ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年) 『ガリア戦記』によるブリタンニア判明事項

ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/28 04:50 UTC 版)

『ガリア戦記』によるブリタンニア判明事項

概説

チャリオット(戦車)の使用に代表される、珍しく、見慣れないブリタンニア人たちの戦闘方法を記すだけでなく、ブリタンニア地理学的、気象学的、民族学的な調査を行うことで、カエサルはこのブリタンニアへの遠征をローマ市民に印象付けることを狙った。

カエサルは、(ブリタンニアの)内陸へはそれ程侵攻しなかったため、おそらくは直接的な経験よりもむしろ調査と伝聞によりこれらの情報を得たと考えられる。そのため、カエサルより後世の歴史家のほとんどは、カエサルが直接接触した部族・土地以外へ、その情報を適用することには慎重である。

地理学的・気象学的観点

1490年頃にイタリアで復元されたクラウディオス・プトレマイオスの構想に基づくブリタンニア(中央)とヒベルニア島(左 現在のアイルランド島)の地図。おそらく、当時のローマ人もプトレマイオスと同様の地理的知識であったと考えられる。

カエサルの最初の発見は、ケント地区の東部とテムズ川の平野部に限定されたが、ブリタンニアの地理と気候の描写を得ることが出来た。カエサルが記した測定値(ピュテアス(en)の資料から一部を得た可能性もある)は正確とは言い難いが、概要的な結論は理屈には適っている。

「風土は、ガリアよりも激しくはなく、寒さも緩やかであった[46]
島の形は三角形であり、その三角の一つの側は、ガリアに向かい合っている。このガリアに向かい合っている側は、カンティウム(ケント)に当たり、ガリアから到着したほとんどの船が寄港する。カンティウム側の角は東、低いものは南に向いており、カンティウム側の長さは約500マイルになる。
もう一つの側はヒスパニアイベリア半島)と西に対して横たわっており、ヒベルニア島(現:アイルランド島)もある。ヒベルニア島はブリタンニアの半分の大きさ、ヒベルニア島からブリタンニアまでの道のりは、ガリアからブリタンニアまでの距離と等しい。ブリタンニアとヒベルニア島の半ばほどに「モナ」(Mona、現:マン島[47])と呼ばれる島があり、ブリタンニアとヒベルニア島の間には多くのより小さな島が点在していると考えられる。それらの島では冬至の時期には夜が30日間続く(極夜)、と幾人もが著述している。
水による正確な測定によって、私たちはブリタンニアが大陸(ガリア)よりも夜が短いと感じたことを除いて、私たちは何も突き止められなかった。先人たちの著述や伝聞によると、この側の長さは約700マイルとなる。
3番目の側は北に向いており、その辺のどの部分も大陸には面していないが、主としてゲルマニアの方向に向いている。この側の長さは800マイルと考えられている。よって、ブリタンニア島全体では約2,000マイルの外周距離である[48]」。

港湾や他の上陸場所についての情報は、カエサルによる遠征より以前はローマ人は活用出来なかった。そして、カエサルはローマの軍事および交易による利益を得ることを見出すことが出来た。

第1次の遠征(前55年)に先立って偵察でブリタンニアへ赴いたガイウス・ウォルセヌスは、天然港のドーバー近辺を航海したと特定されるが、カエサルはそこへの上陸を阻まれ、開けた海岸へ上陸を余儀なくされた。前54年の第2次の遠征時は、ローマ軍の巨大な船団にドーバーは余りにも小さかったと考えられる。

より大きな天然港は(カエサルによる遠征から)約110年後のクラウディウス時期の侵略時に使われたルトピエ(en、現:リッチボロー (en))の港より更にもっと遠くにあり、これらの遠征で使用されることは無かった。

カエサルは気付かなかったのかも、使わない事を選んだかも、またはその時にこのような大軍を隠しまた上陸させるのに適した形状でなかったのかもしれない(その停泊港を築いたウォンツァム海峡(en)の地理的な知識は限られている)。

クラウディウスの時代までローマ人のブリタンニアに対する知識は、その間の1世紀に行われた貿易と外交、4度の失敗に終わったブリタンニア侵攻によって大幅に増加した。そして、カエサルによる2度のブリタンニア侵攻によって集積された記録はローマへはっきりと残り、43年のクラウディウスによる上陸作戦へ活用されることとなった。

民族学的観点

カエサルは、ブリタンニア人をガリア人と多くの箇所で類似しているとし「一夫多妻制や他の珍しい社会的な慣習を持ち、ローマ人に栄光を与えた勇敢な敵で、典型的な野蛮人」として定義している[49]

「ブリタンニアの内陸部の住民は、ブリタンニア島より発祥し、その伝統を受け継いでいる、主張している。一方で、沿海部の住民は、元々は略奪や戦争を仕掛ける目的で、ベルガエ地方から渡ってきた人々が居住している。
彼らのほとんど全ては、そこに到来した(大陸の)出身部族に由来する部族の名前で呼ばれる。彼らはブリタンニアであちらこちらへ出征して戦争を行い、それらを繰り返し、やがて土地を耕し始めた。
ブリタンニア人の人口は数え切れない。そして、彼らの住居数も夥しい数である、その(住居)のほとんどはガリア人と大変似ている。ブリタンニア人は野うさぎ雄鶏そして鵞鳥を食することは不法と見做している。しかしながら、ブリタンニア人は娯楽と喜びのためにそれらを飼育している[46]
これらの人たち(ブリタンニア人)の中で最も文化的なのは、間違いなく沿海地区のカンティウムの住民である。彼らはガリア人の生活慣習とほとんど大差が無い。島の住民のほとんどは、小麦トウモロコシ?)の種を蒔かずに、牛乳と魚で職を満たしている。また、人々は肌を覆っている。全てのブリタンニア人が青みがかった格好を誘引する大青で自身を染めて、そのために戦闘時にはより恐ろしく見せる。彼らは髭を長く伸ばして、頭と上唇を除いた全ての体中を剃っている。
10または12人の妻を、特に同じ兄弟の間や、親子の間で共同で持っている。これらの妻に子供が生じたら、ブリタンニア人たちは処女の時に最初に娶った者との間の子供と評する[50]。」

軍事的観点

歩兵と騎兵に加えて、戦闘でブリタンニア軍はローマ人には見慣れないチャリオット(戦車)を用いていた。カエサルは彼らの使用法について次のように描いている。なお、ガリアではすでに戦車から騎兵主体の戦闘方法へ変化していた、と考えられている[51]

「彼らのチャリオットによる戦闘方法は次のようになる、彼らは戦場全体の周辺をチャリオットで駆け回り、武器を放り投げる。大概の場合、馬の恐れや車輪の騒音で敵の隊列は崩れる。そして、騎兵部隊の間で働く時に、(チャリオットへ乗込んでいた兵士が)チャリオットから飛び跳ねて、徒歩(自らの足)で戦う。
暫くして御者は、戦闘から少しの距離を引き下がっていく、チャリオットと共に彼ら自身の場所、彼らの主軍が敵の数に圧倒されそうであるならば、彼ら自身の分隊へ退却の準備をするかもしれない。
ブリタンニア人は、戦闘において馬の速度と歩兵の堅さを示していた。すなわち、このような経験で獲得した日々の鍛錬と実戦によって、瞬間的にターンさせることや、柱や棒の間を走らせること、くびきの上に立たせること、そしてその瞬間から、再びチャリオットを最大の速度で取り掛からせること、また、下り坂や急勾配の場所でさえ、全速力の馬を停止させることにも慣れていた、ということである[52]。」
クラッチ

なお、(2度目のブリタンニア侵攻から5年後の)前49年より始まったグナエウス・ポンペイウス元老院派との内戦中に、カエサルはブリタンニアで使っていた一種のボート(アイルランドのクラッチ(currach)ウェールズのコラクル(coracle)のようなもの)を活用して窮地を脱している。なお、ボートの製作方法をカエサルは次のように述べている。

竜骨と肋材は軽い木材で作り、船の残骸の残りは、小枝で細工して、更に皮革で覆う[53]。」

信仰・宗教

カエサルは「ガリア戦記」の中でブリタンニアの信仰・宗教について以下のように記している。

ドゥルイデスの制度はブリタンニアに起源を持ち、ガリアへ紹介されたと考えられる、今日においても、ドゥルイデスをより正確に精通したい者は、習得するためにブリタンニアへ渡る[54]。」

鉱物・経済的資源

カエサルはブリタンニアの経済資源を調べるだけでなく、貢物や交易貿易の豊富な源泉として、説明しようとした。

「家畜の数は多い。彼らは真鍮または鉄製の貨幣を使い、それらの貨幣は確かな重さで測定した。内陸地区で、沿海地区でが産出されるが、鉄の産出量は少ない。そして、ブリタンニア人は輸入した真鍮を使う。ガリアでのように、ブナモミ以外の全ての種類の材木がある[46]。」

「内陸地区」に関しての記述は、私たちが見る限りは正確では無い(錫の製造と貿易は実際にブリタンニア南西地方(現在のコーンウォールデヴォン)で行われており、ピュテアスや他の貿易商も描いていた。また、鉄も一定程度の産出量を有し、(真鍮の原料となる)も産出された[55])。

しかしながら、カエサルは現在のエセックス地方へ侵入しただけで、その間は交易の報告を受け取っていた。内部からの交易を把握するのは容易であったであろう。


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  6. ^ Sheppard Frere, Britannia: a History of Roman Britain, third edition, 1987, pp. 6-9
  7. ^ カエサル「ガリア戦記」 2.45.12
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  27. ^ キケロ「友人への手紙」 7.7; 「アッティクスへの手紙」 4.17
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