ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年)
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遠征後の後日談
カエサルの同盟者でアトレバテス族のコンミウスは、後に立場を変えて、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクスと共にアレシアの戦い(前52年)に臨んだ[40]。アレシア陥落後もローマ軍の仇敵として諸部族を先導して戦ったものの成果が上がらず、挙句はローマ軍に暗殺されそうになった[41]こともあり、コンミウスはガリアを捨てて、ブリタンニアへと渡った。
セクストゥス・ユリウス・フロンティヌス(en)は、自著「戦略論(戦術論、Stratagemata)」で、ローマ軍に追撃されていたコンミウスとその支持者が、船にどのように乗ったのかを描いている。
- 「潮流は無く、船はまだ海岸にあったが、コンミウスは帆を揚げるように命令した。コンミウスのいる位置まで距離のあったカエサルは、船は既に出航したと判断して、追跡するのを諦めた[42]。」
ジョン・クレイトンは、この逸話が伝説であり、カエサル軍のレガトゥスであったマルクス・アントニウスとの協定を結んだ[43]コンミウスが、ローマにとって友好的な王としてブリタンニアへ送られたと、強く主張している[44]。
コンミウスはハンプシャー地方に自らの王権を打ち立てたが、これはその地方で出土したガッロ・ベルギカ式の硬貨からも明らかである。なお、クラウディウス帝時代の43年にローマ帝国軍の侵攻を招き入れた王として知られるアトレバテス族の王ウェリカ(en)はコンミウス自身の息子、ウェリカから支配地を奪ってローマ亡命へ追いやったカトゥウェッラウニ族(en)の王カラタクス(en)は、第2次の侵攻(前54年)でカエサルが苦しめられたカッシウェッラウヌスの子孫と伝わっている[45]。
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- ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 47. 事実、後にカエサルはウェヌスの神殿でウェヌス像にブリタンニアで獲得した真珠で装飾した胸当てを奉納した(大プリニウス「博物誌」 : IX.116)。そして、カキは後にブリタンニアからローマへ輸出された (プリニウス「博物誌」 IX.169) and Juvenal, Satire IV.141
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