紀州藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/31 22:57 UTC 版)
支藩
家老
- 安藤家 - (紀伊田辺城主3万8千石)幕末に紀伊田辺藩として独立、維新後男爵
- 水野家 - (紀伊新宮城主3万5千石)幕末に紀伊新宮藩として独立、維新後男爵
- 三浦家 - (紀伊貴志領1万5千石)維新後男爵
- 水野太郎作家 - (7千石、正知の代に1万石格)安藤、水野、三浦、久野に水野太郎作家を加えて五家と称する。
- 水野正重-義重=重増=忠知=知義-正実=正珍-正純=正清=正知=正義
- 渡辺主水家 - (3千石 恭綱は松平頼純の庶長子)
- 村上与兵衛家 - (3千5百石)村上通清が初代。
- 伊達源左衛門家 - (3千石)今川家家臣伊達景信の孫正勝が初代。
- 戸田金左衛門家 - (3千2百石)三河大津城主戸田清光の嫡男清堅が初代。
- 加納平次右衛門家 - (4千石)加納直恒が初代。
- 水野多門家 - (3千石)水野重孟が初代。
- 朝比奈惣左衛門家 - (3千石)朝比奈泰能の三男泰倫が初代。
- 岡野平太夫家 - (4千石)板部岡江雪斎の孫岡野英明は徳川頼宣に仕えたが、将軍家の旗本に召出され、代わりに四男房明が頼宣に仕えた。
支城
別邸など
- 江戸藩邸は上屋敷が紀尾井町に(現・清水谷公園など)、中屋敷が赤坂に(現・赤坂御用地)にあった。中屋敷は東京奠都後に一時的に明治天皇の御所として使用された。
- 巖出御殿の臨春閣は、慶安2年(1649年)の建築だが、現在は神奈川県横浜市の三渓園にある。
- 西浜御殿は、文政4年(1821年)に建てられたもので国の名勝に指定されている。
- 田母沢御用邸(栃木県日光市)は、紀州藩江戸上屋敷の一部を移築し、それを核に明治、大正時代に建て増した建物である。
- 和歌山城二の丸御殿は残された表向の白書院・黒書院・遠侍が明治18年(1885年)7月大阪城本丸に移築され、陸軍第4師団司令部となり紀州御殿と称された。昭和6年(1931年)以降は大阪市の迎賓館となったが、進駐軍接収中の昭和22年(1947年)9月12日失火により焼失した。
- 和歌山城本丸御殿は明治6年(1873年)以降に取り壊されたが、御台所のみが和歌山市の光恩寺に庫裡として移築された。
幕末の領地
明治維新後に、大和国吉野郡1村(五條代官所管轄の旧幕府領)、北見国紋別郡が加わったほか、一志郡1村(津藩領との相給)、飯野郡1村(津藩領との相給)、度会郡1村(幕府領との相給)の全域を本藩領とした。
固有名詞の分類
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