越後長岡藩 長岡藩主牧野家の支藩

越後長岡藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/01 05:22 UTC 版)

長岡藩主牧野家の支藩

初代の越後長岡藩主・牧野忠成のとき、新田分16,000石をもって分家させた2家がある。この2つの藩は、与板藩(後に小諸藩)・三根山藩は、何事も本家の長岡の家風を見習うこととされ、本藩に政事上の指図を仰ぐ事もあった。

与板(與板)藩→小諸藩

与板(與板)藩(よいたはん)は、1634年、牧野康成が越後長岡藩の支藩として1万石をもって立藩した。与板侯初代の康成は、与板に領地をたまわってから、在所の陣屋に23年間、移らなかった。なお正確には、与板藩ではなく與板藩と書く。3代目の康重が、5代将軍の徳川綱吉と従兄弟になったため、表高15,000石(内高3万石)に加増されて城持ち大名となり信濃国小諸に転封した。

三根山藩

三根山藩(みねやまはん)の淵源は、1634年に牧野忠成の四男定成蒲原郡三根山(のちの西蒲原郡巻町嶺岡→峰岡、現在の新潟市西蒲区峰岡)に6,000石を分与し分家させたのに始まる。幕末の1863年、時の領主忠泰(ただひろ)は新田分5千石を新たに打ち出し、高直しにより1万1千石の三根山藩として立藩した。なお当藩は、諸侯となってからは、参勤交代を行わない定府大名となった。

関宿藩→吉田藩→延岡藩→笠間藩

関宿藩吉田藩延岡藩笠間藩と転封された牧野家は、大胡藩主牧野康成の庶子・儀成(旗本2千石)を祖とする庶流である。儀成は、初代長岡藩主牧野忠成の実弟でもある。

越後長岡藩主の牧野忠敬、忠利は笠間藩主家出身であり、忠寛も「公式上」笠間藩主家出身ということになっている。


注釈

  1. ^ この時の2千石の増分は、この朱印状の表示高7万4千石と添付の知行目録の合計村高(7万2千石余)の差額で、将来の新墾田の開発分2千石を見込んだものである[1]
  2. ^ 元和6年の加増分・栃尾郷1万石は、前年の元和5年の大名福島正則の改易にともない、牧野忠成が改易申し渡しの使者を務め、また安芸国広島城受け取りにも参加して無事任務を終えたので、その恩賞または福島正則正室が徳川家康養女(実は牧野忠成の実妹)であったため忠成がこれを引き取った際の扶養料とされる[2]
  3. ^ 『参州牛窪之壁書』は同藩の藩士・高野餘慶の記した『御邑古風談』に書き留められているもの。また『侍の恥辱十七箇条』は『河井継之助の生涯』などの著者の安藤英男によれば、初代藩主・忠成が長岡城に初めて入った時に諸士出仕の大広間に掲示したものだという[5]
  4. ^ 藩校での修学者の士分限定は柳河藩などでも見られるが、士分以外でも修学できる藩も存在した。
  5. ^ 長岡藩の「安政分限帳」(『長岡藩政史料集(6)長岡藩の家臣団』所収)によれば、50石未満の低位の知行である藩士が大組に119名確認され、最小俸給者は知行高20石または5人扶持の藩士である。
  6. ^ 『長岡市史』では100石以上に馬1〜4匹の保持を認めており、50石未満の低位の知行である藩士が馬一頭を飼う事は常識的には不可能であり、あくまで格式にすぎない。諸藩・幕臣にあっても、その家臣に馬上を許しながら、実際に馬を飼っていなかったということはよくあった。ただし、長岡藩には藩が馬を持たない武士に馬を貸与する制度があったと『長岡市史』にある。
  7. ^ なお、『大武鑑』掲載の江戸武鑑では元文から延享まで、江戸幕府の小姓組を「扈従組」と表記している。
  8. ^ 長岡藩の刀番は小姓組所属は知行100石未満では役高50石、ただし大組所属で100石以上の場合は役高70石の扱いである[12]
  9. ^ 長岡藩士における「筋目」とは藩士個々の家の戦功その他の由緒によるものされ、知行高や役職地位そのものではない。藩士・高野餘慶は『由旧録』で「士に家格あり、役格あり、知行格あり。此中家格ハ、先祖の由緒によりて代々其筋目を重んする事なれハ、秩禄の高下によらさる也」と説明している[13]
  10. ^ 越後長岡藩では一代家老に抜擢されたのは、江戸時代を通じて、三間監物・雨宮修堅・倉沢又左衛門・河井継之助のわずか4名である。家老の家柄でなく、家老職に就任して、執務実績をともなった者は、三間監物と、幕末の河井継之助だけと言える状況であり、この2人も共に有終の美を飾れなかった。他の2名は、家老職に就任しても実権が伴わなかったり、まもなく失脚・お役ご免などに追い込まれた。ほかに明治維新後に就任した大参事(=家老相当)として、小林虎三郎・三島億二郎がある。幕末の薩摩藩、長州藩に見られるような下級藩士からの重臣登用は、長岡藩においては見られなかった。また江戸時代初期の稲垣権右衛門や真木庄左衛門は、家老並の大身であるが、家老職に就任したとする藩政史料は存在しない。
  11. ^ 「蔵米取り」の禄高は俵数で表すが、「知行取り」は石高で表示する。「知行取り」の体裁を保ちながらも実際の支給が蔵米による
  12. ^ 下記、今泉鐸次郎・今泉省三他『越佐叢書 巻8』(1971年、野島出版) 所収、「由旧録 巻之下」で高野餘慶は「代々家老」と題して、「元来、御家老ハ、皆才覚器用よりも古法相伝を専要とする事にて候。……諸役人の申事を聞て、古法の曲尺にはつれぬ事なれハ、其通りに申付候」と長岡藩の家老について説明している。
  13. ^ 諸藩にあっては、寄組を老職クラスを除く上級家臣の総称または、所属としている例があるが、これとは異なる。また上級家臣の精勤者を遇する大寄会と、同じく中堅家臣を遇する寄会とを分けて持つ藩もあるが、越後長岡藩の場合は、特に功績のあった中堅家臣の隠居を遇するポストはなく、大寄会とも云うべき寄会組だけがあった。ただし江戸時代後期から幕末にかけては、特に功績のあった用人・奉行なども寄会組に加えられるようになった。
  14. ^ なお、番頭が用人の下座に置かれるのは他藩では越智松平家家中でも見られる。

出典

  1. ^ 『シリーズ藩物語 長岡藩』
  2. ^ 『長岡の歴史 第1巻』野島出版、1968年
  3. ^ 『長岡の歴史 第1巻』野島出版、1968年
  4. ^ 『長岡市史(通史編・上巻)』長岡市、1996年
  5. ^ 『定本 河井継之助』白川書院、pp19-20
  6. ^ 新潟県立図書館「越後佐渡デジタルライブラリー」『越後国上杉景勝家督争合戦』
  7. ^ a b c 『長岡市史』
  8. ^ 『北越秘話』
  9. ^ 「越後長岡藩文書の備前守殿勝手向賄入用相成候由」『日本歴史地名大系15・新潟県の地名』平凡社
  10. ^ 『長岡の歴史 第1巻』
  11. ^ 『新潟県史・通史3・近世1』
  12. ^ 『長岡の歴史 1』pp270 - 271
  13. ^ 『越佐叢書』所収「由旧録(巻之下)」pp69-70
  14. ^ 『新潟県史・通史3・近世一』
  15. ^ 『長岡の歴史 第1巻』pp224 - 225
  16. ^ 『長岡市史』p134。なお、長岡藩では時代により「用人」を「御用番」とも称している例があるので注意が必要である。
  17. ^ 『長岡市史』137p
  18. ^ 柏書房の『編年江戸武鑑』および『大武鑑』。少なくとも文化年間以降の武鑑では附と奉行または用人の中の一人が常に同姓同名。
  19. ^ 『改訂増補 大武鑑 中巻』
  20. ^ 今泉省三『長岡の歴史 第1巻』(1968年、野島出版)p269
  21. ^ 『編年改訂 大武鑑 中巻』(名著刊行会)






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