仏印進駐 北部仏印進駐

仏印進駐

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北部仏印進駐

北部仏印進駐
戦争第二次世界大戦
年月日1940年9月22日-26日
場所 フランス領インドシナ連邦
結果:日本がフランス領インドシナ北部を制圧し援蒋ルートを遮断
交戦勢力
大日本帝国 フランス国
指導者・指揮官
中村明人中将
西村琢磨少将
ジャン・ドクー中将
戦力
第5師団
印度支那派遣軍
第二次世界大戦
日本軍の仏印進駐について協議した富永恭次少将(右)デクー総督(中央)西原一策少将(左)

1940年5月のドイツ軍のフランス侵攻によりフランスが劣勢になると、日本軍内ではフランス領インドシナに対する対応が検討され始めた。6月15日には有田八郎外相が陸海軍大臣にフランスに対する要求案を提出し、17日には可決された[7]。同日、フランス領インドシナ政府は武器弾薬・燃料・トラックの輸出を禁止する措置を行う旨を日本側に通告したが、日本側の対応はかえって激しいものとなった[7]。6月18日、フランス領インドシナ政府に対する要求案が決定された[7]

6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した[8]。カトルー総督は、シャルル・アルセーヌ=アンリフランス語版駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団(西原機関、団長西原一策少将)の受け入れを行った[3]。カトルーの受諾は時間稼ぎの目的があり、アメリカから武器を購入しようとした上で、イギリスの外相ハリファックス伯に軍事的援助を要請しているが、拒絶されている[9]

独仏休戦協定が成立した6月22日に、ヴィシー政権はカトルーを解任した。カトルーの独断行動が直接の原因だったが、自由フランスに近いことも忌避の要因だった[10]。後任の総督はフランス極東海軍司令官[9]ジャン・デク―フランス語版提督だった[11]。しかしカトルーの行った日本との交渉は撤回されず、日本の松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリ大使との間で日本とフランスの協力について協議が開始された。8月末には交渉が妥結し、松岡・アンリ協定が締結された。この中では極東における日本とフランスの利益を相互に尊重すること、フランス領インドシナへの日本軍の進駐を認め、さらにこれにフランス側が可能な限りの援助を行うこと、日本と仏印との経済関係強化が合意された[12]

大本営からは仏印監視団長西原に折衝や調整が一任されていた。進駐は平和裏に行われることが前提であり、参謀本部第1部長富永恭次少将も、参謀本部の命令で交渉の成り行きを確認するため現地入りし[13]、8月30日にデク―総督と会談したが、デクーは「フランス政府が協定に署名したという報告は聞いてない」として交渉開始を拒否した。その後も日本軍の進駐引き延ばしを目論むデクーは「本国から訓令がきていない」などと理由をつけて交渉開始を遅らせた[14]。フランス側の誠意のない態度に業を煮やした富永は、与えられていた現地第22軍の指揮権を発動して、武力進駐の準備を行わせた。これは、フランス側に脅しをかけるためで、西原や参謀本部次長の沢田も了承しており、陸軍大臣であった東條も許可した[15]。9月3日、富永はデクーに対して「佛印がこうも不思議な態度に出る以上、最早交渉の余地はない」と最後通告を突きつけると、フランス側が折れて、同日夕刻に現地協定案を示してきた。フランス側の案は日本軍の行動領域や使用できる飛行場などで、日本軍側の希望とは異なっていたが、富永と西原は一旦このフランス案を受け入れることとし、9月4日に現地司令官アンリ・マルタンフランス語版将軍と西原の間で西原・マルタン協定が調印された[16]

あとは進駐の細目の協議が残されていたが、一旦は交渉妥結したものの、デクーとマルタンは未だに日本軍進駐の引き延ばしを画策していた。9月6日に森本宅二中佐率いる森本大隊が部隊の位置を見失って不意に越境する事件が発生すると、この事件は故意のものでなく、また武力衝突に至らなかったにも関わらず、フランス側はこの事件を進駐の引き延ばしに最大限利用しようと考えて、現地司令官アンリ・マルタンフランス語版将軍が西原に「本国政府の回答あるまで現地交渉を中止したい」と通告してきた。慌てた富永はデク―と会見し、「協定を知らない一部隊の行動をもってそのような措置をとられるとすれば、本国政府の回訓によって交渉継続を申し出られてもそれに応ずるわけにはいかない」と通告すると、フランス側への不信感をあらわにして東京に帰った[17]

その間、フランスはアメリカ本国やイギリス領事館に使節団を送って武器供与を要請したり、日本の輸送船武陽丸にフランス軍の砲艦が砲撃したりと挑発行為のようなこともあったので、現地入りした富永から詳細な報告を受けた陸軍の態度は硬化し、平和進駐の方針が次第に武力進駐へと傾いていく[18]。9月14日に進駐の方針として「佛印印度支那進駐二伴フ陸海軍中央協定」の大命が下ったが、この中央協定は平和進駐を原則としつつも、陸軍、特に富永ら参謀本部の意思が強く反映されて、フランス軍が抵抗すれば政府の指示を待つことなく武力進駐に切り替えてよいと決められており、平和進駐か武力進駐かは軍の裁量に委ねられているも同然となった[17]

富永はこの大命をもって現地部隊の作戦指導と交渉の経緯を確認のため再度現地入りした。一旦はフランス側の態度で姿勢を硬化させていた西原であったが、引き続き平和進駐実現に向けて司令官マルタンと交渉を続けていた。陸軍側の指揮しかできない富永の権限は、本来であれば陸海軍代表の西原には及ばないはずであったが[19]、富永は、西原に参謀総長の職印を押印した辞令を提示し「今次交渉期間は富永の命に従って行動し海軍には絶対に内密のこと」と命じた。しかし、この辞令が正当な手続きによって発行されたかは不明であった[20]。富永は現地を統括する南支那方面軍に赴くと、同軍参謀副長であった同じ東條英機一派の佐藤賢了少将と謀議し、軍司令官の安藤利吉中将や第5師団師団長中村明人中将を集めて仏印進駐の方針について申し渡しをしているが、その中では松岡・アンリ協定で定められた9月22日午前0時の交渉期限を独断で半日縮めて、9月21日の午後12時までに交渉が妥結しなかった場合や日本側の提示条件に修正を加えてきたなら、これを拒絶と見なすとし、わざわざ第5師団長の中村を起立させて、出撃準備を行うように指示した。富永は東京を発つ際に昭和天皇から「交渉が期限前に妥結した場合はくれぐれも平和進駐をするよう」との指示があっていたが、この申し渡しの席で富永は、居並ぶ南支那方面軍の高官らに「いかなる場合も平和進駐はあり得ない」と話していたという[21]

9月17日、富永は西原とフランス軍司令部を訪問しマルタンと面談、仏印に進駐する兵力を、前回の西原・マルタン協定で決められた5,000人規模から1個師団の25,000人に増やし、進駐する飛行場も3カ所から5カ所に増やすとする富永の越権行為による独断での提示を行った[22]。マルタンは富永の条件提示に難色を示し、その場では結論を出せずに一旦持ち帰り、回答は翌18日となった。その内容は飛行場の進駐5カ所など一部は受諾したものの、25,000人の進駐は断固拒否など、富永の条件とは大きな相違があったが、西原は富永に判断を仰ぐこと無く、陸軍中央に協定内容を打診、参謀本部はマルタンの回答を承諾し、9月22日に西原・マルタン協定が再締結されたが、富永の計画によって兵力増強され仏印進駐の準備をしていた第5師団の進撃開始6時間前の協定締結であった[23]

富永は自分が提示した条件通りの協定締結とならなかったことに憤慨し、西原と参謀本部を非難するような電文を打電しているが、そのまま現地をあとにしたので、進撃直前の第5師団に対して進撃中止の指示を行うことはなかった。一方で、現地軍である南支那方面軍も、富永からの申し渡しによって、既に準備が進んでいる第5師団の進撃開始を止めようという意志はなく、参謀本部から「陸路進駐中止」との電文が入ったが、正式な大本営陸軍部命令(大陸命)ではないとして、積極的な進撃中止の動きをとらず、第5師団師団長中村も西原からの「協定成立」の通報を無視し9月23日の未明に進撃を開始した[24]。師団主力はドンダン要塞に進撃したが、フランス軍も日本軍が越境してきたら徹底抗戦するつもりであり、要塞司令官のクールーペー中佐は発砲を命じ、要塞守備隊は激しく抵抗したため、結局は武力進駐となってしまった。第5師団の無断越境の報告を受けた参謀本部次長沢田は深夜3時に慌てて進撃停止の大陸命を出したが、既に激戦が開始されており、現地軍の局地的交戦の自由は付与せざるを得ず[25]、第5師団はこの“局地”を拡大解釈しさらに進撃を行った。9月23日の11時には要塞司令官のクールーペーと士官のジロー少佐以下多数が戦死し、残った兵士は投降してドンダン要塞は日本軍に攻略された[26]。第5師団の順調な進撃を聞いた南支那方面軍は、第5師団を止めるどころか「中村兵団の行動に深甚なる敬意を表す」などと称賛する電文を打電し、「方面軍としては1度交戦した以上は、背進となるような命令は絶対に避け、フランス軍に一撃を加えねばならないと思っていた」と停戦命令を出すことをしなかった。この後、第5師団はメヌラ少将率いる要衝ランソンも占領した[26]。ドクー総督は「日本軍と戦ってはならぬ。それではインドシナを根こそぎ取られてしまう」と指令して9月25日に停戦させた[27]。その後ハノイなど重要拠点に進駐した日本軍は、紅河以北にある仏印国内の飛行場や港湾の利用権を獲得し、援蔣ルートや中国への攻撃に利用した[12][28]

富永自身がこの武力進駐を直接指揮したわけではないが、西原とマルタンが協定を結んで平穏に進めることもできた進駐に不満を抱き、武力進駐を煽るような行動をとったため、南支那方面軍や第5師団の独断越境をまねくこととなってしまった。こののち、海路からも武力進駐を進めたい現地の陸軍と、事件不拡大方針の海軍の意見が相違して対立することとなった[29]。富永は9月25日には東京に帰り、報告のために参謀次長室を訪れたが、そこには次長の沢田と神田正種総務部長が待ち構えており、沢田が「第一部長を辞めてもらう。君の仕事は僕がやる」と富永の更迭を言い渡した。この処分に富永は参謀飾緒を引きちぎって怒りを露わにしたという[30]。この富永の更迭には、陸軍大臣東條の意志がはたらいていた。軍紀には厳格な東條は、中央の指示を無視して武力進駐としたことを「統帥権越権」と見なして、目をかけている富永や佐藤であっても厳格に処分するように指示している。現地でも富永らに煽られて実際に武力進駐を指揮した軍司令官の安藤や師団長の中村も処分されて予備役となった。富永は一旦東部軍司令部付の閑職に回されたが、のちに安藤ら他の関係者と同様に昇進と復権の機会を与えられている。これは東條の温情であり、このように硬軟使い分ける東條の執務ぶりは陸軍内で傑出した存在と認められ、次の内閣総理大臣推薦にも繋がることとなった[13]。富永らによってせっかく平和裏に進めていた仏印進駐を武力進駐にされてしまった西原は、陸海軍次官阿南と次長沢田宛てに『統帥乱レテ信ヲ中外ニ失ウ』の電文を発している[31]

参加兵力


注釈

  1. ^ 前記の通り、北進論を唱えて閣内で対立した松岡外相を更迭するため、7月18日に第2次近衛内閣が総辞職し、同日成立した第3次近衛内閣で外相に就任。
  2. ^ ((1)すべての国家の領土と主権を尊重すること、(2)他国の内政に干渉しない原則を守ること、(3)通商の平等を含めて平等の原則を守ること、(4)平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状を維持すること)

出典

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  42. ^ 小谷賢 2009, pp. 122–123.
  43. ^ "帝国ト仏印、泰間ニ軍事、政治、経済ニ渡リ緊密ナル結合関係ヲ確立ス。 ... 帝国ハ外交的施策ニ依リ、右目的ノ貫徹ヲ期スルヲ本則トス。特ニ速カニ仏印、泰トノ間ニ軍事的結合関係ヲ設定ス。" 以下より引用。『対南方施策要綱』陸海軍案.
  44. ^ "五月一日陸軍省軍務課長佐藤賢了大佐は石井中佐に対し、「南部佛印陸軍配置ノ件」の立案を命じた ... それは南部佛印における陸軍兵力の駐屯を意味するものであった。" p.110 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  45. ^ "第二課長、軍務課長、田村武官ノ意見ヲ一途ニ過信シ南仏兵力進駐案ヲ省部内ニ強調ス当班不同意ヲ唱フ" 以下より引用。「機密戦争日誌
  46. ^ "部長会報ニ於テ総長松岡ガ「シンガポール」「シンガポール」ト云ヒアルヲ以テ或ハ之ガ攻略ト云フ事ニナル事ヲ予期セザルベカラズト云フ総長堅確ナル意志指導精神ナキニアラザルヤヲ疑フ" 以下より引用。「機密戦争日誌
  47. ^ a b "「対南方施策要綱」のすみやかな廟議決定 ... すなわち自存自衛の場合のほかはシンガポール攻略はやらぬ旨の国家意志を廟議決定しようというのである。" p.113 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  48. ^ "対南方施策要綱ノ廟議決定ヲ急グベシノ件第一部長次長モ同意" 以下より引用。「機密戦争日誌
  49. ^ "一、対南方施策要綱ノ連絡会議上提ノ意見急速ニ纏マリ今週木曜ヲ目標トシ準備ヲ進ム右ト同時ニ仏印泰ニ軍事基地設定ニ関スル件ヲ提議シ外相ヲシテ軍事協定締結ヲ督促スルニ決定ス" 以下より引用。「機密戦争日誌
  50. ^ "対南方施策要綱 ... ノ件石川海軍軍務課長ノ反対ニ依リゴタツク石川ハ軍事基地設定ノ件ノミヲ提議シ「シンガポール」ヲヤラヌト云フカ如キ施策要綱ハ止メヨト云フニ在リ ... 参本ハ ... 総長以下右石川案ニ全然不同意軍令部モ亦然リ" 以下より引用。「機密戦争日誌
  51. ^ "石川案ニ次長憤慨ス ... 海軍近藤軍令部次長ト直接会談ス ... 陸軍案ニ全然同意ナリト云フ" 以下より引用。「機密戦争日誌
  52. ^ 戦後陳述/昭和35年 "元来「対南方施策要綱」は、大野少将によれば「陸軍からせっつかれたから出したものである」(64)ということで、海軍にとってはなくもがなのものであったようである。 ... (64) 昭和三十五年三月十六日陳述" p.114 & p.209 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  53. ^ "両軍務局長会同ス右結果対南方施策要綱軍事協定締結ノ件二本ヲ次回連絡懇談会ニ提案スヘク意見一致ス" 以下より引用。「機密戦争日誌
  54. ^ "五、朝板西武官ヨリ独「ソ」開戦ハ確実ナリ ... 六、前項ニヨリ独「ソ」開戦ニ伴フ帝国国策ノ大綱ヲ審議ス第二課案第二部案アリタルモ当班案ヲ基礎トシテ一案成ル" 以下より引用。「機密戦争日誌
  55. ^ "三、当班起案ニ就キ昨日審議ノ結果ヲ修文シ之ニ基キ主任者会議ヲ開ク ... 議論沸騰シテ決セズ" 以下より引用。「機密戦争日誌
  56. ^ "部長会議ヲ開キ独「ソ」開戦ニ伴フ国策大綱ヲ審議ス ... 概ネ当班ノ意見通リ決定ス(昨日審議ノ結果ニ基キ若干修文セルモノ)" 以下より引用。「機密戦争日誌
  57. ^ "軍務課長及軍事課長ヨリ第二課長第八課長第二十班長ニ会談ヲ申込ミ断乎南方ニ武力進出スヘキヲ強調ス ... 第二十班長不同意今更何事ゾヤ当班半年ノ結晶ノ結果カ対南方施策要綱ナリ" 以下より引用。「機密戦争日誌
  58. ^ "三、午後陸海作戦部長及軍務局長会談ス ... 日蘭交渉決裂セントス ... 此ノ際仏印ニ対スル軍事協定締結ヲ促進スルト共ニ南仏駐兵権ヲ獲得スベシノ意見台頭ス 右陸海軍概ネ意見一致セントス" 以下より引用。「機密戦争日誌
  59. ^ "対仏印施策に関する陸海軍主任者案が概定した。それは「南方施策促進ニ関スル件」と呼ばれ" p.117より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  60. ^ "提供者の名前を明かすことはできないが、元海軍士官が遺した資料の中に、件のテープが含まれていた ... 録音されたのは昭和三十六年。... 高田元少将が語ったのは、意外な言葉だった。「... 南部仏印進駐で ... 泰仏印はよろしいと、あそこまでは。仏印から外に出ると大事になる。私はシンガポールは反対だったから、泰仏印で止めようじゃないかということだったんですよ ...」...「海軍の心理状態は非常にデリケートで ... 戦争しないで片付けたい" pp.136-138 より引用。NHKスペシャル取材班. (2014). 日本海軍400時間の証言. 新潮文庫.
  61. ^ "提供者の名前を明かすことはできないが、元海軍士官が遺した資料の中に、件のテープが含まれていた ... 録音されたのは昭和三十六年。... 高田元少将が語ったのは、意外な言葉だった。「... 私はシンガポールは反対だったから、泰仏印で止めようじゃないかということだった ... こんなにアメリカ怒るとは思わなかったなあと。それは読みがなかった。申し訳なかったですよ。南部仏印から後ですね、日米関係が悪くなったのは」" pp.136-137 より引用。NHKスペシャル取材班. (2014). 日本海軍400時間の証言. 新潮文庫.
  62. ^ "昨日ノ陸海主任者案(対米英戦ヲ辞セズノ件)海軍首脳部遂ニ同意ス" 以下より引用。「機密戦争日誌
  63. ^ "統帥部トシテハ ... 仏印ニ兵力ヲ進駐セシムル如ク外務大臣ニ於テ手ヲ打ツコトヲ希望ス" 以下より引用。「『大本営政府連絡会議議事録 四冊中其の一』(杉山メモ)122画像~125画像
  64. ^ "対仏印施策ノ件ニ論議移リ参謀総長南仏ニ対スル所要兵力進駐ノ要ヲ軍事協定締結ノ件ト併セ提議ス" 以下より引用。「機密戦争日誌
  65. ^ 昭和16年(1941年)6月25日第32回大本営政府連絡懇談会(議題:南方政策促進決定、南部仏領インドシナ進駐) - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  66. ^ 昭和16年(1941年)6月26日第33回大本営政府連絡懇談会(議題:帝国国策要綱) - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
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  68. ^ "参謀総長 ... 泰ハ馬来ト接續シテ居リマスル関係上大キイノヲ引キオコスカモ知レマセヌカラ先ツ最初ハ佛印ニヤルノガ宜シイト存シマス" 「6月25日 南方施策促進に関する件上奏の際に於ける御下問並奉答」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12120286200、参謀総長上奏時 御下問奉答綴 昭和15年11月~16年11月(防衛省防衛研究所)
  69. ^ 昭和16年7月7日 東条・杉山の奏上「英国の動きは威嚇に過ぎず、大きな支障なく進駐できると考えている」
  70. ^ "日米国交調整の見地よりすれば、蘭印なればとも角、仏印なれば大して故障なかるべしとの見透しが、陸海軍共一致したる見解にて、此見透しが誤り居り、今回の如き結果となりし事、遺憾至極に存居候。" . 国立国会図書館デジタルコレクション. 近衛文麿書翰 有田八郎宛. 2024-04-16閲覧.
  71. ^ "陸海軍統帥部が米英は武力をもって反発して来ることはないと判断したことは、前記前田、田中両中将の陳述によっても明らかである。" p.127 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  72. ^ "六月十一日の業務日誌 ... に次のような趣旨がしるされている ... 米英の反対策謀は考慮しなければならぬが、米英が真面目なる武力行使によって、日本軍の南部佛印進駐を阻止するものとは思われない。" pp.125-126 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  73. ^ "前田稔中将は次のように述べている(77) ... 出張の目的は南部佛印に進駐した場合の情勢判断を現地において検討するためであった。 ... 英国のシンガポールにおける戦備は不十分であり、武力反発の動きはないだろう。すなわち英はたたない ... (77) 昭和三十七年六月十九日陳述" pp.122-123 & p.210 より引用。
  74. ^ "廟議において禁輸の有無に対し特別関心が払われたという形跡は認められぬのであった。" p.127より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  75. ^ "陸軍関係者の大部は、全面禁輸はあり得ないと見たか、またはそれについての十分な検討を怠っていたわけであった。" p.127 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  76. ^ "西浦大佐は「参謀本部作戦課の岡村誠之少佐がこんなことになるなら進駐せぬがよかったというのを聞いて心外であった」(86) ... (86) 昭和三十七年十一月陳述" p.127 & p.211 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  77. ^ 7月後半の経済制裁をもってしても石油禁輸無しとの見解であったため "当班佛印進駐ニ止マル限リ禁輸ナシト確信ス" 以下より引用。「昭和16年7月 機密戦争日誌(2)」
  78. ^ "たとえば資金凍結とか ... どの程度予想されていましたか。西浦 あまり予想していない ... われわれも ... 経済問題には極めて能力がないですから、それはなにかやられると思っておったが、資金凍結とか ... 詳しいことは本当に知らない ... 禁輸をしなくても、向こうは全部手にもっている ... 生殺与奪の権は向こうにある ... 日本でその当時頼れるものは武力しかないわけですから、 ... その武力さえも押さえられるというのが南部仏印へ進駐をしないということなのですからね。" pp.332-334 より引用。西浦. (2014). 昭和陸軍秘録 軍務局軍事課長の幻の証言. 日本経済新聞出版社.
  79. ^ "もっとも西浦大佐は「全面禁輸を受けても別に驚きはしなかった。...」(86) ... (86) 昭和三十七年十一月陳述" p.127 & p.211 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  80. ^ "海軍部内も大勢は全面禁輸を予期していなかったようである。" p.128 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  81. ^ 岡中将によれば「米英の態度はシリアスになるとは考えたが、禁輸をやるとは思わなかった。もっとも禁輸を受けても驚きはしなかった。交渉により打開ができると考えたからである」(87) ... (87) 昭和三十五年三月陳述" p.128 & p.211 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  82. ^ "提供者の名前を明かすことはできないが、元海軍士官が遺した資料の中に、件のテープが含まれていた ... 録音されたのは昭和三十六年。... 高田元少将が語ったのは、意外な言葉だった。「... 南部仏印進駐で、あんなにアメリカが怒るとは思っていなかった。... 夜中にわれわれ起こされまして ... 海軍省に集まって”これはしまったー”って言う訳ですよ ... 南部仏印まではいいと思ってた。よかろうと思ってた。... 誰かに言われたからではなくて ... 私はそう信じていたと思う。根拠のない確信でした。" pp.136-137 より引用。NHKスペシャル取材班. (2014). 日本海軍400時間の証言. 新潮文庫.
  83. ^ "大野少将も「平和進駐ならば直ちに全面禁輸を受けるとは判断しなかった」(88) ... (88) 昭和三十五年三月十六日陳述" p.128 & p.211 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  84. ^ "前田稔中将は次のように述べている(77) ... しかし禁油ぐらいはやるかも知れぬと考えた。... (77) 昭和三十七年六月十九日陳述" pp.122-123 & p.210 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  85. ^ "石川信吾少将も「... 南部佛印進駐は ... 米英の全面禁輸を受けるものと予測していた。...」(80) ... (80) 昭和三十五年三月陳述" p.124 & p.210 より引用。
  86. ^ 立川京一 1998, pp. 22.
  87. ^ 立川京一 1998, pp. 32.
  88. ^ 立川京一 1998, pp. 32–34.
  89. ^ 立川京一 1998, pp. 32–33.
  90. ^ a b 昭和16年(1941年)7月23日豊田外務大臣、野村大使に対し、南部仏領インドシナ進駐に関わらず、対米交渉を継続するよう訓令 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  91. ^ 昭和16年(1941年)7月24日野村大使、ウェルズ米国務長官代理会談、野村は仏領インドシナ進駐に関して説明 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  92. ^ a b c 昭和16年(1941年)7月25日野村大使・ルーズヴェルト米大統領第三回会談 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  93. ^ "当班佛印進駐ニ止マル限リ禁輸ナシト確信ス" 以下より引用。「昭和16年7月 機密戦争日誌(2)」
  94. ^ "全面禁輸必至ナシトシ南方武力解決ヲ主張スルモノ第一部ニ久門、辻中佐アリ相当強硬ナリ" 以下より引用。「昭和16年7月 機密戦争日誌(2)」
  95. ^ 以下より引用。「昭和16年7月 機密戦争日誌(2)」
  96. ^ 小谷賢 2009, pp. 123–124.
  97. ^ 昭和16年(1941年)8月2日野村大使、某米閣僚と懇談、野村は仏領インドシナ進駐について説明 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  98. ^ 昭和16年(1941年)8月5日豊田外務大臣、野村大使に対し、ルーズヴェルト米大統領の仏領インドシナ中立化申し入れに対する日本側回答提示を訓令 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  99. ^ 昭和16年(1941年)8月9日野村大使・ハル米国務長官会談、8月6日の日本側回答に対する回答について - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  100. ^ 昭和16年(1941年)10月2日野村大使・ハル米国務長官会談、ハルは、4原則の確認と、仏領インドシナ及び中国からの撤兵を要求する覚書及び、日米首脳会談についての回答を手交 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  101. ^ 昭和16年(1941年)10月6日豊田外務大臣、野村大使に対し、大局的見地より国交調整を図るという日本側の趣旨を徹底するよう訓令 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  102. ^ 昭和16年(1941年)11月20日東郷外務大臣、野村・来栖両大使に大使、「乙案」に挿入すべき南部仏領インドシナ撤兵に関する条項について説明 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  103. ^ 昭和16年(1941年)11月24日東郷外務大臣、野村・来栖両大使に対し、「乙案」の徹底を訓令 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  104. ^ 昭和16年(1941年)11月28日野村・来栖両大使、ルーズヴェルト米大統領と会談 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  105. ^ 昭和16年(1941年)12月2日野村・来栖両大使、ハル米国務長官と会談 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  106. ^ a b 立川京一 1999, pp. 50–51.
  107. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 4.
  108. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 5.
  109. ^ a b 立川京一 1999, pp. 53.
  110. ^ 立川京一 1999, pp. 47–48.
  111. ^ 立川京一 1999, pp. 48.
  112. ^ a b c 立川京一 1999, pp. 47.
  113. ^ 立川京一 1999, pp. 49–50.
  114. ^ a b c 立川京一 1999, pp. 50.
  115. ^ 立川京一 1999, pp. 51.
  116. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 4–5.
  117. ^ a b 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 12.
  118. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 14.
  119. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 14–15.
  120. ^ a b 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 15.
  121. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 23–24.
  122. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 25.
  123. ^ 白石昌也・古田元夫 1976, pp. 26.





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