大山神社 (西ノ島町)
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社殿
本殿は方1間、正面に唐破風の向拝を付した春日造変態(春日造に似るが、向拝が唐破風でその幅も身舎屋根の幅より狭くなっている)、棟に千木・鰹木を置く。明治22年の造替。向拝の下から梁間1間桁行3間の通殿が伸びて桁行5間梁間4間の入母屋造平入の拝殿に続き、拝殿正面には1間の向拝を付ける。いずれも屋根は銅板葺。
拝殿前から石段を下ったところにある鳥居は元禄12年(1699年)の御影石製。石造鳥居では隠岐島で2番目に古いもの。
他に神饌所や神輿を納める神輿庫がある。
その他
- 笠置家文書 - 天文から寛文にかけての鎌倉・南北朝・室町前期を中心とする古文書群。当神社や大山神社に関係するものが含まれている。昭和50年(1975年)8月12日に島根県の文化財(古文書)に指定(一部は平成12年(2000年)3月28日に追加)。
参考文献
- 『式内社調査報告』第21巻山陰道4、式内社研究會編、皇學館大學出版部、昭和58年
- 『隠岐国守護職考』井上寛司著(所収『島前の文化財』第10号、隠岐島前教育委員会)
- 『中世隠岐の公文』井上寛司著(所収『島前の文化財』第12号、隠岐島前教育委員会、昭和57年(1982年)12月)
- 『島根県の地名』(日本歴史地名大系33)、平凡社、平成13年 ISBN 4-582-91017-3
- ^ a b c 『式内社調査報告』。
- ^ a b c 『島根県の地名』。
- ^ 従三位「上」という位はない。
- ^ 『島根県の地名』。詳しくは「焼火神社」参照。
- ^ 建治2年9月5日付「佐々木泰清袖判下文」(笠置家文書)
- ^ 慈蓮が百姓らに違背したとして没収されていた先祖伝来の所職(大山社禰宜)と神田(美多荘)を、和与したとして慈蓮に還補したもの。
- ^ a b 『中世隠岐の公文』井上寛司著(所収『島前の文化財』第12号、隠岐島前教育委員会、昭和57年(1982年)12月)
- ^ a b 『鎌倉遺文』17巻12724号では『隱岐守護佐々木泰清下文』として所収されているもので、井上1982では、これを泰清の八男・高岡宗泰(八郎)のものとする。文中にある「八郎殿」が宗泰を指すことに異論はないが、自身を「八郎殿」と呼ぶのかとの考えからその父で隠岐守護であった「佐々木泰清」の下文とするものが多いが、井上1982が指摘するように花押は「宗泰」のものであり、泰清のものとは異なっている。宗泰は守護代に着任当初の頃であり、宗泰以外の人(おそらく慈蓮側)が用意した文書に宗泰が花押を加えて下文としたもの。大山社の氏子を含めて、荘官らの支配を断ちたいとの思惑が感じられ、文書の性格から言えば、井上1982の指摘「宗泰による下文」が正しい。
- ^ 「八郎殿」とは高岡宗泰のこと。
- ^ (意訳)「隠岐国守護代・高岡宗泰が下し置く。隠岐国知夫郡美多庄の住人・慈蓮法師(焼火山を御神体とする大山神社の社家)は高岡宗泰の御家人(郎党)である。たとえ、罪科があったとしても美多荘の荘官(代官)の管轄によって決裁してはならない。もし煩らわしい事態が起きたならば、詳細を申し述べよ。建治三年四月」
- ^ 正中3年4月7日付「某袖判下文」(笠置家文書)。なお、慈蓮も蓮浄もともに「重代相伝の所職」(代々の職)として祢宜職を安堵されており、これら社僧は雲上寺の別当であったと見られる(『式内社調査報告』)。
- ^ 『島根県の地名』。なお、美多庄は現西ノ島町美田を中心に東は同町別府から西は同町浦郷にかけて、西ノ島のほぼ東半分に設定された荘園と見られている。
- ^ 建武元年5月6日付「沙弥西領僧道賢連署打渡状」(笠置家文書)。「こうし料畠」は神酒を醸すための麹(こうじ)を供出するための畠と見られる(『島根県の地名』)。
- ^ 応安2年6月24日付「某充行状」(笠置家文書)。
- ^ 文政6年(1823年)の『隠岐古記集』。
- ^ 『式内社調査報告』。大山神を焼火権現と見た例として、寛文7年(1667年)の『隠州視聴合紀』に「按ずるに(延喜式)神名帳、知夫郡に大山神社有り、此は山上の焼火ノ神か(原漢文)」とあり、『大日本史神祇志』に「大山神社、今美田郷波止村(はしむら)焼火山山上に在(ま)し、焼火明神と称す(原漢文)」とあるのが挙げられる。
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