神風特別攻撃隊 特攻隊員

神風特別攻撃隊

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特攻隊員

練習機「白菊」で編成された、神風特別攻撃隊徳島白菊隊の特攻隊員

志願

特攻隊員の選抜については、大西が軍令部に航空特攻の開始を進言した際に総長の及川より「あくまでも本人の自由意志に基づいてやってください。決して命令はしてくださるな」と念を押されたように、原則は本人の志願に基づくものとされていたとする意見もあるが[362]、一方で、最初の神風特攻隊「敷島隊」の指揮官となった関の志願を命令に近い打診だったと考え、初めから志願者のみという原則は徹底されていなかったとする意見もある[363]。志願にあたっては「親一人、子一人の者」「長男」「妻子のある者」を除外することとしていたが、これも徹底はされていなかった[364]

桜花搭乗員の募集は、フィリピンで特攻が開始される前の1944年8月中旬から始まっており、海軍省の人事局長と教育部長による連名で、後顧の憂いのないものから募集するという方針が出されている[365]台南海軍航空隊では、司令の高橋俊策大佐より、搭乗員に対して「戦局は憂うべき状況にあり、中央でとても効果が高い航空機が開発されているが、それは死を覚悟した攻撃である」との説明があり、「確実に命を落とすが、現状打破にはこの方法しかない、海軍としてはやむを得ない選択であり志願を募る」と告げた。ただし妻帯者、一人っ子、長男はその中から除外された。3日間の猶予を与えられたが、海軍飛行予備学生第13期の鈴木英男大尉は「自分の命を引き換えに日本が壊滅的な状況になる前に、有利な講和交渉に持ち込めたら」「我々の時代は大学に進学するのはエリートであり、将来的に国のために尽くしてくれると、世間の人たちから大事にしてもらってきた厚意に報いたい」という気持ちで志願している[366]

関らの成功により特攻志願者は増えたが、フィリピン戦の時点では選抜は原則志願を徹底するように慎重に行われていた。敷島隊の突入の10日足らずのちの1944年11月3日に元山海軍航空隊で特攻の志願者を募ったが、その際司令の藤原喜代間少将は「熟慮のうえで志願するように」と伝え、志願者が司令官公室に出向いてくると「後顧の憂いはないのか」と再度念を押している。志願者が意志を曲げない場合でも「君の希望を中央に連絡する」と即答を避けた。それでも選抜されない場合もあり、海軍飛行予備学生第13期の土方敏夫少尉の場合は、3回志願したがついに選抜されることはなかった[367]

一航艦参謀だった猪口力平によれば、アメリカ軍が沖縄まで侵攻し、菊水作戦で特攻がより大規模になると様相は変わり、一時の感情にかられて志願する者や、また周囲の雰囲気に流されて、同調圧力で志願する者も多くなったという[368]高知海軍航空隊は練習機白菊による搭乗員訓練の航空隊であったが、戦局も逼迫した1944年末に横須賀鎮守府より特攻隊編成の訓示があり、航空隊司令加藤秀吉大佐から各員に「特別攻撃隊を編成するから、志願する者は分隊長に申し出るように」との指示があった。各人の意志に委ねられた形式で積極的に志願した者が多かったが、中には、搭乗員である以上は勇ましい志願をせざるを得ず、やむなく志願した者もいたという[369]筑波海軍航空隊では海軍飛行予備学生の訓練生に志願が呼びかけられたが、特攻に志願しないと飛行機に搭乗することができず、防空壕掘りか、代用燃料の松根油の材料であった松の根掘りに回されるという噂が立ち、自尊心から特攻を志願した者もいた[370]

また、形式的な志願もない特攻出撃を命令されることもあった。指揮官の美濃部正少佐が特攻を拒否したと言われる夜間戦闘機隊の芙蓉部隊において、1945年2月17日、ジャンボリー作戦で日本本土を攻撃してきた第58任務部隊に対して、美濃部がかねてより温めてきた「黎明に銃爆撃特攻隊を準備し、最後は人機諸共に(空母の飛行)甲板上に滑り込み発進準備中の甲板上の飛行機を掃き落とす」[371] という対機動部隊特攻戦術で攻撃するべく、美濃部は出撃する搭乗員らに「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」や「機動部隊を見たらそのままぶち当たれ」と命じて、別れの盃(別盃)を交わしているが[372]。この日出撃した河原政則少尉の記憶では、指揮所に行くと志願をしてもないのに自分の名前が出撃者名簿に記載されていたという。美濃部は別盃が並んだテーブルを前に、河原ら特攻出撃者の一人一人と握手を交わしたが、出撃した特攻機は敵艦隊を発見できずに引き返した[373]。同様な別杯をかわしての特攻出撃命令は、沖縄戦中の5月25日にも出されている[374]。美濃部は「特攻は戦機に乗じ臨機必死隊を出すべきものにして常用するは戦闘の邪道なり」と考えていた[375][376]

航空隊全体が特攻を命じられることもあり、第二〇五海軍航空隊については103名の搭乗員全員が、「特攻大義隊員を命ず」との辞令で特攻隊員に選抜されている[377]。沖縄戦で特攻機の護衛や要撃任務に就いていた第二〇三海軍航空隊戦闘303飛行隊に対しても「特攻隊員を〇人出せ」というような命令が来たが、飛行長の岡嶋清熊少佐が「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」という信念で、容易にはその命令に従わなかった[378]。しかし、特攻が開始された直後のフィリピン戦においては、1944年10月29日に岡嶋が全搭乗員32名を整列させて特攻志願者を募り、全員が志願したためその中から3名を選抜している[379]

民間航空機搭乗員を希望して乙種海軍飛行予科練習生第18期生として土浦海軍航空隊に入隊した桑原敬一は、ある日、講堂に集合させられ、参謀より「戦局悪化により特攻隊編成を余儀なくされたので、諸君らの意思を確認したい。各人に用紙を渡すから明日までに特攻志願する場合は所属部隊名と氏名を用紙に書き、志望しない場合は白紙で出すように」と言われた。各隊員は来るべきものが来たという気持ちで、複雑な心境ながら翌日に大多数は志願したが、白紙で提出した隊員も少なくなかった。しかし後日の参謀からの言葉は「諸君の意思は全員熱望であり、ただの一人の白紙もなかった」という意外なものであった。その言葉を聞いた桑原は憤りで頭にカアッと血が上ったと言う。桑原はこの自分の体験により、末期の特攻志願は似たような志願の強制事例が横行していたと考えていた[380]

終戦後に、米国戦略爆撃調査団は特攻に対して詳細な調査を行ったが、海軍兵学校卒の現役士官4名、学徒出陣の海軍飛行予備学生2名に対して、特攻の志願について事情聴取を行っている。アメリカ軍調査官ヘラー准将の「特攻は強制であったか、志願であったか?」との質問に対して、兵学校出身の現役士官は「全て志願であった、しかしフィリピンでは戦況によって部隊全部が特攻出撃したこともある」「内地で募集した際も殆ど全員が熱望し、中には夜中に学生から何度も起こされて自分を第一番にしてもらいたいと言われたこともある。また一人息子だから対象者から外したら、母親から息子を特攻隊員にしてほしいとの嘆願書が来たこともあった」と答えている。また海軍飛行予備学生の2名も「学徒出陣の我々は軍人精神を体得した者とは言えないが、一般人として戦況を痛感し、特攻が最も有効な攻撃法と信じた。我々が身を捧げる事により、日本の必勝を信じ、後輩がよりよい学問を成し得るようにと考えて志願した」と答えている。この事情聴取によって、当初は「アメリカの青年には到底理解できない。生還の道を講ずることなく、国家や天皇の為に自殺しようとする考え方は考える事ができない」と言っていたヘラー准将も、最後には「特攻隊の精神力をやや理解できた。君らのいう事は理に適っており、アメリカ人にも理解できると思う」と話している[381]

多数の特攻隊指揮官から隊員の生存者まで尋問した米国戦略爆撃調査団の出した結論は「入手した大量の証拠や口述書によって大多数の日本軍のパイロットが自殺航空任務に、すすんで志願した事は極めて明らかである。機体にパイロットがしばりつけられていたという話[注 16] は実際にそういうことが起きたとしても、一度だけだったであろう。また、戦争最後の数週間前までに、もっとも熱心なパイロットは消耗されつくしたか、あるいは出撃を待っている状態だった事も明らかである。陸海軍両軍とも、新米で訓練不足のパイロットを自殺部隊に割り当てる、つまり志願者を徴集する段階に到達していた。」と原則志願制でありながら、それが既に限界に達していたと分析している[382]

戦死者

海軍特攻戦没者数と構成率[383]
階級 戦没者数 構成比率
現役士官/将校 121名 4.8%
予備学生 648名 25.6%
特務士官准士官下士官 1,762名 69.6%
合計 2,531名 100%
大戦末期の日本海軍航空隊全搭乗員の階級別構成率[384]
階級 1945年4月1日時点 構成比率 1945年7月1日時点 構成比率
現役士官/将校 1,269名 5.3% 1,036名 4.7%
予備学生 5,944名 25.0% 5,530名 24.8%
特務士官・准士官・下士官兵 16,616名 69.7% 15,711名 70.5%
合計 23,829名 100% 22,277名 100%

「身内の、海軍兵学校卒のエリート士官を温存し、学生出身の予備士官や予科練出身の若い下士官兵ばかりが特攻に出された」という意見があるが[377]、特攻戦没者数の海軍兵学校卒の現役士官、学徒出陣などで学生から採用された海軍予備学生、特務士官以下の構成率は、大戦末期の日本海軍全搭乗員の構成率とほぼ同じであり、単なる人数比に過ぎず、母数を無視してあたかも現役士官が優遇されていたように指摘するのは「軍隊=身内をかばう悪しき組織」とした方が、特攻を批判するのに都合がいいからという意見もある[377]

飛行学生(海軍兵学校卒)と飛行予備学生の戦没率の対比[385]
飛行学生 飛行予備学生
人員総数 1,945名 10,778名
戦没者 1,103名 2,464名
内特攻死 108名 652名
内殉職 142名 386名
戦没率 56.7% 22.9%

海軍兵学校卒の航空士官の戦没率は、海軍航空予備学生の航空士官の約2.5倍に達している。戦争の激化に伴い、士官の消耗が激しくなったことから、海軍兵学校も55期~65期までの100名~150名であった卒業生の任官を、大幅に増加させる必要に迫られた。66期に219名と200名を突破したあとも年々増加し、70期では432名、そして終戦直前の1945年3月に卒業した74期は1,024名の大量任官となった。しかし、海軍兵学校の現役士官の戦没率は非常に高く、海兵68期卒業生288名の内191名が戦死し戦没率66.32%、海兵69期卒業生343名中222名戦死し戦没率64.72%、70期は433名中287名戦死し戦没率66.28%、71期は581名中329名の56.6%、72期は625名中の337名の53.9%と高水準となっており [386][387]、特に、航空士官の死亡率が高く、例えば1939年に卒業した第67期は全体では248名の同期生の戦没率は64.5%であったが、そのうち86名の航空士官に限れば66名戦没で戦没率76.6%、特に戦闘機に搭乗した士官は16名のうちで生存者はたった1名、艦爆搭乗の士官の13名に至っては全員戦没している[388]

海軍兵学校卒の航空士官の補充が到底追いつかなくなった海軍は、海軍飛行予備学生を大量に航空士官として採用せざるを得ず、1943年9月に従来の、大学・旧制高等学校旧制専門学校卒業見込生という基準を緩和して、旧制師範学校の卒業見込生も有資格者とした。飛行予備学生の人気は高く、50,000名以上の志願者があったが、そのうち約1割の4,726名が選抜されて第13期生として採用された[389]。第13期生は10か月という促成訓練で最前線に送られ、特攻が開始される前に1,607名がすでに戦死している[390]。その後も飛行予備学生は、終戦まで第14期、第一期予備生徒と大量に採用され、沖縄戦開始時点の4月1日時点で、日本海軍の航空士官で海軍飛行予備学生の士官が占める割合は82.4%にも達していた[384]。海軍省に対し、ある航空隊の司令官が「今や、私の航空隊の搭乗員の主力は、第13期予備学生の出身者で占められている。彼らなしでは戦えない。彼らを大量にされたことはまことに有意義なことであった」と報告した通り、日本海軍航空士官の主力は、学徒の海軍飛行予備学生の士官と言っても過言ではない状況となっていたが[391]、それでも、飛行予備学生の大量採用に踏み切った以降の卒業生となる13期、14期、予備生徒1期で合計8,673名中戦没者は2,192名、戦没率25.2%と飛行予備学生全体の戦没率より高めながら、海軍兵学校卒の航空士官の戦没率の半分以下であった[377]

しかし、筑波海軍航空隊のように、海軍兵学校卒の航空士官の教官多数が所属していたのに、特攻隊を編成するにあたって、一人も海軍兵学校卒の航空士官が特攻に志願しなかったこともあった。これは、訓練航空隊である筑波海軍航空隊は、戦闘機乗りは戦闘機で敵機と渡り合うのが任務という信念が強く、敵艦に体当たりするだけの特攻には反対という機運が航空隊全体に強かったためとする意見もあるが、筑波海軍航空隊で特攻志願して、第一筑波隊から第五筑波隊として選抜された64名の飛行予備学生の中には不思議に思うものもいたという[392]。その後、沖縄戦の戦局が緊迫すると、2名の海軍兵学校卒の航空士官が特攻に志願して戦没している[393]。筑波海軍航空隊の例のように「飛行予備学生出は海兵出の弾よけであった」など飛行予備学生が不満や不信を抱くことはあった。長岡高等工業学校(現・新潟大学)から飛行予備学生となった陰山慶一中尉は、当時を振り返って「われわれを立派な海鷲の士官として育ててくれた上官、教官には深く感謝し、ともに闘ってきたコレスの(海軍兵学校)72期、79期の飛行学生には、深い友情を覚える」と海軍兵学校卒の航空士官に対してわだかまりはないと述べる者もいる[391]

名称と発表

関行男大尉の特攻を報じる『写真週報

「神風特別攻撃隊」の名称は、命名者の猪口力平中佐によれば、郷里の道場「神風(しんぷう)流」から取ったものである[394]。猪口によれば、大西中将が特攻隊を提案した10月19日の晩、201空副長玉井浅一中佐と相談して「神風を吹かせなければならん」と言って決め、大西中将に採用されたものであるという[395]

しかし、大西瀧治郎中将は特攻の戦果発表に関心を持っており、長官に内定した1944年10月5日には海軍報道班員に対して「活躍ぶりを内地に報道してほしい」と依頼していた[396]。また、海軍省による発表の準備も進められており、現場の大西中将に発表方法を相談するために、軍令部から大海機密第261917番電「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」(1944年10月13日起案、10月26日発信)が打電された。13日に起案された電文に「神風攻撃隊」という名前が記載されているので、大西が東京を出発する前に中央と名前を打ち合わせていたとも言われる。電文の発信は軍令部第一部長中沢佑少将、起案は軍令部航空部員源田実中佐が担当した。電文には海軍省の人事局主務者による「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」という意見が付されている[397]。特攻隊の編成命令を起案した門司親徳(大西の副官)によれば、起案日は誤記で23日ではないかという[398]。源田は、日付は覚えていないが、神風特攻隊の名前はフィリピンに飛んだ際に大西から直接聞いたと証言している[399]。この電文を特攻の指示、命名の指示と紹介する文献もあるが、現地で特攻の編成・命名が行われたのは20日であり、この電文が現地に発信されたのは26日であるため、この電文は特攻隊の編成や命名に影響を与えていない。

この神風特攻隊の発表は、1944年10月28日の「海軍省公表」で行われた。この公表は敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した菊水隊、大和隊の戦果が同時に発表されなかった。この神風特攻隊発表の筋書きは、講和推進派の海軍大臣米内光政大将と軍令部総長及川古志郎によるものであり、特攻のインパクトのために数より(海軍兵学校出身者による特攻という)質を重視した判断という指摘もある[400]。また、1944年10月初旬から既に新聞・ラジオで「神風」という言葉が頻出するようになっていた[401]。国民が神風特攻隊を知ったのは1944年10月29日の新聞各紙による海軍省公表、特攻第一号・関中佐の記事が最初だった[402]。海軍省公表とともに詳しい記事が各紙で掲載された。

海軍省公表(昭和十九年十月二十八日十五時)神風特別攻撃隊敷島隊員に関し、聯合艦隊司令長官は左の通全軍に布告せり。
布告
戦闘〇〇〇飛行隊分隊長 海軍大尉 関 行男
戦闘〇〇〇飛行隊付 海軍一等飛行兵曹 中野磐雄
戦闘〇〇〇飛行隊付 同 谷 暢夫
同 海軍飛行兵長 永峰 肇
戦闘〇〇〇飛行隊付 海軍上等飛行兵 大黒繁男
神風特別攻撃隊敷島隊員として昭和十九年十月二十五日〇〇時「スルアン」島の〇〇度〇〇浬に於て中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦の一群を補足するや、
必死必中の体当り攻撃を以て航空母艦一隻撃沈同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦果を収める悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり。
昭和十九年十月二十八日 聯合艦隊司令長官 豊田副武


  1. ^ これは猪口の証言によるものであり、戦史叢書56 1972, p. 108によれば、大西瀧治郎がフィリピンに出発する前に軍令部で航空特攻開始について参謀の源田と打ち合わせした際に「神風攻撃隊」との特攻隊全体の名称と、敷島、朝日隊等の部隊名は既に決まっており、その隊名に基づいて大海機密第261917番電も作成されており、「神風特別攻撃隊」の実際の命名者は誰であるのか判然としない。本文(歴史>創設の項目)を参照。
  2. ^ 高空を高速で侵入し、防御火力が厚い戦略爆撃機に対する枢軸国防空戦闘機による体当たり攻撃の例としては、震天制空隊(日本)やエルベ特別攻撃隊ナチス・ドイツ)を参照。
  3. ^ 戦闘901航空隊飛行隊長で、のちに芙蓉部隊の指揮官として有名となった美濃部正少佐が、自分が偵察飛行を行ったので誤報であることが判明したと戦後に出版した著書『大正っ子の太平洋戦記』(方丈社)などで主張しているが、事件後に現地調査した軍令部参謀奥宮正武中佐は玉井の偵察飛行で判明したと証言している。
  4. ^ このコンセプトは米内光政海軍大臣によるものと言われる[62]
  5. ^ この証言は、大西瀧治郎が公言したものではない。角田和男が小田原俊彦大佐から聞いた話である。大西自身は終戦講和に強く反対したことから、この証言に懐疑的な見解を持つ研究者もいる[63]
  6. ^ 甲飛10期生は、神風特攻隊の創始者を大西ではなく玉井と見ている。その理由として「編成は現場を熟知している玉井によって既に作られていたような手早い段取り、組み合わせだったこと[87]」「玉井はフィリピンにおける特攻の最たる推進者で、マリアナ沖海戦後は早い段階から体当たり攻撃を提唱し、甲飛10期生に『もう特攻しかない』『必ず特攻の機会をやる』と話していたこと」を挙げている[88]
  7. ^ アメリカ本土に曳航されたが修理不能と判定され除籍されたか、戦後に行われた損傷艦艇の検査の際に、新造以上のコストがかかると判定され、海軍作戦部長命で廃艦指示された艦。
  8. ^ 損傷艦は延べ数
  9. ^ アメリカ海軍、イギリス軍、ソ連軍各1隻。
  10. ^ 護衛空母「セント・ロー」は沈没時に113名戦死したが、その後に負傷が原因で30名が死亡。
  11. ^ 有効至近命中はアメリカ軍艦艇に損傷を与えたもののみ計上。
  12. ^ 合計が合わないが原資料のまま。
  13. ^ 船が回頭する際の軸。前進中ならば船首から船の重心までの距離の約13にあたる
  14. ^ 第二次世界大戦中におけるアメリカ軍の駆逐艦の撃沈破艦の約半数が、大戦末期にわずか10ヶ月間の特攻による損害であった。
  15. ^ シュブリックに突入した機体の機種は公式記録上は不明であるが、シュブリックが特攻された時間、5月29日0:13に沖縄に突入した航空機は、28日19:13から夜間出撃した第三次白菊隊11機以外になく(白菊は沖縄到達まで約5時間の飛行時間)白菊の戦果と推定される。
  16. ^ 当時アメリカの一部では特攻隊員は機体に縛り付けられたり、薬やアルコールで判断力を失ったりしていると信じられていた。
  17. ^ 護衛空母「サンガモン」のこと。1945年5月4日に特攻により大破して戦線離脱しそのまま除籍された。
  1. ^ 吉田 2017, p. 「特攻隊」.
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