ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年) 「結論」

ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/28 04:50 UTC 版)

「結論」

カエサルはブリタンニアを征服できなかったが、マンドゥブラキウスを王位に就けたことで、ローマとの間にクリエンテスの関係が始まり、ローマの政治的な影響力がブリタンニアへ持ち込まれた。外交と貿易により次の世紀に入るまで関係性は進展、徐々にローマによるブリタンニア征服の確率は上昇し、43年にクラウディウスによってついに始められた。なお、前45年にカエサルは終身独裁官となり、パルティアダキアなどを攻撃する計画であったが、ブリタンニアへの再侵攻はその計画には無かったようである[56]

プルタルコスは「カエサルは2度の遠征で多くの戦闘を行ったが、貧しく・惨めな生活振りのブリタンニア人から獲得できる財貨は乏しく、敵へ損害を与えただけで、自らの兵士へ十分な分け前をもたらすことは出来なかったのではないか」としている[4]

タキトゥスは次のように記している。

「事実上、最初にブリタンニアへ軍を率いて攻め込んだ神君ユリウス(=カエサル)が全ての始まりであり、カエサルは戦闘に勝利を収めて原住民を懐柔し、海岸の支配者になった。しかし、神君ユリウスはローマにブリタンニアを遺贈したというよりむしろ、未開のブリタンニアを明らかにしたと言えるかもしれない[57]。」

ブリタンニア侵攻を題材とした後の時代の文学作品など

古代の作品

  • 1世紀の歴史家ウァレリウス・マクシムス(en)の「Memorable Words and Deeds」はカエサルの配下でケントゥリオであったマルクス・カッシウス・スカエウァ(Marcus Cassius Scaeva)が、仲間によって見捨てられ、安全になるのを確認する前に、小さな島でブリタンニアの群集に対して彼の孤立した立場を維持した、その勇猛さを賞賛している[58]。カッシウスについては「皇帝伝」[59]や「内乱記」[60]にて、その勇猛ぶりが記されている。
  • 2世紀の人ポリャエヌス(en)は「Strategemata」の中で、「カッシウェッラウヌスがカエサル軍による渡河を防御していた時、カエサルは装甲した戦象を使用することで進路を得て、恐怖から逃れようとブリタンニア軍は逃げた[61]」と記した。これは、43年にクラウディウスによるブリタンニア征服時に象を使用したことと、勘違いしているかもしれない[62]、と記している。
  • 5世紀の人オロシウス(en)は「History Against the Pagans」に、カエサルの遠征について短い記述を残した[63]が、その中で重大な間違いを犯した。すなわち、ブリタンニアで戦死した「クィントゥス・ラベリウス・ドゥルス(Quintus Laberius Durus)」を誤って「ラビエヌス(Labienus)」と表記したことであるが、後に続くイギリスの中世の書物も全てそれに従う結果となった。

中世の作品

  • 8世紀に活躍したベーダ・ヴェネラビリスは「英国民教会史」(en)でこのブリタンニア侵攻の内容を記している[64]。この記述はほとんどオロシウスの書物から言葉を引いたが、ベネディクト・ビスコップ(en)がローマから持ち込んだ「モンクウェアマウス・ヤロウ・アッベイ(Monkwearmouth-Jarrow Abbey)」にあった図書館でこの作品の写本を読んだ、と伝わっている。
  • ネンニウスが作者であるとする9世紀の「ヒストリア・ブリットヌム」は、「カエサルのブリタンニア侵攻が(2度ではなく)3度行われた」、「カンティウム(ケント)の海岸よりむしろ、テムズの三角江へ上陸した」、「カエサルの主たる敵はミノカンヌス(Minocannus)の息子で、ブリタンニアの王ベリヌス(Belinus)の属州総督ドロベッルス(Dolobellus)であった」、「カエサルは最終的に「トリノウァントゥム」(Trinovantum)と呼ばれる場所でブリタンニア人を打ち破った」など、事実と異なる内容を与えている[65]
  • 12世紀ハンティングドンのヘンリーの「Historia Anglorum」はベーダの著書と「ヒストリア・ブリットヌム」を基に創作され、その中でローマ軍を鼓舞する演説をカエサルが行った、と記述している[66]
  • モンマウスのジェフリーは「Historia Regum Britanniae(ブリタニア列王史)」[67]で、カエサルの最初のブリタンニア侵略での最初の敵を「カッシベラヌス(Cassibelanus)」と記載したが、上述したように歴史的な事実とは異なっている。「Historia Regum Britanniae」はまた多くをベーダの「英国民教会史」と「ヒストリア・ブリットヌム」に依拠した上、更に大きく誇張され、歴史的な事実と変えられている。具体的には「ブリタンニア人によってテムズ川に置かれた杭は、歩兵や騎兵に対するよりむしろ、船に対する作戦であった」[68]、「カッシベラヌスの兄弟ネンニウスがカエサルと至近距離で戦闘を行い、「クロケア・モルス」と呼ばれるカエサルのを盗んだ」などで、それらはどんな過去の資料にも出典は無い。ウァースの「Roman de Brut」(en)やラヤモン(en)の「Brut」(en)および「Welsh Bruts」は多くを「Historia Regum Britanniae」に従っている。
  • 中世の「ウェールズのトライアド」もまたカエサルの侵略を題材にしている。これらの参考のいくつかはジェフリーの記述に直接関係していると見られる、しかし、他にも独自の伝統に言及しており「カスウァッラウン(Caswallawn)」は彼の恋人「Fflur」を探すためローマへ行き、「Meinlas」と呼ばれる馬を奪還するため、ブリタンニアにカエサルが上陸するのを許し、カスウァッラウンがガリアへ戻った後、大船団でカエサルを追跡した、というものである[69]ヨロ・モルガヌグによって集められた18世紀のトライアドコレクションは、これらの伝統の誇張された作品を含んでいる[70]
  • 13世紀フランスの作品「Li Fet des Romains」はカエサルとジェフリーの作品の一部ずつを採り入れて、ブリタンニア侵攻に関する記述を残している。どのようにしてカエサルの兵士がテムズの杭を乗り越えたかについて「兵士たちが杭の周りに硫黄を満たした添木を繋いで、それらをギリシアの火を使って燃やしたため」という説明を加えている。この作品では第10軍団エクェストリスアクィリフェルの名をウァレリウス・マクシムス・スカエウァ(Valerius Maximus's Scaeva)としている[71]
  • 14世紀のフランスの騎士道物語「Perceforest」(en)では、未だ21歳の戦士であったカエサルは、彼の騎士の一人「Luces」がイングランド王の妻と相思相愛であったので、ブリタンニアへ侵攻した。後に「Orsus Bouchesuave」と呼ばれたブリタンニア人は、カエサルが叔父を殺すのに使ったランスの先端部分から12の鉄の針を作り、マルクス・ブルートゥスカッシウス、他の元老院議員らと共に、カエサル暗殺のためにその鉄針を使用した[71]、と「ブリタンニア侵攻」を題材に描かれている。

20世紀の作品

  • 1957年の「The Goon Show」(en)は、叙事詩的な作品である「The Histories of Pliny the Elder」でのカエサルのブリタンニア侵略を含むエピソードを模倣して次のように描いている。
「ブリタンニアへ侵攻したローマ軍に対して、その戦いがフットボールの試合と思ったブリタンニア側はたった10名しか迎撃要員を送らなかったため敗北し、ブリタンニアは10年以上も占領された。」
  • 1964年の映画「Carry on Cleo」(en)は、ブリタンニアに侵攻して、その地で洞窟を住処とする原住民を奴隷にしたカエサルとマルクス・アントニウスを描いている。なお、アントニウスがブリタンニア遠征に従軍したという事実は無い。
  • ルネ・ゴシニとアルベルト・ウデルゾ(en)による1965年コミック「Asterix in Britain」(en)では、カエサルが首尾よくブリタンニアを征服したと書いた、なぜならば、ブリタンニア人は午後はいつもミルクの入った1杯のお湯(まだ茶は発見されていなかったから)を嗜むために、戦いを止めたから。
  • 1934年と1935年のロバート・グレーヴスの小説「この私、クラウディウス」(および「Claudius the God」)では、クラウディウスが自身のブリタンニア侵攻時に、カエサルの侵攻を参考にしたとある。1976年に2つの本を元にして制作された「この私、クラウディウス」のテレビ放送(en)で、次のようなシーンがある。アウグストゥスが皇帝在位中、皇帝一族の若いメンバーが、ボードゲーム(リスク)と似た)を楽しんでいた中で、帝国の領土を更に広げれなければならず、(仮に)ブリタンニアを征服したとして、統治を維持するのに理論的にいくつのローマ軍団を駐留させる必要があるか、という内容を議論していた。そして、再びクラウディウスの侵略をアナウンスしている演説(神君ユリウスがブリタンニアを去ってから100年、ブリタンニアはもう一度再びローマの属州となる)へ戻る、という場面である。

参考資料

古代ローマ時代の文献

第一次の遠征

第二次の遠征

その他の資料

現代の資料

  • Sheppard Frere, 1987. Britannia: A History of Roman Britain (3rd edition). London. Routledge & Kegan Paul., chapter 3 (pages 42–54)
  • Peter Salway,11 Roman Britain (Oxford History of England), chapter 2 (pages 20–39)
  • John Peddie, 1987, Conquest: The Roman Conquest of Britain, chapter 1 (pages 1–22)
  • T. Rice Holmes, 1907. Ancient Britain and the Invasions of Julius Caesar. Oxford. Clarendon Press.
  • R. C. Carrington, 1938, Caesar's Invasions of Britain by (reviewed in Society for the Promotion of Roman Studies, Vol. 29, Part 2 (1939), pp. 276–277)
  • Peter Berresford Ellis, Caesar's Invasion of Britain, 1978, ISBN 0-85613-018-4
  • W. Welch, C. G. Duffield (Editor), Caesar: Invasion of Britain, 1981, ISBN 0-86516-008-2
  • R.H. Kinvig, 1975, The Isle of Man. A Social, Cultural and Political History. (3rd Edition) Liverpool University Press ISBN 0-85323-391-8

日本語版翻訳時の参考資料


  1. ^ カエサル「ガリア戦記4.20-4.355.15.8-5.23
  2. ^ カッシウス・ディオ Historia Romana 39.50-53, 40.1-3
  3. ^ フロルス Epitome of Roman History 1.45
  4. ^ a b c プルタルコス「英雄伝」カエサル 23.2
  5. ^ 例えば、カエサルの時代の少し後に書かれた ストラボン地理誌2:4.1ポリュビオス「歴史」34.5(なお、ポリュビオス自身が進めていた大西洋岸までの領土拡張を賛美する狙いもあって、ピュテアスの説を否定したかもしれない、とBarry Cunliffeは「The Extraordinary Voyage of Pytheas the Greek」の中で述べている
  6. ^ Sheppard Frere, Britannia: a History of Roman Britain, third edition, 1987, pp. 6-9
  7. ^ カエサル「ガリア戦記」 2.45.12
  8. ^ Frere, Britannia pp. 9-15
  9. ^ カエサル「ガリア戦記」 2.4-52.12
  10. ^ カエサル「ガリア戦記」 3.8-9
  11. ^ ストラボン「地理誌」4:4.1
  12. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.20
  13. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.21
  14. ^ Frere, Britannia, p. 19
  15. ^ Science-Nature Doubt over date for Brit invasion”. BBC News (2008年7月1日). 2008年7月2日閲覧。 See also: Tide and time: Re-dating Caesar’s invasion of Britain”. Texas State University (2008年6月23日). 2008年7月2日閲覧。
  16. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.23
  17. ^ a b カエサル「ガリア戦記」 4.30
  18. ^ "Caesar's Landings", Athena Review 1,1
  19. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.25
  20. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.26
  21. ^ a b c モムゼン「ローマの歴史」第5章 p.98
  22. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.28
  23. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 25
  24. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.31-324.34
  25. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.35
  26. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.37
  27. ^ キケロ「友人への手紙」 7.7; 「アッティクスへの手紙」 4.17
  28. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 47. 事実、後にカエサルはウェヌスの神殿でウェヌス像にブリタンニアで獲得した真珠で装飾した胸当てを奉納した(大プリニウス博物誌」 : IX.116)。そして、カキは後にブリタンニアからローマへ輸出された (プリニウス「博物誌」 IX.169) and Juvenal, Satire IV.141
  29. ^ キケロ他「友人への手紙」 7.6, 7.7, 7.8, 7.10, 7.17; 「弟クィントゥスへの手紙」 2.13, 2.15, 3.1; 「アッティクスへの手紙」4.15, 4.17, 4.18
  30. ^ a b c カエサル「ガリア戦記」 5.8
  31. ^ Invasion of Britain”. unrv.com. 2009年4月25日閲覧。
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  33. ^ a b カエサル「ガリア戦記」 5.23
  34. ^ Cicero, Letters to his brother Quintus 3.1
  35. ^ 一部の「ガリア戦記」の校訂版に、その王の名として「Inianuvetitius」と付記。國原訳「ガリア戦記」p.200
  36. ^ カエサル「ガリア戦記」 5.15-17
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  38. ^ カエサル「ガリア戦記」 5.22
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  40. ^ カエサル「ガリア戦記」 7.76
  41. ^ ヒルティウス「ガリア戦記」 8.23
  42. ^ フロンティヌス「戦略論」 2:13.11
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  46. ^ a b c カエサル「ガリア戦記」 5.12
  47. ^ R.H. Kinvig The Isle of Man. A Social, Cultural and Political History. pp18-19
  48. ^ カエサル「ガリア戦記」 5.13
  49. ^ カエサル「ガリア戦記」 6.11-20、「ガリア戦記」の中でカエサルはブリタンニア人をガリア人と同系統の人種と描いている
  50. ^ カエサル「ガリア戦記」 5.14
  51. ^ 中倉訳「ガリア戦記」第4巻末
  52. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.33
  53. ^ カエサル 「内乱記」1.54
  54. ^ カエサル「ガリア戦記」 6.13
  55. ^ 國原訳「ガリア戦記」p.200
  56. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 44
  57. ^ タキトゥス 「アグリコラ」13
  58. ^ ウァレリウス・マクシムス Actorum et Dictorum Memorabilium Libri Novem 3:2.23
  59. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 68
  60. ^ カエサル 「内乱記」3.53
  61. ^ ポリャエヌス Stategemata 8:23.5
  62. ^ カッシウス・ディオ, Historia Romana 60.21
  63. ^ オロシウス Historiarum Adversum Paganos Libri VII 6.9
  64. ^ ベーダ 「英国民教会史」 1.2
  65. ^ ヒストリア・ブリットヌム 19-20
  66. ^ ヘンリー, Historia Anglorum 1.12-14
  67. ^ ジェフリー 「Historia Regum Britanniae」 4.1-10
  68. ^ カエサル「ガリア戦記」 5.18、「Historia Regum Britanniae」4.6
  69. ^ Peniarth Triads 32; Hergest Triads 5, 21, 50, 58
  70. ^ ヨロ, Triads of Britain 8, 14, 17, 21, 24, 51, 100, 102, 124
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