仏印進駐とは? わかりやすく解説

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仏印進駐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 05:16 UTC 版)

仏印進駐(ふついんしんちゅう、: Invasion japonaise de l'Indochine)とは、第二次世界大戦下におけるフランス領インドシナへの日本軍の進駐のことを指す。1940年北部仏印進駐と、1941年南部仏印進駐に分けられる。1907年に締結された日仏協約が事実上無効化し、さらに南部仏印進駐は日米関係の決定的な決裂をもたらした、太平洋戦争への回帰不能点であると評されている[1]


注釈

  1. ^ 前記の通り、北進論を唱えて閣内で対立した松岡外相を更迭するため、7月18日に第2次近衛内閣が総辞職し、同日成立した第3次近衛内閣で外相に就任。
  2. ^ ((1)すべての国家の領土と主権を尊重すること、(2)他国の内政に干渉しない原則を守ること、(3)通商の平等を含めて平等の原則を守ること、(4)平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状を維持すること)

出典

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  40. ^ a b 昭和16年(1941年)6月11日 第29回大本営政府連絡会議(議題:日蘭交渉) - アジア歴史資料センターインターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
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  42. ^ 小谷賢 2009, pp. 122–123.
  43. ^ "帝国ト仏印、泰間ニ軍事、政治、経済ニ渡リ緊密ナル結合関係ヲ確立ス。 ... 帝国ハ外交的施策ニ依リ、右目的ノ貫徹ヲ期スルヲ本則トス。特ニ速カニ仏印、泰トノ間ニ軍事的結合関係ヲ設定ス。" 以下より引用。『対南方施策要綱』陸海軍案.
  44. ^ "五月一日陸軍省軍務課長佐藤賢了大佐は石井中佐に対し、「南部佛印陸軍配置ノ件」の立案を命じた ... それは南部佛印における陸軍兵力の駐屯を意味するものであった。" p.110 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  45. ^ "第二課長、軍務課長、田村武官ノ意見ヲ一途ニ過信シ南仏兵力進駐案ヲ省部内ニ強調ス当班不同意ヲ唱フ" 以下より引用。「機密戦争日誌
  46. ^ "部長会報ニ於テ総長松岡ガ「シンガポール」「シンガポール」ト云ヒアルヲ以テ或ハ之ガ攻略ト云フ事ニナル事ヲ予期セザルベカラズト云フ総長堅確ナル意志指導精神ナキニアラザルヤヲ疑フ" 以下より引用。「機密戦争日誌
  47. ^ a b "「対南方施策要綱」のすみやかな廟議決定 ... すなわち自存自衛の場合のほかはシンガポール攻略はやらぬ旨の国家意志を廟議決定しようというのである。" p.113 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  48. ^ "対南方施策要綱ノ廟議決定ヲ急グベシノ件第一部長次長モ同意" 以下より引用。「機密戦争日誌
  49. ^ "一、対南方施策要綱ノ連絡会議上提ノ意見急速ニ纏マリ今週木曜ヲ目標トシ準備ヲ進ム右ト同時ニ仏印泰ニ軍事基地設定ニ関スル件ヲ提議シ外相ヲシテ軍事協定締結ヲ督促スルニ決定ス" 以下より引用。「機密戦争日誌
  50. ^ "対南方施策要綱 ... ノ件石川海軍軍務課長ノ反対ニ依リゴタツク石川ハ軍事基地設定ノ件ノミヲ提議シ「シンガポール」ヲヤラヌト云フカ如キ施策要綱ハ止メヨト云フニ在リ ... 参本ハ ... 総長以下右石川案ニ全然不同意軍令部モ亦然リ" 以下より引用。「機密戦争日誌
  51. ^ "石川案ニ次長憤慨ス ... 海軍近藤軍令部次長ト直接会談ス ... 陸軍案ニ全然同意ナリト云フ" 以下より引用。「機密戦争日誌
  52. ^ 戦後陳述/昭和35年 "元来「対南方施策要綱」は、大野少将によれば「陸軍からせっつかれたから出したものである」(64)ということで、海軍にとってはなくもがなのものであったようである。 ... (64) 昭和三十五年三月十六日陳述" p.114 & p.209 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  53. ^ "両軍務局長会同ス右結果対南方施策要綱軍事協定締結ノ件二本ヲ次回連絡懇談会ニ提案スヘク意見一致ス" 以下より引用。「機密戦争日誌
  54. ^ "五、朝板西武官ヨリ独「ソ」開戦ハ確実ナリ ... 六、前項ニヨリ独「ソ」開戦ニ伴フ帝国国策ノ大綱ヲ審議ス第二課案第二部案アリタルモ当班案ヲ基礎トシテ一案成ル" 以下より引用。「機密戦争日誌
  55. ^ "三、当班起案ニ就キ昨日審議ノ結果ヲ修文シ之ニ基キ主任者会議ヲ開ク ... 議論沸騰シテ決セズ" 以下より引用。「機密戦争日誌
  56. ^ "部長会議ヲ開キ独「ソ」開戦ニ伴フ国策大綱ヲ審議ス ... 概ネ当班ノ意見通リ決定ス(昨日審議ノ結果ニ基キ若干修文セルモノ)" 以下より引用。「機密戦争日誌
  57. ^ "軍務課長及軍事課長ヨリ第二課長第八課長第二十班長ニ会談ヲ申込ミ断乎南方ニ武力進出スヘキヲ強調ス ... 第二十班長不同意今更何事ゾヤ当班半年ノ結晶ノ結果カ対南方施策要綱ナリ" 以下より引用。「機密戦争日誌
  58. ^ "三、午後陸海作戦部長及軍務局長会談ス ... 日蘭交渉決裂セントス ... 此ノ際仏印ニ対スル軍事協定締結ヲ促進スルト共ニ南仏駐兵権ヲ獲得スベシノ意見台頭ス 右陸海軍概ネ意見一致セントス" 以下より引用。「機密戦争日誌
  59. ^ "対仏印施策に関する陸海軍主任者案が概定した。それは「南方施策促進ニ関スル件」と呼ばれ" p.117より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  60. ^ "提供者の名前を明かすことはできないが、元海軍士官が遺した資料の中に、件のテープが含まれていた ... 録音されたのは昭和三十六年。... 高田元少将が語ったのは、意外な言葉だった。「... 南部仏印進駐で ... 泰仏印はよろしいと、あそこまでは。仏印から外に出ると大事になる。私はシンガポールは反対だったから、泰仏印で止めようじゃないかということだったんですよ ...」...「海軍の心理状態は非常にデリケートで ... 戦争しないで片付けたい" pp.136-138 より引用。NHKスペシャル取材班. (2014). 日本海軍400時間の証言. 新潮文庫.
  61. ^ "提供者の名前を明かすことはできないが、元海軍士官が遺した資料の中に、件のテープが含まれていた ... 録音されたのは昭和三十六年。... 高田元少将が語ったのは、意外な言葉だった。「... 私はシンガポールは反対だったから、泰仏印で止めようじゃないかということだった ... こんなにアメリカ怒るとは思わなかったなあと。それは読みがなかった。申し訳なかったですよ。南部仏印から後ですね、日米関係が悪くなったのは」" pp.136-137 より引用。NHKスペシャル取材班. (2014). 日本海軍400時間の証言. 新潮文庫.
  62. ^ "昨日ノ陸海主任者案(対米英戦ヲ辞セズノ件)海軍首脳部遂ニ同意ス" 以下より引用。「機密戦争日誌
  63. ^ "統帥部トシテハ ... 仏印ニ兵力ヲ進駐セシムル如ク外務大臣ニ於テ手ヲ打ツコトヲ希望ス" 以下より引用。「『大本営政府連絡会議議事録 四冊中其の一』(杉山メモ)122画像~125画像
  64. ^ "対仏印施策ノ件ニ論議移リ参謀総長南仏ニ対スル所要兵力進駐ノ要ヲ軍事協定締結ノ件ト併セ提議ス" 以下より引用。「機密戦争日誌
  65. ^ 昭和16年(1941年)6月25日第32回大本営政府連絡懇談会(議題:南方政策促進決定、南部仏領インドシナ進駐) - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  66. ^ 昭和16年(1941年)6月26日第33回大本営政府連絡懇談会(議題:帝国国策要綱) - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  67. ^ a b 昭和16年(1941年)6月30日第36回大本営政府連絡懇談会(議題:帝国国策要綱閣議提出案、対独通告文、御前会議における外務大臣説明案) - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  68. ^ "参謀総長 ... 泰ハ馬来ト接續シテ居リマスル関係上大キイノヲ引キオコスカモ知レマセヌカラ先ツ最初ハ佛印ニヤルノガ宜シイト存シマス" 「6月25日 南方施策促進に関する件上奏の際に於ける御下問並奉答」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12120286200、参謀総長上奏時 御下問奉答綴 昭和15年11月~16年11月(防衛省防衛研究所)
  69. ^ 昭和16年7月7日 東条・杉山の奏上「英国の動きは威嚇に過ぎず、大きな支障なく進駐できると考えている」
  70. ^ "日米国交調整の見地よりすれば、蘭印なればとも角、仏印なれば大して故障なかるべしとの見透しが、陸海軍共一致したる見解にて、此見透しが誤り居り、今回の如き結果となりし事、遺憾至極に存居候。" . 国立国会図書館デジタルコレクション. 近衛文麿書翰 有田八郎宛. 2024-04-16閲覧.
  71. ^ "陸海軍統帥部が米英は武力をもって反発して来ることはないと判断したことは、前記前田、田中両中将の陳述によっても明らかである。" p.127 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  72. ^ "六月十一日の業務日誌 ... に次のような趣旨がしるされている ... 米英の反対策謀は考慮しなければならぬが、米英が真面目なる武力行使によって、日本軍の南部佛印進駐を阻止するものとは思われない。" pp.125-126 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  73. ^ "前田稔中将は次のように述べている(77) ... 出張の目的は南部佛印に進駐した場合の情勢判断を現地において検討するためであった。 ... 英国のシンガポールにおける戦備は不十分であり、武力反発の動きはないだろう。すなわち英はたたない ... (77) 昭和三十七年六月十九日陳述" pp.122-123 & p.210 より引用。
  74. ^ "廟議において禁輸の有無に対し特別関心が払われたという形跡は認められぬのであった。" p.127より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  75. ^ "陸軍関係者の大部は、全面禁輸はあり得ないと見たか、またはそれについての十分な検討を怠っていたわけであった。" p.127 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  76. ^ "西浦大佐は「参謀本部作戦課の岡村誠之少佐がこんなことになるなら進駐せぬがよかったというのを聞いて心外であった」(86) ... (86) 昭和三十七年十一月陳述" p.127 & p.211 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  77. ^ 7月後半の経済制裁をもってしても石油禁輸無しとの見解であったため "当班佛印進駐ニ止マル限リ禁輸ナシト確信ス" 以下より引用。「昭和16年7月 機密戦争日誌(2)」
  78. ^ "たとえば資金凍結とか ... どの程度予想されていましたか。西浦 あまり予想していない ... われわれも ... 経済問題には極めて能力がないですから、それはなにかやられると思っておったが、資金凍結とか ... 詳しいことは本当に知らない ... 禁輸をしなくても、向こうは全部手にもっている ... 生殺与奪の権は向こうにある ... 日本でその当時頼れるものは武力しかないわけですから、 ... その武力さえも押さえられるというのが南部仏印へ進駐をしないということなのですからね。" pp.332-334 より引用。西浦. (2014). 昭和陸軍秘録 軍務局軍事課長の幻の証言. 日本経済新聞出版社.
  79. ^ "もっとも西浦大佐は「全面禁輸を受けても別に驚きはしなかった。...」(86) ... (86) 昭和三十七年十一月陳述" p.127 & p.211 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  80. ^ "海軍部内も大勢は全面禁輸を予期していなかったようである。" p.128 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  81. ^ 岡中将によれば「米英の態度はシリアスになるとは考えたが、禁輸をやるとは思わなかった。もっとも禁輸を受けても驚きはしなかった。交渉により打開ができると考えたからである」(87) ... (87) 昭和三十五年三月陳述" p.128 & p.211 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  82. ^ "提供者の名前を明かすことはできないが、元海軍士官が遺した資料の中に、件のテープが含まれていた ... 録音されたのは昭和三十六年。... 高田元少将が語ったのは、意外な言葉だった。「... 南部仏印進駐で、あんなにアメリカが怒るとは思っていなかった。... 夜中にわれわれ起こされまして ... 海軍省に集まって”これはしまったー”って言う訳ですよ ... 南部仏印まではいいと思ってた。よかろうと思ってた。... 誰かに言われたからではなくて ... 私はそう信じていたと思う。根拠のない確信でした。" pp.136-137 より引用。NHKスペシャル取材班. (2014). 日本海軍400時間の証言. 新潮文庫.
  83. ^ "大野少将も「平和進駐ならば直ちに全面禁輸を受けるとは判断しなかった」(88) ... (88) 昭和三十五年三月十六日陳述" p.128 & p.211 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  84. ^ "前田稔中将は次のように述べている(77) ... しかし禁油ぐらいはやるかも知れぬと考えた。... (77) 昭和三十七年六月十九日陳述" pp.122-123 & p.210 より引用。防衛庁防衛研修所戦史室著. (1974). 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯 4. 朝雲新聞社.
  85. ^ "石川信吾少将も「... 南部佛印進駐は ... 米英の全面禁輸を受けるものと予測していた。...」(80) ... (80) 昭和三十五年三月陳述" p.124 & p.210 より引用。
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  99. ^ 昭和16年(1941年)8月9日野村大使・ハル米国務長官会談、8月6日の日本側回答に対する回答について - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  100. ^ 昭和16年(1941年)10月2日野村大使・ハル米国務長官会談、ハルは、4原則の確認と、仏領インドシナ及び中国からの撤兵を要求する覚書及び、日米首脳会談についての回答を手交 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  101. ^ 昭和16年(1941年)10月6日豊田外務大臣、野村大使に対し、大局的見地より国交調整を図るという日本側の趣旨を徹底するよう訓令 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  102. ^ 昭和16年(1941年)11月20日東郷外務大臣、野村・来栖両大使に大使、「乙案」に挿入すべき南部仏領インドシナ撤兵に関する条項について説明 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
  103. ^ 昭和16年(1941年)11月24日東郷外務大臣、野村・来栖両大使に対し、「乙案」の徹底を訓令 - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」
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