城 ヨーロッパ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/08 20:05 UTC 版)

ヨーロッパ

歴史

城塞の技術は、15世紀 - 16世紀の火薬大砲の活躍によって大きく変化した。有史以来の防護設備、砦、城、要塞の基本は壁と塔であった。壁により敵の侵入を防ぎながら、塔から高さを生かした攻撃を行うもので、重力を利用すれば、弓矢の威力は増し、単なる石や丸太も武器として利用することができた。攻撃側は、壁を壊すための器具を工夫したが、いずれも大がかりで時間のかかるもので、守備側の優位は堅かった。

しかし、大砲、銃が使われ出すと、火薬を使った銃弾の威力は高さの優位を減少させ、大砲により高いが比較的薄い壁は容易に打ち壊されるようになった。このため要塞と城の機能は分離されるようになり、要塞は高さより、厚さを重視するものになり、永久要塞としては星型(稜堡式)要塞が、野戦要塞としては塹壕が主流となった。一方、城は防衛機能より居住性や壮大さや豪華さを重視した、優雅で窓の多いものが作られるようになる。フランス語のシャトー(château、複数形châteaux)は日本語で城と訳されているが、荘園主によるものは城郭というよりはイギリスアイルランドにおけるマナー・ハウスに相当する。

古代

リメスの最北端ハドリアヌスの長城
帝都ローマのアウレリアヌス城壁

中近東を含めた地域では文明が興り都市が形成されるとその周囲に城壁(囲壁)を巡らしていたが、これは街の防護と戦時の拠点とするためだった。古代ギリシアでは、アクロポリスが作られ、その影響を受けたローマ人も戦時は、丘に立て籠もった。こうした様相は、当時文明の中心であった地中海周辺ばかりでなく、例えばガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』には険阻な地形に築かれたガリア人の都市を攻略する様子が度々登場するように広く見られるものである。首都ローマにも都市を守る城壁(囲壁)であるセルウィウス城壁が築かれていた。また仮設であるがローマ軍団は、進軍した先で十分な防御能力を備えた陣地を構築しており、これも城の一種と見ることもできる。恒久的な基地としてはティベリウス親衛隊の兵舎が挙げられる。

古代ローマの全盛期になると、もはや侵入できる外敵が存在しなくなり、都市機能の拡大に合わせて城壁を拡大していく必要がなくなった。ローマ帝国の防衛は国境線に築かれた防壁リメス並びに軍団及び補給物資を迅速に投射できるローマ街道等の輸送路の維持によって行われていた。しかしながらローマ帝国が衰退する4世紀頃以降、ゲルマン人侵入に対抗するため都市に城壁(囲壁)を築いて防衛する必要性が生じた[4]。ローマ帝国最盛期には城壁を持たなかった首都ローマも、全周約19km・高さ8m・厚さ3.5mのローマン・コンクリートで造られたアウレリアヌス城壁で防御されることになった。

城壁の素材は地域や時代・建築技術の程度によって様々で、日干しレンガや焼きレンガ・石・木・土など様々である。なお『ガリア戦記』に記されているガリアの城壁は木を主体としたものであり、北西ヨーロッパに本格的に石造建築が導入されるのはローマ化以降のことである。ローマ帝国の最盛期には強固なローマン・コンクリートで城壁(囲壁)や塔が造られるようになっていた。

このように、古代地中海世界を含めて、10世紀半ばまでのヨーロッパには厳密に「城」と呼べるものは存在せず[5]、主に都市や国を囲んで防御する城壁(囲壁)やが造られていた。

中世

10世紀 モット・アンド・ベーリー型の城
モット・アンド・ベーリー
城郭都市 チッタデッラ

西ローマ帝国の消滅後、古代ローマの建築技術は急速に失われ、土塁並びに木造の塔や柵が再び主流をなす時代が訪れた。10世紀、農業技術革命による生産力の上昇に伴い人口の増大と富の蓄積が始まると、それらを守るための施設を作り維持する社会的余裕も生まれた[5]。またカロリング朝フランク王国が衰退・分裂して中央の支配力が緩みだし、ノルマン人マジャール人の侵入が激しくなると、各地の領主は半ば自立して領地や居舘の防備を強化[5]しはじめた。当初は居館と附属施設の周りに直径50mほど[5]の屏を作り、濠を掘る程度だったが、10世紀の終わり頃から城と呼べる建築物を作るようになった。

多くは木造の簡易なもので、代表的な形態がモット・アンド・ベーリー型である。平地や丘陵地域の周辺の土を掘りだして、濠(空濠が多かった)を形成し、その土で小山と丘を盛り上げた。小山は粘土で固めてその頂上に木造または石造の塔(天守)を作った。この丘は『モット(Motte)』と呼ばれる[5]。また、丘の脇または周囲の附属地を木造の外壁で囲んで、貯蔵所や住居などの城の施設を作った。この土地は『ベイリー(Bailey)』と呼ばれた[5]。これは非常に簡単に建築でき、100人の労働者が20日働けば建設できたと考えられている[5]。このような城は、東西は現在のポーランドからイングランドフランス、南北はスカンディナビア半島からイタリア半島の南部までの広範囲に広がっており[5]、特にフランスで多く使われていた。

また、ほとんどの街も城壁を有する城郭都市となった。古い街の中には、古代ローマ時代の城壁を再建・補強して用いた場合もあった。

11世紀 - 12世紀 集中式城郭
集中式城郭 クラック・デ・シュヴァリエ
集中式城郭 ロンドン塔

11世紀には、天守や外壁が石造りの城が建築されるようになるが、石造りの城は建造に長期間(数年)かかり費用も高額になるため、王や大貴族による建設が中心であり、地方では木造の城も多く残っていた[6]。石壁には四角い塔が取り付けられ、壁を守る形になった。

12世紀の十字軍の時代には、中東におけるビザンティンアラブの技術を取り入れ、築城技術に革新的変化がみられた。集中式城郭と呼ばれる城は、モットの頂上に置かれた石造りの直方体の天守塔『キープ(Keep)』が、同心円状に配置された二重またはそれ以上の城壁で守られていた。内側に行く程、壁を高くして、外壁を破られても内側の防御が有利になるよう工夫されている場合もあった。 石造りの城を攻撃するためには、地下道を掘って城壁を崩したり、攻城塔や破城槌を使う従前の方法だけでなく、12世紀後半には十字軍が中東から学んだカタパルト (投石機)が使われるようになる[5]。投石機は50kgの石を200m余り飛ばすことが出来るものもあり、14世紀末に大砲にその役が取って代わられるまで城攻めの中心的兵器であった[5]。この投石機より飛来する石弾の衝撃を逸し吸収するため、直方体の塔は多角形を経て円筒形になり、また壁の厚みも増していった[5]。 代表的なものにクラク・デ・シュバリエ城、ガイヤール城がある。

13世紀 カーテンウォール式城郭
カーテンウォール式城郭 ビューマリス城

カタパルト (投石機)と並んで弓矢による攻撃技術も発展したが、城に立て籠もった防御側の抵抗手段は塔の上から石や熱した油を落とす程度[5]のものであった。12世紀後半になり、塔や城壁に矢狭間を設けてクロスボウを用いて反撃を行う[5]ようになった。城壁には壁面から突出する半円形の塔(側防塔)を配し、そこに矢狭間を設けることで城壁に取り付く敵兵に左右から射掛けることが可能となった[5]。こうして城の軍事的機能の中心は天守塔(キープ)から側防塔を配した城壁に移行していった。ついには、城とは強固な城門(ゲートハウス)と側防塔を配した城壁そのものとなり、城壁に内接する形で居住スペースなどの建物が配置された[5]。この様式の城(城壁)のことをカーテンウォール式城郭と呼ぶ。

ここに至り天守塔(キープ)の軍事的意味は消滅し、強固な城門であるゲートハウスがその役目を担うことになった。だが、城主たちは天守塔の持つ支配と権力の象徴性を重視し天守塔を建てることに固執した場合もあった[5]

近世

星形要塞 ブルタング要塞
14世紀 - 15世紀 要塞
ノイシュヴァンシュタイン城
14世紀に建てられたフィンランドサヴォンリンナにあるオラヴィ城英語版

ビザンツ帝国ではギリシアの火と呼ばれる火炎放射器が使われていたが、これが西ヨーロッパに広まることはなく、14世紀頃に中国から伝わった黒色火薬の製造技術が大砲の製造を可能にした。当初は鍛鉄の棒を円筒形に並べた固定したものや、青銅の鋳物を用いた「大型の大砲」が造られ[5]、15世紀中頃からは高炉技術の普及で鋳鉄を用いた「中型・小型の大砲」が大量生産されるようになる[5]。15世紀の砲弾には炸薬信管は無かったが、初速が大きく水平に近い軌道で飛ぶ砲弾の破壊力は大きかった。高い建造物は大砲の標的となったため城壁は高さよりも厚さを重視するようになり、さらに地下に掘り下げて建設され地上からはその姿を見いだせないような要塞型の城となっていく[5]。この形の城は最終的に星型要塞となった。

これに対して、王侯貴族の住居は国境から遥かに離れた安全な地に防衛機能より居住性や壮大さや豪華さを重視した、優雅で窓の多い城や邸宅が建てられた。また、地方の中小貴族層は住居と所領経営の拠点である小型の邸宅に住むようになった[5]。現在のヨーロッパの城のイメージは、近世に建築されたこれらの軍事機能を持たない城や邸宅によるものである。

構造

モット

クラフ城(左側の丘がモット、右側がベイリー)
ウィンザー城(中央のモット(キープ)と、左右のベイリー)

中世において、城を構築する平地や丘陵地域の周辺の土を掘りだして濠を形成し、その土で盛り上げた城の中心となるために造った小高い丘のことをモット(Motte)という。または自然の地形を利用して、既存の小さな丘を用いることもあった。この丘の上には当初は監視所が、後に塔が建てられて城を防衛する上で戦略上重要な場所であった[7]。一つの城には一つのモットが標準であるが、リンカン城のように二つのモットが造られた城もある。

ベイリー

ベイリー(Bailey)とは、モットと共に濠や柵、城壁で囲まれた城内の区域。住居施設や倉庫、防御施設[7]のほか武器を整備する工房や城内教会(王家のチャペル)などが建てられていることもあった。一つの城に、二つ以上のベイリーが造られていることも多く、防御区画や異なる城内機能の区分けとして用いられていた[7]中庭(Courtyards)と表記されることもある。

キープ

キープ(Keep)とは中世ヨーロッパの城で中心となる建造物。モットの頂上に建てられ、当初は木造の塔が、後に石造りの塔が造られた。日本語で主塔大塔天守塔、またはフランス語読みのドンジョンフランス語: Donjon)と表記されることもある。初期のモット・アンド・ベーリー式の城郭であっても、モットの頂上は少なくとも木造の矢来で囲まれており、時には塔や他の構築物で囲まれていることもあった。これらの木造の構造物が11世紀から12世紀頃にはキープと呼ばれる石造りの建築物となった[7]。多角形の石造りの外壁で囲った包囲建築物であるシェル・キープshell keep)が初期に多く見られ、後に2〜3階建ての低い建物ホール・キープ(hall keep)、さらには3階以上の高い塔タワー・キープ(tower keep)と発展した[7]。キープの平面形状は、初期は四角形であったが、11世紀後期頃からは円形(円筒形)やそれに小塔を付けたもの、12世紀中頃には四つ葉型、12世紀後期以降は多角形のものが建てられるようになった[7]。また15世紀頃以降、タワー・ハウスTower house)と呼ばれる居住空間をも包含した小型の城のような形態[7]も現れた。

城壁

城壁(Enceinte)とは、城(モット及びベイリー)を包囲して防御機能を果たす幕壁(カーテンウォール及び城壁塔堡塁などの一連の構築物のこと。初期の単純な形の城壁は、城壁上部の歩廊に狭間(Crenellation)付き胸壁(Battlement)を備えた壁で、しばしば狭間窓(射眼)が設けられていることもあった[7]攻城技術の発達に伴い、城壁の構築技術は13世紀頃にかけて頂点に達した。城壁には壁面から突出する半円形の塔(側防塔)を配し、そこに矢狭間を設けることで城壁に取り付く敵兵に左右から射掛けることが可能となった[5]。幕壁部分の下部に傾斜面を設けることで、掘削による壁の破壊を難しくし、攻城塔が取り付きにくくすると共に、この傾斜面が幕壁を分厚くすることで砲撃に対するより高い抵抗力を持つようになった[7]。幕壁(カーテンウォール)には一定間隔で塔(側防塔など)が造られ、塔の戦術上の重要性が認識されてくるとその間隔は短くなっていった。この塔は防衛目的のために造られた側防塔(Defensive Tower)のほか、戦術上有利な地点に設けられたタレット(Turret)や張り出し櫓(Bartizan)、主に居住空間を提供した居住塔(Lodging Tower)などがあった[5]

一部の城では、城壁や塔の頂上部に屋根状の木造構造物を架けたものもあり、これを(Hoardings)という。

城(城壁)には少なくとも一箇所の城門(Gateway)があり、一基の塔内部に門が組み込まれている場合(Gate tower)と、1〜2基の塔が門の脇を固めている場合のいずれかであった。13世紀になると、城門とキープの機能を兼ね備えた楼門(ゲートハウスが造られるようになった。この楼門は双子の円筒型の塔の間に四角形の居住用建物が追加されたものが多かった[5]。城門を閉じるために、跳ね橋(Drawbridge)、落とし格子(Portcullis)及び門扉が備えられるのが一般的であった。さらに防御機能を強化するため、門の外側に要塞化した小堡(バービカン)が設けられることもあった。


注釈

  1. ^ 城壁城砦は、ドイツ語では「Stadtmauer」と「Burg」、英語では「city wall」と「castle」、フランス語では「muraille」と「château」として区別する。
  2. ^ 市制100周年の記念事業「ふるさと創生事業」の一環として1989年に行われた企画アイデアの公募によって決まった姫路城公式ホームページ内雑学姫路城”. 2008年9月4日閲覧。

出典

  1. ^ 千田嘉博『城郭考古学の冒険』幻冬舎新書、2021年。p.3.
  2. ^ 香川元太郎『歴群[図解]マスター 城』学習研究社、2012年。
  3. ^ 西ヶ谷恭弘編著『城郭の見方・調べ方ハンドブック』東京堂出版 2008年
  4. ^ Claridge, Amanda 1998 Rome: An Oxford Archaeological Guide
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 堀越 宏一 「戦争の技術と社会」3.城と天守塔, 〜 15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史 ISBN 978-4-623-06459-5
  6. ^ 西洋において石造の城が本格的に作られ始めたのは12世紀で、13世紀には主流となる。池上俊一『図説騎士の世界』(河出書房新社、2012年)pp.75-76.
  7. ^ a b c d e f g h i マルコム・ヒスロップ Dr. Malcolm Hislop 著 『歴史的古城を読み解く』(桑平幸子訳) ISBN 978-4-88282-912-6
  8. ^ 『戦略戦術兵器事典』 中国古代編、学習研究社、1994年。 
  9. ^ 井上秀雄 『倭・倭人・倭国 東アジア古代史再検討』 人文書院 1991年 p.89.
  10. ^ 日本城郭協会 昭和49年度事業 (平成4年度事業も)”. 2008年9月6日閲覧。[リンク切れ]
  11. ^ Top 10 Castles”. English Heritage. 2022年8月2日閲覧。
  12. ^ Top 10 castles” (英語). National Trust. 2022年8月2日閲覧。
  13. ^ 日本放送協会. “完全再現!黄金期のフランス古城|BS世界のドキュメンタリー|NHK BS1”. BS世界のドキュメンタリー|NHK BS1. 2022年6月22日閲覧。
  14. ^ お城に宿泊、殿様気分 愛媛・大洲城や長崎・平戸城”. 日本経済新聞 (2019年7月11日). 2022年6月22日閲覧。
  15. ^ Staff, Guardian (2009年7月31日). “How to build the perfect sandcastle” (英語). the Guardian. 2022年6月22日閲覧。
  16. ^ 砂城作りも規制…環境保護へ「禁止令の島」に 比・ボラカイ島、観光客受け入れ再開”. SankeiBiz(サンケイビズ) (2018年11月7日). 2022年6月22日閲覧。
  17. ^ Italy bans sandcastles and bikinis” (英語). the Guardian (2008年8月15日). 2022年6月22日閲覧。






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