ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年) 紀元前54年(第二次のブリタンニア侵攻)

ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/28 04:50 UTC 版)

紀元前54年(第二次のブリタンニア侵攻)

再遠征に向けた準備

前55年から前54年の冬の間、カエサルは前54年の夏に(行う予定の)2度目のブリタンニア遠征の計画を立てた。

マルクス・キケロは友人のガイウス・トレバティウス・テスタ(en)と弟クィントゥスへ、「2人のどちらかが、カエサルの軍隊と共に出征するだろう」と、興奮した表現で手紙を記している。その中で、キケロは、トレバティウスへチャリオットを鹵獲するように、クィントゥスへは島(ブリタンニア)の様子を書いてよこすように頼んだ。(後に明らかとなるように)トレバティウスがブリタンニアへ行くことはなかったが、クィントゥスはブリタンニア遠征に従い、キケロに対してカエサルと同様に複数の手紙を現地から送った[29]

第1次のブリタンニア侵攻(前55年)と同じ過ちを犯すことがないように、第1次遠征の兵力(2個軍団および騎兵部隊)を上回る5個軍団を集め、ウェネティ族の造船技術を活用して軍船・輸送船を設計し、船団を第1次遠征時に使用した港湾より上陸するのにより適した海岸(広大で低いような浜へ引き上げやすい場所)へと運んだ。

カエサルは、出航地点を「イティウス港(Portus Itius)」と命名している。

大陸(ガリア)にティトゥス・ラビエヌスが統括する3個軍団と騎兵2,000を残したが、カエサルが自ら率いるローマ軍は800隻の船舶(恐らくは商業船も含む)、5個軍団と騎兵2,000から構成された大軍であった[30]。なお、1944年のDデイ(ノルマンディー上陸作戦)を迎えるまでは、世界史上で最大の海軍の上陸部隊数であった[31]

海峡横断と再上陸

なお、ブリタンニア侵攻が開始される前に、ローマに反逆したハエドゥイ族のドゥムノリクス(en)をローマ軍が殺害する事件が発生した。また、かねてより反ローマの姿勢を取るトレウェリ族のインドゥティオマルス(en)の動向を監視する必要があった。カエサルは、ラビエヌスに対して、ガリアからブリタンニアの上陸地点まで定期的な食糧輸送、イティウス港の守備に加えて、ガリアの動向を監視する役割を命じた[30]

また、ローマ人とローマの属州民が船長を務めていた商業貿易船団や、交易の機会に分け前に与ろうと望んだ地元のガリア人らが、ブリタンニア遠征の軍船団に加わった。カエサルは総船舶数を800隻と記しているが、ローマ軍が管轄する軍船や輸送船だけの数でなく、これらの民間の商船数もおそらく含んでいると見られる。

カエサルは第1次の遠征時(前55年)に上陸するのに最適な場所と認識していた地点へ上陸した。なお、ブリタンニア人たちは、明らかにカエサル軍の艦船の多さと(船自体の)大きさに圧倒されたことから上陸に抵抗しなかった、とカエサルは記している[30]が、これはブリタンニア軍を集結させる時間を与えるための戦術的策略、またはローマ軍の関心が欠如していたことを反映しているかもしれない。

カンティウムでの戦闘

第2次遠征時のブリタンニア人の部族別の居住地

上陸後、カエサルはクィントゥス・アトリウス(en)を上陸地点の守備のために残し、カエサルは夜になると即座に内陸へ12マイル進行し、おそらくはストア川(en)と考えられる[32])河川を渡っていたブリタンニア軍と遭遇した。

ローマ軍はブリタンニア人の攻撃を受けたが、これを撃退した。そして、ブリタンニア軍は森の中の要塞化された場所で再編成を試みた(その森はケント州のビッグバリー・ウッド(Bigbury Wood)にあった丘上集落(en)と推測される[32]))が、再びブリタンニア軍は打ち負かされ、散り散りとなった。

その日も暮れたが、ローマ軍は未だ勢力圏が固まっていなかったため、カエサルはブリタンニア軍を追討していた部隊を呼び戻して、陣営を張った。

しかし、翌朝、カエサルが前日追い払ったブリタンニア軍を追撃する準備をしていたところ、アトリウスからの伝言を受け取った。即ち、前年と同様に、を下ろしていた艦隊が、嵐の影響で船舶同士が激突し合い、深刻な損害を蒙ったということであった。カエサルは「約40隻を失った」と記している[33]

ローマ軍は大西洋とブリタンニアとガリアの間の海峡(イギリス海峡)における潮の干満と嵐に不慣れであったが、第一次の遠征時を匹敵した損害を考慮すると、これによりカエサルの意図した計画の遂行が困難となった。

しかし、カエサルは、自身の達成度を大げさに見せるために、わざと損害船舶数を誇張したかもしれない[33]

カエサルは、先発していた軍団兵を呼び戻し、上陸地点の海岸まで撤退して、艦船・船舶の修繕に当たらせた。軍団兵は、ローマ軍営地周辺を要塞化させ、船を陸揚げして修理に当たり、約10日間も昼・夜と働いた。また、カエサルはラビエヌスへブリタンニアまで更に艦船を送るように手紙で指示を出した。

カエサルがキケロへ宛てて書いた手紙により、カエサルが9月1日に海岸にいたことがわかっている。その頃に、カエサルの娘で、グナエウス・ポンペイウスの妻でもあったユリアが死去したという知らせが届いたに違いなく、キケロは弟クィントゥスに対して「カエサルの悲しみを考えると、返信などできない」と手紙を送っている。[34]。実際、カエサルはユリアの死を大変悲しんだ、とプルタルコスも伝えている[4]

内陸部への侵攻

第2次侵攻におけるローマ軍の進軍路

タメシス川(現:テムズ川)の北部出身の部族(おそらく、カトゥウェッラウニ族(en))の首領であったカッシウェッラウヌスは、前もってブリタンニアのほとんどの部族と戦闘していた。

カッシウェッラウヌスは少し前にトリノウァンテス族の強力な王[35]とその王の息子マンドゥブラキウス(en)を打倒し、結果としてブリタンニア人たちは連合軍の指揮権をカッシウェッラウヌスへ委任していた。

艦隊の整備に一通り目処をつけ、船団の守備隊を残して、カエサルは軍勢を率いて再びストア川を渡ったところ、ブリタンニア軍がその地で集結していたのを発見した。

両軍の間でいくらかの小競り合りが起き、ローマ軍のトリブヌス・ミリトゥムであったクィントゥス・ラベリウス・ドゥルス(en)が殺された。また、ブリタンニア軍はレガトゥス(総督代理)ガイウス・トレボニウスが指揮を取る食糧徴発部隊の3個軍団を攻撃した、しかし、ブリタンニア軍はローマ騎兵部隊に撃退され、逃亡するブリタンニア軍をローマ軍が徹底して追跡し、ブリタンニア人の多くを討ち取った[36]

カッシウェッラウヌスは、正面からの戦闘でカエサルを打ち破ることは出来ないと悟り、軍の大半を解散させて、4,000のチャリオットによる機動力と(ローマ軍に比べて)地勢に明るい優位性を活かして、ローマ軍の前進を遅らせるためにゲリラ戦術を行った。

カエサルは、タメシス(テムズ)河畔にまで到着した。そこは、高い土手による天然の要害で、防柵と堀を構え、更に侵入者を防ぐ鋭い杭によって要塞化された(カッシウェッラウヌスの拠点となる)場所であったが、ローマ軍はブリタンニア軍の守備隊を振り切り、タメシス川を渡って、カッシウェッラウヌスの支配地へと入ることが出来た。

カエサルがブリタンニアで最強の部族と評して、その頃はカッシウェッラウヌスによって苦しめられていた、トリノウァンテス族が、援助と食糧を送ることをカエサルに約束する旨を伝える使者を送った。カエサルに随伴していたマンドゥブラキウスを王に復帰させ、トリノウァンテス族はローマ軍に食糧と人質を差し出した。

ブリタンニアにあった丘上集落の一例(画像はバークシャーの丘上集落)

ケニマグニ、セゴンティアキ(en)、アンカリテスen)、ビブロキ(en)、カッシ(en)の5つの部族はカエサルに降伏した。彼らはカッシウェッラウヌスの本拠のオッピドゥム(恐らくはホイートハムステッド(Wheathampstead)にあった丘上集落[37])の場所を示し、カエサルは程なく、このオッピドゥムを包囲下に置いた。

カッシウェッラウヌスは、カンティウム地方の同盟者で「カンティウムの4人の王」として描かれている、キンゲトリクス(en)、カルウィリウス(en)、タクシマグルス(en)、セゴウァクス(en)へ書簡を送り、カエサルを排除するために、ローマ軍の上陸地点の守備隊を攻撃するように命じた。しかし、攻め込んだブリタンニア軍は出撃してきたローマ軍に撃退された。

講和・終戦

先にローマへ降伏したケニマグニ族以外にも離反する部族が出たこともあって、ついにカッシウェッラウヌスはコンミウスを通じて、降伏を交渉する使者をローマ軍陣地へ送った[38]

カエサルは、冬を迎えることでの心配が増大したため、ガリアへの帰還を望み、コンミウスは(カッシウェッラウヌスとの間で)協定を成立させた。

協定でカッシウェッラウヌスは人質と年間の貢物をローマへ送ることに同意し、カエサルはマンドゥブラキウスやトリノウァンテス族に対して戦争を起こさないように約束させた。

前54年9月26日にカエサルは「第2次のブリタンニア遠征(前54年)における戦闘の結果、人質は取ったが、戦利品は得られなかったこと、(カエサル率いる)ローマ軍がガリアへと帰還すること」を記した手紙をマルクス・トゥッリウス・キケロへ送った[39]

こうしてカエサルはブリタンニアを離れた、しかし、カッシウェッラウヌスとの合意内容を監視するためのローマ軍兵士をただの一人もブリタンニアに置くことは無かった。年間の貢物が払われたかさえも、知られていない。

テオドール・モムゼンは第2次の遠征の結果について、次のように記している。

「カエサルは勝利、兵士たちは戦利品を共に獲得することができなかった。ローマ軍はカッシウェッラウヌスの賢明な防衛システムに阻止された。唯一、トリノウァンテス族より人質と服従を得たのが成果であったが、トリノウァンテス族とカッシウェッラウヌスが仇敵の間柄であったからに過ぎない。また、ローマ軍の軍船・輸送船が北海では何の役にも立たない、ということがこの戦いで証明された」[21]

  1. ^ カエサル「ガリア戦記4.20-4.355.15.8-5.23
  2. ^ カッシウス・ディオ Historia Romana 39.50-53, 40.1-3
  3. ^ フロルス Epitome of Roman History 1.45
  4. ^ a b c プルタルコス「英雄伝」カエサル 23.2
  5. ^ 例えば、カエサルの時代の少し後に書かれた ストラボン地理誌2:4.1ポリュビオス「歴史」34.5(なお、ポリュビオス自身が進めていた大西洋岸までの領土拡張を賛美する狙いもあって、ピュテアスの説を否定したかもしれない、とBarry Cunliffeは「The Extraordinary Voyage of Pytheas the Greek」の中で述べている
  6. ^ Sheppard Frere, Britannia: a History of Roman Britain, third edition, 1987, pp. 6-9
  7. ^ カエサル「ガリア戦記」 2.45.12
  8. ^ Frere, Britannia pp. 9-15
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  10. ^ カエサル「ガリア戦記」 3.8-9
  11. ^ ストラボン「地理誌」4:4.1
  12. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.20
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  14. ^ Frere, Britannia, p. 19
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  17. ^ a b カエサル「ガリア戦記」 4.30
  18. ^ "Caesar's Landings", Athena Review 1,1
  19. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.25
  20. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.26
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  22. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.28
  23. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 25
  24. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.31-324.34
  25. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.35
  26. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.37
  27. ^ キケロ「友人への手紙」 7.7; 「アッティクスへの手紙」 4.17
  28. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 47. 事実、後にカエサルはウェヌスの神殿でウェヌス像にブリタンニアで獲得した真珠で装飾した胸当てを奉納した(大プリニウス博物誌」 : IX.116)。そして、カキは後にブリタンニアからローマへ輸出された (プリニウス「博物誌」 IX.169) and Juvenal, Satire IV.141
  29. ^ キケロ他「友人への手紙」 7.6, 7.7, 7.8, 7.10, 7.17; 「弟クィントゥスへの手紙」 2.13, 2.15, 3.1; 「アッティクスへの手紙」4.15, 4.17, 4.18
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