崇源院 人物

崇源院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 00:17 UTC 版)

人物

  • 江が嫉妬深いと書かれている史料は確かに存在する。しかしながら、それは静(浄光院)による幸松(後の保科正之)の為の安産祈願文(静本人が書いたは不明)と、その保科正之を主とする会津藩史である為、江との関係性を考えるとどちらも信憑性が高いとは言いきれない。
  • 徳川将軍御台所(正室)で将軍生母となったのは、崇源院だけである。
  • 伝存史料から、江が次男の国松を一方的に可愛がり、長男の竹千代を粗末に扱ったというような具体的な証拠は存在しない。ましてや国松に将軍位を継がせようとした一次史料は伝存しない。それどころか傍証史料さえ見当たらない。『藩翰請』などにそうした記事がみえてはいるが、それは江ではなく父秀忠を指したものである。江に対する非難は、かなり作為的な偏見であり、流言飛語の類とみなさざるをえない[32]
  • 戦後、鈴木尚が中心となって行われた増上寺の徳川家墓所発掘調査の際に、崇源院の墓も発掘され、その遺骨も調査された。その調査報告[33]によると、崇源院は火葬にされており、父・浅井長政、母・お市の方、長姉・淀殿らがおそらくは長身であったと推察されるのと異なり、江は生前は小柄で華奢な女性であったようである。特に注目されるのは、上腕骨には、肘の関節に肘頭孔という小孔がみられた。この小孔は、普通の日本人にはなく、どちらかというと華奢な体型をもった人に現れるものである[34]。ちなみに、増上寺に葬られた将軍一門で荼毘に付されていたのは崇源院だけであった。

侍女

  • 民部卿局
  • 京殿:浅井亮政の娘。浅井又次郎の妻。はじめは兄、浅井久政の侍女。法名は永信。
  • 按察使局
  • 海津局
  • 近江局:浅井亮政の娘。斎藤義龍の妻。浅井家と六角家の仲が険悪化し、六角氏と懇意の仲にあった斎藤家から離縁された。 それまでに亡くなったという説があるが、そうしたら江の侍女にはなってはいない。
  • いと:はじめ、江の侍女。完子が淀殿の養女になる際に仕えはじめ、以後は豊臣完子の侍女となる。
  • 唐橋局(菅内侍):唐橋在通の娘。慶長13年(1608年)の猪熊事件で伊豆の新島に流され、赦免された後に仕えたという[35][36]

関連作品

小説
漫画
映画
テレビドラマ

注釈

  1. ^ 下記を参照
  2. ^ a b 小督の読みは「おごう」と「こごう」のニ通り考えられるが、ここでは貴人の娘や妻に対する敬称である「御料人」と対になる幼名の敬称(敬語)の「お(小)」が付いたものであるから、読みは「おごう」とするのが適切である[5]
  3. ^ 後述するが、死後につけられた実名で、生前には用いられていない。また「みちこ」の読みは『中院通村日記』のふりがなによる。
  4. ^ 豊臣秀吉側室。異説だが、市の連れ子(異父姉)という説もある。
  5. ^ 京極高次正室。
  6. ^ 姉茶々の猶子となった。
  7. ^ 姉の茶々は永禄12年(1569年)頃、初は元亀元年(1570年)頃の出生であると想定されている
  8. ^ なお、この時に兄・万福丸は信長の命により殺されている
  9. ^ 鳥取県立博物館所蔵「佐治幾衛家譜」「佐治所平家譜」ともに未翻刻資料であるが関係部分は下記福田の著書[22]に採録されている。
  10. ^ 第二次世界大戦終戦後の増上寺周辺の市街地区画整理に伴って、徳川遺物が全国の寺社に譲渡されたが、その折に山梨県の恵林寺に譲渡された石棺が後の研究で2015年に崇源院のものであったと判明した。石棺は恵林寺宝物殿に安置、公開されている。
  11. ^ 鷹司家より婿養子。

出典

  1. ^ a b 宮本 2010, p. 59-60.
  2. ^ a b c 福田 2010, p. 11.
  3. ^ 福田 2010, pp. 24–25.
  4. ^ 江戸東京博物館友の会会報「えど友」No.60(2011年)、p.4
  5. ^ 福田 2010, p. 17.
  6. ^ 福田 2010, pp. 17–19.
  7. ^ 福田 2010, p. 18.
  8. ^ 福田 2010, pp. 15–16.
  9. ^ a b 福田 2010, p. 23.
  10. ^ a b c 永田 2011.
  11. ^ a b 福田 2010, p. 20.
  12. ^ a b 福田 2010, pp. 20–21.
  13. ^ 福田 2010, p. 24.
  14. ^ 福田 2010, pp. 23–24.
  15. ^ 小和田 1997, p. 44-47.
  16. ^ 宮本 2010, p. 66-74.
  17. ^ 宮本 2010, p. 74-75.
  18. ^ 宮本 2010, p. 112-115.
  19. ^ a b c 小和田 1997
  20. ^ a b c 瀧田英二『常滑史話索隠』1965年。
  21. ^ 福田 2010, p. 60
  22. ^ 福田 2010, p. 49
  23. ^ 福田 2010, p. 72
  24. ^ 宮本 2010, p. 114-123.
  25. ^ 福田 2010, p. 75
  26. ^ 宮本 2010, p. 139.
  27. ^ 片山正彦「豊臣政権樹立過程における於次秀勝の位置づけ」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』思文閣出版〈佛教大学研究叢書〉、2017年。ISBN 978-4-7842-1875-2
  28. ^ 福田 2010, p. 85
  29. ^ 『安土町史』史料編1
  30. ^ 宮本 2010, p. 255.
  31. ^ 江(崇源院)から今上天皇までの系譜
  32. ^ 宮本 2010, p. 224.
  33. ^ 鈴木尚; 矢島恭介; 山辺知行 編『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』東京大学出版会、1967年。 
  34. ^ 鈴木 1985, pp. 89–96.
  35. ^ 『寛政重修諸家譜』
  36. ^ 『系図纂要』
  37. ^ 大河ドラマの“浅井三姉妹”と“お市” NHKアーカイブス、2022年9月17日閲覧


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