崇源院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 00:17 UTC 版)
系譜
江戸幕府第3代将軍・徳川家光の母であり、後水尾天皇の中宮和子の母で明正天皇の外祖母である。一方、家光、豊臣秀勝との間の完子、および秀忠との間の勝姫からは大正天皇皇后の貞明皇后に連なる[31]。したがって昭和天皇の先祖となる。
九条幸家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊臣秀勝 | 九条道房 | 九条兼晴[注釈 11] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
完子 | 九条輔実 | 九条幸教 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
江 | 松平忠直 | 待姫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鶴姫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
勝姫 | 九条稙基 | (略) | 九条尚忠 | 九条道孝 | 節子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川家光 | 千代姫 | 二条宗基 | 二条治孝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川秀忠 | 徳川綱誠 | 徳川吉通 | 三千君 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和子 | 徳川光友 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明正天皇 | 昭和天皇 | 上皇明仁 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後水尾天皇 | (略) | 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
子女
以下は徳川秀忠との間の子
- 千姫:慶長2年(1597年)、伏見城内の徳川屋敷で誕生。慶長8年(1603年)に豊臣秀頼に嫁ぐ。豊臣家滅亡後の元和2年(1616年)、姫路新田藩主・本多忠刻に再嫁。天樹院。
- 珠姫:慶長4年(1599年)江戸城で誕生。慶長6年(1601年)、加賀藩100万石の第三代藩主・前田利常に嫁ぐ。第四代藩主・前田光高の母。天徳院。
- 勝姫:慶長6年(1601年)、江戸城で誕生。慶長16年(1611年)、越前藩主・松平忠直に嫁ぐ。天崇院。
- 初姫:慶長7年(1602年)、伏見城(一説には、江戸城)で誕生。伯母・常高院の養女となり、慶長16年(1611年)に鎌倉室町以来の名門で松江藩主でもある京極忠高に嫁ぐ。興安院。
- 徳川家光:慶長9年(1604年)江戸城で誕生。江戸幕府第3代征夷大将軍。大猷院。
- 徳川忠長:慶長11年(1606年)、江戸城で誕生。駿府藩主となるも寛永9年(1632年)に改易。峰巌院。
- 徳川和子:慶長12年(1607年)、江戸城で誕生。元和6年(1620年)、後水尾天皇女御として入内(後に中宮)。第109代明正天皇の母。東福門院。
注釈
- ^ 下記を参照。
- ^ a b 小督の読みは「おごう」と「こごう」のニ通り考えられるが、ここでは貴人の娘や妻に対する敬称である「御料人」と対になる幼名の敬称(敬語)の「お(小)」が付いたものであるから、読みは「おごう」とするのが適切である[5]。
- ^ 後述するが、死後につけられた実名で、生前には用いられていない。また「みちこ」の読みは『中院通村日記』のふりがなによる。
- ^ 豊臣秀吉側室。異説だが、市の連れ子(異父姉)という説もある。
- ^ 京極高次正室。
- ^ 姉茶々の猶子となった。
- ^ 姉の茶々は永禄12年(1569年)頃、初は元亀元年(1570年)頃の出生であると想定されている
- ^ なお、この時に兄・万福丸は信長の命により殺されている
- ^ 鳥取県立博物館所蔵「佐治幾衛家譜」「佐治所平家譜」ともに未翻刻資料であるが関係部分は下記福田の著書[22]に採録されている。
- ^ 第二次世界大戦終戦後の増上寺周辺の市街地区画整理に伴って、徳川遺物が全国の寺社に譲渡されたが、その折に山梨県の恵林寺に譲渡された石棺が後の研究で2015年に崇源院のものであったと判明した。石棺は恵林寺宝物殿に安置、公開されている。
- ^ 鷹司家より婿養子。
出典
- ^ a b 宮本 2010, p. 59-60.
- ^ a b c 福田 2010, p. 11.
- ^ 福田 2010, pp. 24–25.
- ^ 江戸東京博物館友の会会報「えど友」No.60(2011年)、p.4
- ^ 福田 2010, p. 17.
- ^ 福田 2010, pp. 17–19.
- ^ 福田 2010, p. 18.
- ^ 福田 2010, pp. 15–16.
- ^ a b 福田 2010, p. 23.
- ^ a b c 永田 2011.
- ^ a b 福田 2010, p. 20.
- ^ a b 福田 2010, pp. 20–21.
- ^ 福田 2010, p. 24.
- ^ 福田 2010, pp. 23–24.
- ^ 小和田 1997, p. 44-47.
- ^ 宮本 2010, p. 66-74.
- ^ 宮本 2010, p. 74-75.
- ^ 宮本 2010, p. 112-115.
- ^ a b c 小和田 1997
- ^ a b c 瀧田英二『常滑史話索隠』1965年。
- ^ 福田 2010, p. 60
- ^ 福田 2010, p. 49
- ^ 福田 2010, p. 72
- ^ 宮本 2010, p. 114-123.
- ^ 福田 2010, p. 75
- ^ 宮本 2010, p. 139.
- ^ 片山正彦「豊臣政権樹立過程における於次秀勝の位置づけ」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』思文閣出版〈佛教大学研究叢書〉、2017年。ISBN 978-4-7842-1875-2
- ^ 福田 2010, p. 85
- ^ 『安土町史』史料編1
- ^ 宮本 2010, p. 255.
- ^ 江(崇源院)から今上天皇までの系譜
- ^ 宮本 2010, p. 224.
- ^ 鈴木尚; 矢島恭介; 山辺知行 編『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』東京大学出版会、1967年。
- ^ 鈴木 1985, pp. 89–96.
- ^ 『寛政重修諸家譜』
- ^ 『系図纂要』
- ^ 大河ドラマの“浅井三姉妹”と“お市” NHKアーカイブス、2022年9月17日閲覧
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