東西教会の分裂
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この東西教会の分裂は、多くのシスマ(分裂)の中でも史上最大規模だったことから大シスマとも呼ばれる[注釈 1]。
分裂の年
分裂の年は、日本においては、ローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教が相互に破門した1054年とされることが多い。
しかし、395年にローマ帝国が東西に分割された後、476年の西ローマ帝国滅亡を経て、東西両教会の交流が薄くなり、数百年の間に教義の解釈の違い(フィリオクェ問題等)、礼拝方式の違い、教会組織のあり方の違い(教皇権に対する考え方の違い、司祭の妻帯可否等)などが増大した[1][2]。
そうした流れの中に1054年の事件があるのであり、一応、1054年の「相互破門」が日本の世界史教科書等で一般的な目安ではあるが、異論も少なくない。1054年の相互破門自体は東西双方から解消されているが、未だに東西両教会の「合同」は成立していない[3]。
分裂の経緯
11世紀まで:東西教会の差異拡大
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一般に東西両教会が分裂したとされるのは「1054年のローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教(コンスタンティノープル総主教)の相互破門」と言われる事件であるが、これ以前にも、
- ローマ教皇(ローマ司教)の地位(教皇首位権問題)
- 典礼(奉神礼)の形式の差異の広がり
- フィリオクェ問題
- 助祭・司祭も妻帯が認められなかった西方に対し、輔祭・司祭には妻帯が認められていた東方という、聖職者の妻帯についての考え方の差異
- 聖像破壊論争
- 東ローマ帝国の事前承認を経ないローマ教皇によるカール大帝の戴冠(偽書『コンスタンティヌスの寄進状』も参照)
- フォティオスの分離
- スラヴ語奉神礼(典礼)の是非
- モラヴィアおよびルーシを、ローマとコンスタンディヌーポリのいずれが管轄するか(モラヴィア王国、オフリドのクリメントも参照)
等のさまざま問題をめぐり、両教会の間には数百年間にわたる論争と差異が既に顕在化していた。従って、東西教会の分裂は11世紀になって両教会の両指導者の思惑によって突如発生させられたのではない。
1054年:教皇と総主教の相互破門
1054年、ローマ教会とコンスタンディヌーポリ教会は主にローマ教皇の教皇首位権を巡って対立が深まっていたが、使節としてコンスタンディヌーポリを訪れていた枢機卿フンベルトはコンスタンディヌーポリ総主教ミハイル1世キルラリオスの非礼に怒り、ミハイル1世キルラリオスとその同調者に対する破門状をアギア・ソフィア大聖堂の宝座に叩き付けた。これに対し、ミハイル1世キルラリオスは枢機卿フンベルトとその一行を破門した[4]。
上に述べたように11世紀前半までの東西教会の差異は既に広がっていたのであり、1054年に起きたローマ教皇レオ9世とコンスタンディヌーポリ総主教ミハイル1世キルラリオス(ミカエル・ケルラリオス)との相互破門というこの事件が東西教会分裂の始まりと捉えるのは誤りである。あくまで東西教会の相違を象徴する、分かりやすい事件の一つという程度の位置づけが妥当である。
しかもこの「相互破門」は、
- 西方教会側では事件の前にローマ教皇レオ9世が永眠しており、破門の主体がローマ教皇ではなく、使節フンベルトの独断だった面が極めて強いこと。[5]。
- 東方教会側では使節団であるフンベルト一行のみを破門したと認識していた事[5]。
- あくまで本事件はローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教との相互破門であり、同じく正教会に属するアレクサンドリア総主教、アンティオキア総主教、エルサレム総主教はこの事件には関わっておらず、「東西両教会の分裂」と言うのは飛躍し過ぎである[6]。
以上の事情により、「決定的な教会分裂」と言える事件であるかどうか疑問であるだけでなく、相互破門自体が両教会全体に対して有効だったのかすらも怪しいものである[6]。事実、この事件後も、ローマ教皇に新教皇が就任した後も、ローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教の交流は続いていた[5]。
実際、この「相互破門」は1960年代に入って正教会とカトリック教会の双方から解消されたが、東西教会の合同、フル・コミュニオンないし相互領聖(相互陪餐)は現在に至るまで未だに実現していないことも、1054年の「相互破門」についての事件性に対する過大評価に疑問符をつける根拠となる。後述するように、東西教会の分裂は1204年まで確定していなかったと正教会では捉えられている。
1054年から15世紀まで・十字軍
「相互破門」以降も、両教会にとり分裂の解消は大きな課題のひとつでありつづけた。特にイスラーム勢力によるシリア、アナトリアへの侵攻に悩まされていた歴代の東ローマ帝国皇帝は、ローマ教皇の教会における首位権を認める代償として西欧諸国からの援軍を期待する傾向が強かった。
しかし、相互の教義の違いのみならず、文化・組織・政治的状況の差異は拡大しつづけた。
特に第4回十字軍によるコンスタンディヌーポリ(1204年)の陥落と、それに伴う東ローマ帝国市民への虐殺・略奪・婦女暴行や、新たなコンスタンティノポリス総大司教座の設置を伴った教区制度の破壊と簒奪、および正教会への迫害行為は、正教会側の対カトリック感情を決定的に悪化させてしまった[7]。カトリック教会におけるコンスタンティノポリス総大司教座は近代に至るまで名目上は存続し続けた。
第4回十字軍の際のみならず、十字軍の各回において、既存のエルサレム総主教庁を無視したエルサレム総大司教座など、東地中海地域には東方典礼カトリック教会の教区が既存の正教会の教区を無視する形で設立されていた。
13世紀後半から15世紀前半のパレオロゴス朝東ローマ皇帝もそれまでの皇帝と同様、基本的に西欧からの援軍を期待してローマとの和解を模索するが、民衆・貴族・修道士・教会のいずれからも猛反対が起こり、皇帝の意図は達成されることは無かった。
フィレンツェ公会議での東西教会合同不成立
15世紀のフィレンツェ公会議は、オスマン帝国の領土拡大に圧迫された東ローマ帝国の政治的危機を背景に、東ローマ皇帝の意を受けた正教会の妥協によるフィリオクェの容認にほぼ落ち着くかにみえたが、正教会側の出席者1名がこの決定に異論を唱え合意文書への署名を拒否したことにより、最終的な合意にいたらなかった。
この時の正教会側の出席者達は東ローマ皇帝の東西教会統合への意向を受けた人選だったが、にもかかわらず合意がなされなかった事は、この時点で東西教会の差異がいかに開いていたかを示すものである。まして第4回十字軍の記憶冷めやらぬコンスタンチノープル市民や、正教会の正統性についての意識をコンスタンチノープルから継承したルーシの諸教会において、東西教会再統合への反発が広範囲に起こっていたことは極めて自然だった。東ローマ帝国の大臣兼軍司令官のルカス・ノタラス大公に至っては「ローマ教皇の三重冠を見るくらいなら、スルタンのターバンを見るほうがましだ」と公言していたほどだった。
16世紀以降
16世紀には、イエズス会が精力的に東方伝道を行い、正教徒のカトリック教会への改宗を進めた。
ウクライナ・ロシア西部ではカトリック教会を奉じるポーランド王ジグムント3世の支配下に置かれた正教会が、聖俗両面から圧迫・弾圧を受けた。その結果の一つがウクライナ・ロシア西部の多くの教会をローマ教皇の管轄の下に置く事となった1596年のブレスト合同であったが、ブレスト合同は反対派を議場から締め出し、ポーランド王の権力の下で強引な経緯を経て成立したものであった。これによりウクライナ東方カトリック教会が成立。こんにちに至るまでの東西教会の主要な対立原因の一つとなっている。
十字軍の時代に、東地中海地域に東方典礼カトリック教会の教区が既存の正教会の教区を無視する形で設立されたことと合わせ、東方正教会側にはカトリックが議論によってではなく、力でローマ教皇の権威の下に他者を併呑しようとしているとの危惧と不信感が醸成されていった。このことは、カトリックとの対話に懐疑的な勢力を正教会内部に育て、その影響は現在もなお広い範囲に根強く残っている。
この直後、東ローマ帝国が西方からの大規模な増援なく滅亡したことも、東方教会側の一致への動機を減じたことは否定できない(奮戦した傭兵部隊も存在し、一定の美談も生んだが)。
近現代における差異の拡大と対立
1870年の第1バチカン公会議において、教皇不可謬説が正式なカトリック教会の教義として採択された。カトリックが信仰および道徳に関する事柄について教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえないとするものだった。
この採択内容は、高位聖職者たる総主教といえども誤りを犯す事は人間として当然に有り得るのであり、公会議の決定に総主教も従わなければならないとする正教会の伝統的な考え方とは全く相容れないものであり、これによってカトリック教会と正教会の差異はより広がった。なお教皇不可謬説はカトリック教会内部からも異論の出るものであり、復古カトリック教会が成立する結果を招来してもいる。
ポーランドの正教会では150箇所の正教会の聖堂がカトリック教会の聖堂として強制的に転用されるという事件が1920年代に起こり、ウクライナとポーランドにおける東西両教会の関係に近現代においても尚しこりを残すこととなった。
近代以降:和解への道のり
「相互破門」の解消
正教会と聖公会はロシア革命が起こるまで、「教皇首位権に否定的かつ伝統的な教会である」「ロマノフ朝とハノーヴァー朝の姻戚関係」等の要因によって、特に英国国教会とロシア正教会の主導の下で関係深化が進められていた。しかしソ連邦成立以降はこの試みは頓挫し、現在、正教会と聖公会の関係は特に深いものではなくなっている。
1964年、東方正教会とカトリック教会の間で和解に向けた一歩として、ローマ教皇パウロ6世とコンスタンディヌーポリ全地総主教アシナゴラス1世がエルサレムで会談した。1965年、エキュメニズムが大きなテーマとなった第2バチカン公会議においてローマカトリック教会の中で東方正教会との和解への道が再び模索され、正教会への働きかけが行われた。その結果を受けて1965年12月7日、公会議の席上まずローマ教皇パウロ6世によって「カトリック教会と正教会による共同宣言」が発表され、続いて正教会側もイスタンブール(コンスタンディヌーポリ)でこれを発表した。これによって1054年以降続いていた相互破門状態はようやく解消され、東西教会の対話がはじめられることになった。
但し先述の通り、この相互破門は破門として有効だったのか疑わしい程度のものであった[6]。また、両教会のトップによる「和解」の後も、全体的な関係改善に結び付いているとは言えない状況である[6]。
東西教会両首脳が同席した聖体礼儀
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2006年11月29日、コンスタンディヌーポリ総主教の座所である聖ゲオルギオス大聖堂で、コンスタンディヌーポリ全地総主教ヴァルソロメオス1世が司祷する聖体礼儀に、ローマ教皇ベネディクト16世が陪席した。この聖体礼儀については以下が指摘される[8]。
- この時の聖体礼儀の司祷はコンスタンディヌーポリ総主教であり、至聖所で陪祷したのも正教会関係者のみであり、形式はビザンチン式の奉神礼であり、言語も殆どギリシャ語が使われた[8]。
- 聖変化(エピクレーシス)前の和解の接吻に際してもベネディクト16世は至聖所に入らず(この接吻は本来は至聖所内で行われるものである)、ヴァルソロメオス1世とベネディクト16世は王門の前で和解の抱擁を行った。カトリック教会関係者は至聖所には入らなかった[8]。
- ローマ教皇は聖所(聖堂内に於いて信徒会衆の立つ場所)に数段高く設けられた貴賓席にカトリック教会関係者とともに座り、天主経(主の祈り)をギリシャ語(古典ギリシャ語再建ではなく現代ギリシャ語での読み)で唱えるにとどまった[8]。
- ベネディクト16世をはじめとしてカトリック教会の関係者は尊体尊血の領聖には参加していない[8]。
以上の理由から、「合同で聖体礼儀が行われた」「合同でミサが行われた」「合同礼拝」というより、「正教会の聖体礼儀に教皇ベネディクト16世が陪席した」などと表現するのが妥当とされる[8]。
注釈
出典
- ^ ◆第8世紀◆ - トマス・ホプコ神父著“TheOrthodox Faith vol.3 Bible and Church History”(日本語訳:司祭 ゲオルギイ松島雄一)
- ^ ◆第9世紀◆ - トマス・ホプコ神父著“TheOrthodox Faith vol.3 Bible and Church History”(日本語訳:司祭 ゲオルギイ松島雄一)
- ^ ◆第11世紀◆ - トマス・ホプコ神父著“TheOrthodox Faith vol.3 Bible and Church History”(日本語訳:司祭 ゲオルギイ松島雄一)
- ^ 高橋保行『東方の光と影』79頁 - 81頁、春秋社 (1991-05-30出版)ISBN 9784393261033 (4393261038)
- ^ a b c 高橋保行『東方の光と影』81頁 - 82頁、春秋社 (1991-05-30出版)ISBN 9784393261033 (4393261038)
- ^ a b c d 久松英二 『ギリシア正教 東方の智』83頁 - 84頁、講談社選書メチエ (2012/2/10) ISBN 9784062585255
- ^ ◆第13世紀◆ - トマス・ホプコ神父著“TheOrthodox Faith vol.3 Bible and Church History”(日本語訳:司祭 ゲオルギイ松島雄一)
- ^ a b c d e f 誤報:「東西教会合同の聖体礼儀」「合同のミサ」? - Togetterまとめ[出典無効]
- ^ 出典:ローマ法王、ロシア正教総主教とハグ 分裂以来の初会談
- ^ 出典:ローマ法王、「カトリック教会だけが唯一の教会」(東亜日報)、バチカン「カトリック教会は唯一真の教会」(クリスチャントゥデイ)
- ^ ロシア正教キリル総主教、カトリックへの親近感示す 2010年02月16日 Christian Today
- ^ 出典:ローマ法王、異宗教間サミットで「人類の和解」呼びかけ(AFPBB News)…記事中の集合写真では、中央にコンスタンディヌーポリ全地総主教ヴァルソロメオス1世とともにローマ教皇ベネディクト16世が並んでいる。
- ^ バチカン放送局:教皇、ロシア正教会のキリル府主教と会見
- ^ Pope meets Orthodox patriarch but reunion of churches unlikely, Tokyo priests say | The Japan Times(2016年6月18日閲覧)
- 1 東西教会の分裂とは
- 2 東西教会の分裂の概要
- 3 東西教会分裂の現状
- 4 脚注
- 東西教会の分裂のページへのリンク