匁 中国(銭)

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中国(銭)

代の開元通宝10枚の質量が24銖すなわち1に相当したことから、1枚あたりの質量を「銭」と呼ぶようになった[26]。それ以来現在にいたるまで、10銭 = 1両の関係が保たれている。

ただし、開元通宝のような鋳造銭は規定の質量があるとはいえ、鋳造による大小あり一様でないため貨幣そのものが分銅代わりになったわけではない[27]

現在の定義(市制)では1銭=5gである。

近代の中国では、実用されていない単位であるが、メートル法での10gに当たるデカグラム(dag)に「銭」の字を当て「公銭」と称していたことがあった。

江戸時代の銀目

使用
国・地域
日本江戸時代
補助単位
 1/10分(ふん)
 1/100
硬貨丁銀, 小玉銀
紙幣銀札, 銭匁札
硬貨鋳造銀座
概ね「銀一匁」相当の慶長豆板銀(右: 3.768 g)および、ほぼ一戔(匁)の寛永通寳(左: 3.740 g)。古寛永、文銭、耳白銭などは一戔を基準に造られたが、実際には鋳造に伴う大小があり3.0 gを切るものから4.5 gを超えるものまである。
銀一匁札。備後福山藩(享保15年)。

秤量貨幣単位としての匁

質量単位としての「銭」が日本に伝わり、日本では「文目」の意から「もんめ」とも呼ぶようになった。「匁」は主に金銀の量目の単位として使われ、江戸時代丁銀小玉銀は「匁」を単位とする目方通用の秤量貨幣であり、丁銀の方は五百目包の形態として使用された[28]。この様な秤量銀貨の掛目(実測値)が通貨単位として使用され、商品の値段は必ず銀目で建てられた[5]。1609年(慶長14年)に150目(匁)、1700年(元禄13年)に金1両=銀60目とする御定相場が公布されたが、実態は市場経済による変動相場であった[29]

1665年(寛文5年)に度量衡の「衡」が統一され、両替商で用いられる分銅後藤四郎兵衛家のみ製作が許され、これ以外のものの製作および使用は不正を防止するため厳禁とされた[30]。この分銅は「両」を基本単位としており一両から三十両(または五十両)があり、その補助単位「匁」に相当する小分銅の単位表記は「戔」である。秤量銀貨の通貨単位は日本では銀一両といえば銀4.3匁のことを指し[11]、43匁は「銀一枚」と称し献上銀・被下銀は丁銀に小玉銀を掛け足して「枚包」とするのが江戸時代以前からの習慣であった[31]。また小判の通貨単位の「両」との混同を避ける意味から銀の単位は「匁」および「貫」が用いられた。すなわち、掛目が伍両(5両)の丁銀は銀50匁(銀50目)と表した。

「銀一匁」の価値は丁銀の銀品位によって異なり、例えば目まぐるしい改鋳が行われた宝永年間以降、数種の銀が混用された正徳享保年間では商品相場に銀の種別の相場が併記されることもあった[32]。例えば、享保3年11月頃(1718年)、肥後1に付[33]

匁の名目化

日本において金貨の貨幣単位として認識されている「両」は「両目(量目、りょうめ)」というように本来質量の基本単位であり、金一両は量目1両分の金が基準にあったが、度重なる改鋳により時代の変遷とともに金一両は1両分の金から乖離して次第に名目化が進行し、イギリスポンドも同様に貨幣単位と質量単位が乖離していったのであったが[34]、「匁」については慶長から安政に至るまで江戸時代を通して銀貨の掛目[注釈 4]として維持され独立した貨幣単位としての名目化はなかったとの見方もある[16]。一方で、「銀一匁」は銀そのものの含有量一匁ではなく、それも改鋳による品位低下の度に名目化の度合いを高めたとする見方もある[4]。すなわち「匁」は銀の重量でなく、「貨幣の単位」であったというべきである[4]

銀札は本来銀の預り証であり、引替え用銀準備の下、つまり額面と等価の丁銀への兌換を前提に発行される名目であったが、実際には災害など藩の財政逼迫の度に多発されることが多く、正銀の額面としての銀の掛目と藩札の額面との間に乖離が生じるのが普通であった。宝永4年10月(1707年)に幕府は一旦、銀札発行を禁じ、流通している銀札を50日以内にすべて正銀(丁銀・小玉銀)に引き替えるよう命じたが、例えば紀伊田辺においては銀札一貫目は正銀二百匁に替えると布告される始末であった(『田辺旧事記』)[35]

また、特に江戸代後半はしばしば丁銀が払底し、代わりに匁銭勘定が行われるなどの名目化もあった[36]。さらに、南鐐二朱銀など計数銀貨が台頭し始めた文政3年(1820年)には「四十三匁銀」と「五十目銀」と呼ばれる名目貨幣鋳造が提言されたこともあった。これらは「五匁銀」とは異なり額面通りの量目は無く、出目獲得を目的とした額面としての「匁」の名目化を狙ったものであったが実現には至らなかった。これ以降「匁」は、あたかも質量単位であり貨幣単位として名目化することは無かったかのような印象を後世に与えるようになったと思われる[16]。また、丹波福知山藩でも幕末に30匁の1/9程度の量目12.3 g(3.3匁)の「銀三拾匁」、およびさらにその半量の「銀拾五匁」を試鋳している[37]。幕末に徳島藩は阿州通寳「拾匁銀札」や「壹匁銅札」の銅貨、土佐藩は土佐官券「十匁」などの銅貨を試鋳しているが、何れも貨幣の量目(質量)とは無関係である[38]

銀目廃止

慶應4年/明治元年5月9日(1868年6月28日)の布告により、貨幣単位としての銀目は使用が停止され(銀目廃止令[4][39][40]、直前に銀相場は暴落しこの日の大坂における仕舞相場である金1両=銀219匁4分9厘[注釈 5]は銀目廃止時の銀手形を金手形に直す場合の標準両替相場となった。これを以て江戸時代の金銀相場は終結した[5][41]。正貨である丁銀・小玉銀(五匁銀も含む)については、慶長銀1貫目は金89両、政字銀は1貫目は金12両3分3朱に換算されて引換えられ、その他の品位の銀も含有量に応じて引換え価格が提示された(明治元年十月十日太政官達)[42]。銀目廃止の直前に、銀目手形所持者の多くが廃止に伴い銀目手形が無効になると誤解し正貨との交換を求めて両替商に殺到する取り付け騒ぎとなったため、大多数の両替商が支払不能となり閉店に追い込まれ、江戸時代に高度に発達した信用組織は壊滅的打撃を被った[43][44]。正貨である丁銀・小玉銀の両・分・朱単位の貨幣による引換えは明治7年(1874年)9月に終了し、その後は丁銀・小玉銀は貨幣としての機能を失い、新貨(円・銭・厘)による交換は認められず、地金として取り扱われた。

江戸時代の匁

盛岡八匁銀判。幕末の地方貨幣であり、量目は正味8匁(約30 g)ある。銀八匁ではなく、一朱銀16枚の量目に合わせて金一両として通用させる試みであったが、一分銀4枚の量目には足らなかったため、実際には一両で通用したかは不明である。

この当時の目方の単位としての1匁は、分銅や定位貨幣を実測して推定すると、現在のメートル法を基準とした3.75 gよりやや小さく、近世を通じた平均値で3.736 gであり、江戸時代終盤にやや増加して3.75 gを超えた[45]狩谷棭斎は、「の人が持ってくる分銅を日本のものと計り比べてもの違いも無い。」またの衡(1銭=3.73 g)から変化していないと述べている[46]。貨幣の量目から、後藤家の分銅も中国の分銅を原器として模倣したものと推定され、江戸時代の1匁は3.73 gと見積られる[9]

銀目以外の「匁」の用法として、金座において金銀地金などの量目を表す場合に用い[47]、金貨の品位は44匁の純金に銀を加えて全体の量目を76匁7分とした場合の品位(44/76.7 = 573.7/1000)は「七十六匁七分位」と表現された[48][49][50]。また、各地金山・銀山からの産出量や運上高なども「貫」や「匁」で表される。これに対し、鉄や鉛などの卑金属、銅山から産出される銅地金の重量は「斤」の単位が用いられた[51]

秋田封銀や秋田銀判盛岡銀判など、幕末期の地方貨幣の「匁」表示の銀貨は正味の量目を表し、秤量銀貨の銀目を意味するものではなく、一分銀一朱銀の量目に合わせて二分や一両などの通用価値を定めたものである[38]

日本(銭・匁)

明治に入り、圓(円)1100補助貨幣の単位として使用することとなったため、明治4年(1871年)の新貨条例では質量の単位には戔(匁)が単位換算表や貨幣の量目表に現れ(ただし、第二次大戦前までは銭も併用されていた)、1戔(1匁)=約3.756521 g(86.4/23 g)と定められた[17]。その後、単位換算の便宜を図るため、1891年(明治24年)の度量衡法により、1貫 = 正確に154 kg、すなわち3.75 kgと定められ、匁は貫の11000と規定されたので、正確に 1匁 = 3.75 g となった。貨幣の量目に「匁」が公式に採用されたのは明治30年(1897年)の貨幣法からであり、「匁」単位は昭和8年(1933年)にメートル法表記に変更されるまで用いられた[52]

日本の計量法における扱いは、匁#もんめ(日本の計量法上の名称)のとおりである。なお、匁の1000倍である「」( = 正確に3.75 kg)は、非法定計量単位であり、「真珠の質量の計量」の場合であっても商取引における使用が禁じられている。

量目が匁表記となった貨幣法では、大正5年(1916年)の貨幣法改正において補助貨幣である1銭青銅貨の量目が「一匁」と規定され(大正5年2月24日法律第8号)、大正9年(1920年)の改正では10銭白銅貨の量目が「一匁」と規定された(大正9年7月27日法律第5号)[52]。現在の日本の五円硬貨の質量は政令(昭和24年8月1日政令第290号・昭和34年6月1日政令第209号)で3.75 gと規定され、ちょうど1匁に相当する。

現代の釣りおもりでは、「~号」という名称が用いられるが、その号数については、割ビシ・ガン玉・アユ玉などの例外を除いて、1匁に相当する3.75gを1号としている。

法令で量目が一匁と規定された補助貨幣

大正5年改正1銭青銅貨幣

大正9年改正10銭白銅貨幣

匁の質量の変遷

明治期以降に、従来の匁(または戔[注釈 6])の質量の値はメートル法によるグラムに関係づけられたが、その経緯は次の通りである。

  • 明治4年5月10日(1871年6月27日)太政官布告第267:新貨条例中、1戔=3.756574 g[53]。 この値は、法規分類大全第1編 政体門 制度雑款3 貨幣紙幣附貨幣1 に載せられている[54]
  • 明治4年9月13日(1871年10月26日)太政官布告第462:1戔=3.756521 g[55] 上記の明治4年5月10日太政官布告第267中の値が訂正された[56]
  • 明治24年(1891年)3月8日法律第3号公布、明治26年(1893年)1月1日施行 度量衡法 1匁=3.75000 g [57][58] 

注釈

  1. ^ 江戸時代初期鋳造と考えられている加賀花降銀は量目100匁だが、「百目」と表記されている。『日本貨幣収集事典』p81.
  2. ^ 銀貨の「分」との混同を避けるため、金一分を「一歩」と書いて区別する場合もある(草間(1815).
  3. ^ 長さの基本単位は「尺」でありこれを十割として同様に0.1割が1分である。寸は尺の補助単位で1割に相当する
  4. ^ 天秤による質量の実測値。両替屋の天秤は主に丁銀・小玉銀の質量を計る目的のものである。
  5. ^ 『新稿 両替年代記関鍵 巻二考証篇』は「二百"九十"匁四分九厘」と記しているなど誤植による異同がある。
  6. ^ 明治4年5月10日(1871年6月27日)太政官布告第267では、「銭」の異体字である「戔」を用いている。

出典

  1. ^ 『広辞苑』「匁」p2209.
  2. ^ a b c 『廣漢和辞典 上巻』「勹部-匁(1410)」,p416.
  3. ^ a b c d e 『国史大辞典』「匁(重量単位)」, p920.
  4. ^ a b c d e f 『国史大辞典』「匁(銀貨の単位)」, p920.
  5. ^ a b c 『国史大辞典』2巻「銀目」, p697.
  6. ^ a b 小泉(1974), p345.
  7. ^ 小泉(1974), p220-222, 345.
  8. ^ 計量単位令別表第6 項番4、「真珠の質量の計量、もんめ、キログラムの〇・〇〇三七五倍」
  9. ^ a b c 花野韶「貨幣から見た匁の変遷」2008年
  10. ^ 大内家壁書 13/32コマ”. 国文学研究資料館. 2018年2月12日閲覧。
  11. ^ a b 三上(1996), p29-30.
  12. ^ 小葉田(1958), p78.
  13. ^ 両替年代記(1933), p200-202.
  14. ^ 草間(1815).
  15. ^ 三上(1996), p213-215.
  16. ^ a b c 桜井信哉(1996)、「江戸時代における貨幣単位と重量単位 : 大黒作右衛門の「匁」の名目化=貨幣単位化意図を事例に」『社会経済史学』 1996年 62巻 4号 p.486-511,568, doi:10.20624/sehs.62.4_486
  17. ^ a b 明治大正財政史(1939), p11-12, 138-146.
  18. ^ 小泉(1974), p358-359.
  19. ^ 小泉(1974), p220, p345.
  20. ^ 笹原(2007), p91.
  21. ^ 計量単位令別表第6 項番4、「真珠の質量の計量、もんめ」
  22. ^ 計量単位規則別表第4 真珠の質量の計量、もんめ、mom
  23. ^ mace NOUN3 OED Oxford English Dictionary, mace is of multiple origins. Either (i) a borrowing from Dutch. Or (ii) a borrowing from Malay., Etymons: Dutch maes; Malay mas.
  24. ^ Weights and Measures Ordinance”. The Law of Hong Kong. 2012年1月28日閲覧。
  25. ^ "Weights and Measures" in The Miners' Pocket-book.
  26. ^ 小泉(1974), p220-222.
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  30. ^ 小葉田(1958), p119.
  31. ^ 田谷(1963), p125.
  32. ^ 小葉田(1958), p169-173.
  33. ^ 草間(1815), p822.
  34. ^ 三上(1996), p30.
  35. ^ 『新収 日本地震史料 第三巻 別巻』, p316.
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  37. ^ 東京大学経済学部, 経済学研究科所蔵の古貨幣コレクション
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  42. ^ 明治財政史(1905), p317-319.
  43. ^ 瀧澤・西脇(1999), p154-155.
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  49. ^ 青山(1982), p89.
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  51. ^ 小葉田(1999), p84-87.
  52. ^ a b 久光(1976), p201-207.
  53. ^ 明治四年法令全書 明治4年5月10日 太政官布告第267(新貨條例)、コマ番号151/514、p.229、日本量目、一戔、三七五六.五七四ミリガラム 三.七五六五七四ガラム
  54. ^ 小泉(1961), p.50
  55. ^ 明治四年法令全書 明治4年9月13日 太政官布告第462号、コマ番号210/514、p.346、「違算ノ廉及ヒ衍文モ有之ニ付左ノ通更正相加ヘ候事」、日本量目ガラム「ゲレイン」比較表ノ内 ガラム、三七五六五七四 → (最後の2桁が)二一 と訂正されている。
  56. ^ 小泉(1961), pp.50-51
  57. ^ 法令全書.明治24年 法律 p.2 コマ番号9/609 「第二條 度量衡ノ原器ハ(中略)分銅トス(中略)分銅ノ質量四分ノ十五ヲ貫トス」、p.6 コマ番号11/609 「第五條 匁 三.七五000グラム」、国立国会図書館デジタルコレクション
  58. ^ 小泉(1961), pp.65-66
  59. ^ a b 度量衡令 付表
  60. ^ a b c 単位の辞典.
  61. ^ WEIGHTS AND MEASURES ACT (CHAPTER 349) THIRD SCHEDULE Section 40 CUSTOMARY WEIGHTS


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