旨の登録・確認を主務とする、宗教の統制と戸籍管理の両側面があった。役高200石役。宗旨の改めは家中の藩士とその家族、および領内郷中の民間人とその家族の両者の管轄の別があり、後者は特に郷中宗旨改役を定めた時期もある。なお、『長岡市史』では宗門奉行は定員2名。旧名を寺社奉行といい、番頭兼務。配下に宗門改役があるとする。

なお、『新潟市史・資料編』14号の『新潟町奉行・町方役人勤役期間留書』の解説に原資料の『天保十亥年正月 貞亨元子年より諸役人留』に宗門奉行の記載があったが、中老や奉行同様に省略した旨の説明がある。

普請奉行

普請奉行は土木工事の監督・管理を役目とする。初期の延宝頃は軍事的側面から重要視されたらしく、特に普請大奉行を置いて普請奉行を統括したが以後常設せず、知行50石前後の小禄の士の普請奉行のみ常設した。普請大奉行は1名で150石高、普請奉行の役高は30石高。また、臨時に御手伝普請の責任者であった日光普請大奉行が置かれたこともあった。

なお、『長岡市史』では普請大奉行は番頭兼務、諸職人頭2名中1名が普請奉行兼務。

その他の諸職

御厩方(御厩支配役は150石役、同本〆は30石役)、記録方(本〆は30石役)、萱野支配、蝋座支配(支配役は30石役)、御具足方、御料理方、古物方など多岐にわたる。

また、前掲の奉行職のほか、種々の役方の業務責任者にも奉行と呼ばれるものがあったが、これらは概ね25石役から30石役程度の下位の役職である。ただし、大工などの諸職人頭は40石役。

道奉行(30石役)、材木奉行、竹奉行、萱野奉行(30石役)、塗師奉行(30石役)、古物諸色修復奉行、酒奉行、薪奉行など(これらは時代により改廃があり、呼称も△△奉行から○○支配や本〆(もとじめ、元締めのこと)などに変わったものもある。)。

目付等

管轄によって、目付・組目付などの区別がある。

目付は士分の家臣についてその氏名の記載順序や着座順序、服喪に関する手続や処理を担当(120石役)。定員5人(うち3名は者頭格)。

組目付は目付の指揮により、小組の士分の上記項目について違反を取り締まった(25石役)。定員2名。

守役

藩主の男子の守役には、世襲家老、先法三家の中から任命された(ただし例外として倉沢家と、先法三家の一つとなる槙家庶流・槙平兵衛家などの抜擢がある)。特に嫡子の守役となると、守役の座を巡る争いは熾烈であったようである。

都講

藩校崇徳館を描いた絵図。『長岡城之面影』(小川當知画、槇神明宮所蔵)より

都講は藩校崇徳館(文化5年創設。総建坪116坪半)および江戸藩邸上屋敷内の藩校就正館(文政13年(1830年頃)創建。上屋敷は度々移転しているためか詳細不明)の校長にあたる。崇徳館および就正館にそれぞれ2名ずつ設置。目付格。

崇徳館初代都講は伊藤東岸秋山景山で文化12年に任命。藩校の役職には他に教授(4名、中間頭格)、助教(14名)などがあり、崇徳館および就正館に置かれた。ただし、崇徳館のみ都講と教授の間に督学(2名)が置かれた。北越戦争の際には崇徳館職員は概ね恭順派。

江戸組

長岡藩の江戸屋敷に常駐する組。藩主江戸在府中の公的・私的用向き一切をまかない、藩主在国のときは江戸屋敷の留守を守り、幕府や他藩の情報を収集し国元に連絡する役目もある。職制は国元と共通のものが多いが、藩主の上屋敷に住まう藩主家族の日常生活や警護担当する者、留守居役や公用人などの独自の機関もあった。なお、越後長岡藩士の江戸での勤務形態に定府江戸詰めがあるが、大多数の諸藩と同じなので、定府の項を参照してもらいたい。

江戸組の職制は国元とは独自のものを以下に示す。

江戸留守居役(御城使)

定員2名。200石役。時代により差があるのか『長岡市史』では1名としている。江戸家老の補佐役で、家老も帰藩した場合は江戸組の責任者となる。長岡藩の江戸留守居役は、多数の諸藩同様に御城使の身分を兼帯している。留守居は単なる留守番ではなく、上屋敷に常駐して、対幕府・諸藩等との外交に常時当たる重責で、有能な者が選ばれた。越後長岡藩の支藩である小諸・三根山に対する指示および連絡は、主として御城使たる江戸留守居を通じて行われていた。

留守居添役

留守居の副官を留守居添役または、単に添役と呼ぶ。150石役(推定)。長岡藩分限帳には、添役であった者の記載がないが、同分限帳には、上級藩士であっても、役職の記載がないことがしばしばある。添役は、各種江戸武鑑の原本には記載が見られる。ただし、他藩においても10万石級以上の大名ではあまり添役を武鑑掲載対象にしておらず、越後長岡藩でも文政年間(1818年 - 1831年)の武鑑上で定府中老が城使を兼務した際に見られるなど常時掲載ではない。

公用人

公用人は江戸組に置かれた。共に城中にありその補佐・伝奏を行う。他に組1個隊が、城中の藩主に近侍して事務方を構成する。江戸家老はこれらに当たらないのが通例であった。江戸武鑑上では4名〜3名見られ、うち2〜1名は定府用人が兼帯している[21]

京詰めと公用人

京都所司代に就任した場合も公用人が置かれ、長岡藩主牧野家は江戸時代後期に3度ある。この場合は、藩主は当然、江戸に定府せず京に赴任して、同地に詰めた。臨時に長岡藩江戸屋敷から派遣された留守居・添役および、江戸屋敷に残った留守居・添役も、揃って公用人を称した。また藩主の京都所司代就任に当たり、別個に家臣団を編成しその武鑑が現存するが、内実は江戸表や国許との役職との兼職や、臨時の派遣に頼った。またこのとき新規に、公用人に補任された藩士(例、三間家)が存在したようである(厳密には交代の可能性も否定できない)。他藩の例から推して、京詰めの公用人は、言わば京都所司代官房(文書課・秘書課・広報課)としての権能を持つと共に、京都所司代から幕府・諸藩に使わされる公使となったと考えられる。また家老首座の稲垣平助も、在所の長岡から京に赴任して、藩主を補佐して客死(一説には不審死)しているが、職名は牧野駿河守家来(あるいは家老)、稲垣平膳(平助の改名)としている。


注釈

  1. ^ この時の2千石の増分は、この朱印状の表示高7万4千石と添付の知行目録の合計村高(7万2千石余)の差額で、将来の新墾田の開発分2千石を見込んだものである[1]
  2. ^ 元和6年の加増分・栃尾郷1万石は、前年の元和5年の大名福島正則の改易にともない、牧野忠成が改易申し渡しの使者を務め、また安芸国広島城受け取りにも参加して無事任務を終えたので、その恩賞または福島正則正室が徳川家康養女(実は牧野忠成の実妹)であったため忠成がこれを引き取った際の扶養料とされる[2]
  3. ^ 『参州牛窪之壁書』は同藩の藩士・高野餘慶の記した『御邑古風談』に書き留められているもの。また『侍の恥辱十七箇条』は『河井継之助の生涯』などの著者の安藤英男によれば、初代藩主・忠成が長岡城に初めて入った時に諸士出仕の大広間に掲示したものだという[5]
  4. ^ 藩校での修学者の士分限定は柳河藩などでも見られるが、士分以外でも修学できる藩も存在した。
  5. ^ 長岡藩の「安政分限帳」(『長岡藩政史料集(6)長岡藩の家臣団』所収)によれば、50石未満の低位の知行である藩士が大組に119名確認され、最小俸給者は知行高20石または5人扶持の藩士である。
  6. ^ 『長岡市史』では100石以上に馬1〜4匹の保持を認めており、50石未満の低位の知行である藩士が馬一頭を飼う事は常識的には不可能であり、あくまで格式にすぎない。諸藩・幕臣にあっても、その家臣に馬上を許しながら、実際に馬を飼っていなかったということはよくあった。ただし、長岡藩には藩が馬を持たない武士に馬を貸与する制度があったと『長岡市史』にある。
  7. ^ なお、『大武鑑』掲載の江戸武鑑では元文から延享まで、江戸幕府の小姓組を「扈従組」と表記している。
  8. ^ 長岡藩の刀番は小姓組所属は知行100石未満では役高50石、ただし大組所属で100石以上の場合は役高70石の扱いである[14]
  9. ^ 長岡藩士における「筋目」とは藩士個々の家の戦功その他の由緒によるものされ、知行高や役職地位そのものではない。藩士・高野餘慶は『由旧録』で「士に家格あり、役格あり、知行格あり。此中家格ハ、先祖の由緒によりて代々其筋目を重んする事なれハ、秩禄の高下によらさる也」と説明している[15]
  10. ^ 越後長岡藩では一代家老に抜擢されたのは、江戸時代を通じて、三間監物・雨宮修堅・倉沢又左衛門・河井継之助のわずか4名である。家老の家柄でなく、家老職に就任して、執務実績をともなった者は、三間監物と、幕末の河井継之助だけと言える状況であり、この2人も共に有終の美を飾れなかった。他の2名は、家老職に就任しても実権が伴わなかったり、まもなく失脚・お役ご免などに追い込まれた。ほかに明治維新後に就任した大参事(=家老相当)として、小林虎三郎・三島億二郎がある。幕末の薩摩藩、長州藩に見られるような下級藩士からの重臣登用は、長岡藩においては見られなかった。また江戸時代初期の稲垣権右衛門や真木庄左衛門は、家老並の大身であるが、家老職に就任したとする藩政史料は存在しない。
  11. ^ 「蔵米取り」の禄高は俵数で表すが、「知行取り」は石高で表示する。「知行取り」の体裁を保ちながらも実際の支給が蔵米による
  12. ^ 下記、今泉鐸次郎・今泉省三他『越佐叢書 巻8』(1971年、野島出版) 所収、「由旧録 巻之下」で高野餘慶は「代々家老」と題して、「元来、御家老ハ、皆才覚器用よりも古法相伝を専要とする事にて候。……諸役人の申事を聞て、古法の曲尺にはつれぬ事なれハ、其通りに申付候」と長岡藩の家老について説明している。
  13. ^ 諸藩にあっては、寄組を老職クラスを除く上級家臣の総称または、所属としている例があるが、これとは異なる。また上級家臣の精勤者を遇する大寄会と、同じく中堅家臣を遇する寄会とを分けて持つ藩もあるが、越後長岡藩の場合は、特に功績のあった中堅家臣の隠居を遇するポストはなく、大寄会とも云うべき寄会組だけがあった。ただし江戸時代後期から幕末にかけては、特に功績のあった用人・奉行なども寄会組に加えられるようになった。
  14. ^ なお、番頭が用人の下座に置かれるのは他藩では越智松平家家中でも見られる。

出典

  1. ^ 『シリーズ藩物語 長岡藩』
  2. ^ 『長岡の歴史 第1巻』野島出版、1968年
  3. ^ 『長岡の歴史 第1巻』野島出版、1968年
  4. ^ 『長岡市史(通史編・上巻)』長岡市、1996年
  5. ^ 『定本 河井継之助』白川書院、pp19-20
  6. ^ 新潟県立図書館「越後佐渡デジタルライブラリー」『越後国上杉景勝家督争合戦』
  7. ^ 『長岡市史』
  8. ^ 『北越秘話』
  9. ^ 「越後長岡藩文書の備前守殿勝手向賄入用相成候由」『日本歴史地名大系15・新潟県の地名』平凡社
  10. ^ 『長岡市史』
  11. ^ 『長岡の歴史 第1巻』
  12. ^ 『新潟県史・通史3・近世1』
  13. ^ 『長岡市史』
  14. ^ 『長岡の歴史 1』pp270 - 271
  15. ^ 『越佐叢書』所収「由旧録(巻之下)」pp69-70
  16. ^ 『新潟県史・通史3・近世一』
  17. ^ 『長岡の歴史 第1巻』pp224 - 225
  18. ^ 『長岡市史』p134。なお、長岡藩では時代により「用人」を「御用番」とも称している例があるので注意が必要である。
  19. ^ 『長岡市史』137p
  20. ^ 柏書房の『編年江戸武鑑』および『大武鑑』。少なくとも文化年間以降の武鑑では附と奉行または用人の中の一人が常に同姓同名。
  21. ^ 『改訂増補 大武鑑 中巻』
  22. ^ 今泉省三『長岡の歴史 第1巻』(1968年、野島出版)p269
  23. ^ 『編年改訂 大武鑑 中巻』(名著刊行会)






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「越後長岡藩」の関連用語

越後長岡藩のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



越後長岡藩のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの越後長岡藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS