ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年) 紀元前55年(第一次のブリタンニア侵攻)

ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/28 04:50 UTC 版)

紀元前55年(第一次のブリタンニア侵攻)

計画と偵察

前58年よりガリア・トランサルピナイリュリクムなどの属州総督に就任したユリウス・カエサルは同年よりガリア戦争を開始し、ガリア征服を進めていたが、ローマと敵対するベルガエ人(ガリア人の一派)が、ブリタンニアにあるベルガエ人の入植地[9]へ逃亡したことを見逃し、また、ガリア人たちの戦闘をブリタンニア人たちが支援していた。実際にブリタンニアとの海上貿易を統制していたアルモリカウェネティ族は、前56年にカエサル軍との戦闘に際して、ブリタンニアの同盟者から支援を受けていた[10]、とカエサルは抗議した。

ストラボンは、前56年のウェネティ族の反乱(モルビアン湾の海戦)はカエサルをブリタンニアへ渡航させることや、ウェネティ族の商業活動を中断させること、既に考えられていたブリタンニアへ干渉させることなどを防ぐために発生した、と記述している[11]

第1次のブリタンニア侵攻は晩夏であり、戦闘を行う時期としては遅かったが、カエサルはブリタンニアへの遠征を決定した。

カエサルはブリタンニアと交易をする商人を呼んでブリタンニアの居住民や軍事的な戦術について尋ねたが、おそらくは商人たちが独占的に有する海上貿易のチャネルを失うのを望まなかったこともあって、有用な情報は全く得られなかった[12]

カエサルは、海岸を偵察させるためにトリブヌスのガイウス・ウォルセヌス(en)を乗せた軍船1隻をブリタンニアへと送り出した。

ウォルセヌスは、おそらくハイス(Hythe)とサンドウィッチ(Sandwich)の間のカンティウムの海岸を観察したが、「船から降りて、原住民へ自身の身柄を預ける危険を冒すつもりはなかった」[13]ため、上陸は出来なかった。5日後に帰還して、ウォルセヌスは得た情報をカエサルに伝えた。

その時までに、商人からローマによる侵略が迫っていると警告されたブリタンニアの幾つかの部族が、自らの服従を約束するための使者を送り、カエサルの許へ到着した。カエサルは、出来る限り多くの部族を彼らの影響下に引き入れるよう、ガリア人系アトレバテス族の王で同盟者のコンミウスに指示し、コンミウスをローマ側の使者として、ブリタンニアの使者たちと一緒にブリタンニアへ送った。

カエサルは、2個軍団(第7軍団第10軍団)を運ぶことが十分に出来る80隻の輸送船を集め、モリニ族(en)の領内の港(名前ははっきりとしないが、恐らくはイティウス港(Portus Itius)と考えられる)へもクァエストル(財務官)の元に数ははっきりしないが軍船が集まり、他にも18隻の貨物船が違う港(恐らくはAmbleteuse)から出航する予定であった[14]

これらの船は三段櫂船ガレー船か、先だってカエサルがウェネティ族の設計図から採用した船舶か、もしくはウェネティ族や他の沿岸部族から奪取した船であったかもしれなかい。

急いで、カエサル自身は港にあった駐屯地より離れ、軍団兵と一緒に8月23日の「第三の時間」(真夜中頃)[15]に出航し、騎兵部隊を乗せた輸送船が出来る限り速やかに、先行船団に合流しようと後を追った。なお、カエサルはプブリウス・スルピキウス・ルフスに守備隊と共に港を維持するように命令した[16]

以降のこの年の出来事から判断すると、これが戦術的な失敗(手荷物も重武装も軍団兵が持参しなかったという事実[17])であったか、この遠征が完全な征服を意図していなかったか、どちらかであった。

ブリタンニアへの上陸

ホワイト・クリフ一帯の要図

カエサルは 適当な上陸場所としてウォルセヌスによって示されていた天然の地勢に恵まれた港湾(天然港)であるドゥブリス(現:ドーバー)への上陸を試した。

しかしながら、カエサルが海岸を見た時に、丘や崖の上(すなわち、ホワイトクリフ)にブリタンニア人の軍勢が、カエサルの上陸を阻止しようと、集結していた。その崖は、上陸をする誰に対しても「投槍が十分に届くほど、岸から至近」の地点であった[17]

9時まで錨をそこへ下ろした後(午後の3時、おそらく風と潮流の具合が都合よくなるまで待った)、軍議を召集して、カエサルは配下の兵士たちに自身で率先して実行するように指示し、錨を揚げて、開けた砂浜へ海岸沿いに約7マイル、船を漕ぎ出した。

上陸地点については考古学的にもはっきりとはしないが、ホワイト・クリフから海岸に沿って真っ直ぐの距離にあるウォルマー(en)も候補の一つである[18]

19世紀は「SPQR」と名付けられたディール城(en)の近くと考えられていたが、今日ではそこから半マイル程も南の地点であったと考えられ、上陸を記念した石碑も設置されている。

ブリタンニアの騎兵やチャリオット(戦車)は海岸に沿って全ての道を追跡し、ローマ軍の上陸へ対抗した。

悪いことに、ローマの軍船・輸送船は余りにも大きかったため、海岸へ近づくことが出来ず、分隊(船内の軍団から分けた)も水が深い沖合いへと下船して上陸せねばならず、浅瀬からのブリタンニア軍からの攻撃を受けた。

分隊は渋々であったが、カエサルの記すところによると、真っ先に飛び降りた第10軍団兵士のアクィリフェルによって導かれ、そのアクィリフェルは次のように叫んだ

「飛び込め、戦友たちよ、敵へアクィラen、鷲章)を奪われたくないのなら。私は己に課された義務の分は、共和国および将軍カエサルのために尽くすつもりだ[19]。」

ブリタンニア軍に対しては、ローマ軍船内に備え付けられたカタパルト弩砲による援護射撃を行いつつ、ローマ軍は上陸を果たし、ブリタンニア軍を追い払った。

但し、逆風のために遅れて出発していた騎兵部隊を乗せた輸送船がまだブリタンニアへ到着していなかったため、ブリタンニア軍を追跡できなかった。カエサルがガリア戦記などでよく記す「成功した」との文言はこの上陸の際には見当たらない[20]

なお、テオドール・モムゼンはこの時にローマ軍が積極的に攻勢に出なかったことを受けて「ブリタンニア軍はローマ軍がどれだけ弱いかを思い知ったのではないか」と記している[21]

ブリタンニア軍攻勢

第1次遠征時にカエサル軍が上陸したことを伝える記念碑(ディール英語版

ローマ軍の陣営が設立され(上陸地点が確定しないのと同様に、陣営地の場所も考古学的に発見されていない)、ブリタンニア側は、ローマ軍営地まで、解放したコンミウス(ブリタンニアへ到着するや否や逮捕されていた)と部族側の使節を送ってきた。

カエサルはブリタンニア人の指導者たちに対してローマ軍を攻撃してきたことを非難、自身の強い立場を利用して交渉に当たり、内陸部からもすぐに人質を持参し、軍隊を解散させるように要求した。カエサルがブリタンニアに到着してここまでたった4日であった[22]

また、同じ頃に後発の騎兵部隊を乗せた輸送船がブリタンニアのローマ軍営地からも捉えられ始めたが、それらの輸送船団が上陸地点から目に入った位置まで達した後、嵐によって船団はバラバラになり、ガリアまで戻っていった。干満の無い地中海育ちのカエサルにとってブリタンニアの潮流は驚きであった。

満潮になって、海岸に停泊させていた軍船は水に浸かり、錨を下ろしていた輸送船は互いに追い立てられた。数隻の船舶が難破し、他の多くの船舶も艤装や他の航海に必要な装備を失うことで航海の遂行能力を失い、ブリタンニアへの帰路に危惧を生じさせた[23]

これを察知したブリタンニア人たちは、交渉をご破算として、冬までブリタンニアにカエサルを釘付けにし、飢餓に追い込むことを望んだ。ブリタンニア軍は攻撃を再開し、ローマ軍陣営の近くで食糧を調達に回るローマ軍(この時は第7軍団)を待ち伏せて、ローマ軍は死傷者を出し、戦線崩壊の危機に陥ったが、カエサル自ら指揮を取った歩兵大隊(コホルス)が駆けつけて、窮地を脱した[24]

数日の嵐の後、ブリタンニア軍は更に大きな部隊でローマ軍の陣営を攻撃したが、コンミウスがローマに味方するブリタンニア人を集めた騎兵部隊も投入して、この攻撃は完全に阻止。逃亡するブリタンニア軍兵士を多数討ち取って、更にローマは焦土作戦を実施した[25]

講和・帰還

この戦闘を受けて、ブリタンニア人は今一度使者を送った。カエサルは以前の交渉で示していた倍の人質を要求した。戦闘シーズンの終盤に出発し、冬至を迎えんとしており、敢えて冬を越すような危険を冒せず、戦線維持は困難とカエサルは判断した。

そして、難破船からの漂流物(船具や木材など)を利用して艦船を修理し、カエサルとローマ軍はガリアへの帰路についた。その内の2隻は本軍から離れて、下方(地図で言う下方、すなわち南方)へ到着した(本軍は無事に港へ到着した)。なお、南方へ漂着した2隻に乗っていた約300名のローマ兵をモリニ族(en)の軍が包囲・攻撃したが、カエサルが救援に送った騎兵部隊はモリニ族を撃破して、多数を殺戮した[26]

ブリタンニア側は、カエサルに恐れを抱いた僅か2つの部族だけが人質を実際に送ったに過ぎなかった(残りの部族は全くカエサルの要求を無視した)。

第1次遠征を終えて

結局、1度目のブリタンニア遠征は成功とは行かなかった。もし、侵略や進駐を目的とした大規模作戦として意図していたなら失敗であり、ガリアに対するブリタンニアからの支援を遮断するための武力による偵察や力を示すことだけが目的であったとしても、成果を挙げたとは言い難かった。モムゼンも、第1次の遠征については「一年で最も悪い時期(冬季)が来るまでにガリアへ戻れただけでも良かったと考えなければならない」と記している[21]

それにもかかわらず、カエサルの報告を受けた元老院は、ローマのためにブリタンニアへ遠征してこのような栄誉をもたらしたことにより、20日間のスッピリカティオ(en、感謝祭)を決議した。

ユリウス・カエサルが侵略の口実としたのは、「ほとんど全ての戦争で、ブリタンニアからガリア人に対して支援を行っていた」というものであった。ブリタンニアの鉱物資源と経済的な潜在能力を調査するという目的を覆い隠すものとしてはもっともらしい。

なお、後にマルクス・トゥッリウス・キケロは「ブリタンニアには金も銀も無く、失望した」[27]ガイウス・スエトニウス・トランクィッルスは「カエサルは真珠を探すためにブリタンニアへ遠征した」[28]とそれぞれ記している。


  1. ^ カエサル「ガリア戦記4.20-4.355.15.8-5.23
  2. ^ カッシウス・ディオ Historia Romana 39.50-53, 40.1-3
  3. ^ フロルス Epitome of Roman History 1.45
  4. ^ a b c プルタルコス「英雄伝」カエサル 23.2
  5. ^ 例えば、カエサルの時代の少し後に書かれた ストラボン地理誌2:4.1ポリュビオス「歴史」34.5(なお、ポリュビオス自身が進めていた大西洋岸までの領土拡張を賛美する狙いもあって、ピュテアスの説を否定したかもしれない、とBarry Cunliffeは「The Extraordinary Voyage of Pytheas the Greek」の中で述べている
  6. ^ Sheppard Frere, Britannia: a History of Roman Britain, third edition, 1987, pp. 6-9
  7. ^ カエサル「ガリア戦記」 2.45.12
  8. ^ Frere, Britannia pp. 9-15
  9. ^ カエサル「ガリア戦記」 2.4-52.12
  10. ^ カエサル「ガリア戦記」 3.8-9
  11. ^ ストラボン「地理誌」4:4.1
  12. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.20
  13. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.21
  14. ^ Frere, Britannia, p. 19
  15. ^ Science-Nature Doubt over date for Brit invasion”. BBC News (2008年7月1日). 2008年7月2日閲覧。 See also: Tide and time: Re-dating Caesar’s invasion of Britain”. Texas State University (2008年6月23日). 2008年7月2日閲覧。
  16. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.23
  17. ^ a b カエサル「ガリア戦記」 4.30
  18. ^ "Caesar's Landings", Athena Review 1,1
  19. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.25
  20. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.26
  21. ^ a b c モムゼン「ローマの歴史」第5章 p.98
  22. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.28
  23. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 25
  24. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.31-324.34
  25. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.35
  26. ^ カエサル「ガリア戦記」 4.37
  27. ^ キケロ「友人への手紙」 7.7; 「アッティクスへの手紙」 4.17
  28. ^ スエトニウス「皇帝伝」カエサル 47. 事実、後にカエサルはウェヌスの神殿でウェヌス像にブリタンニアで獲得した真珠で装飾した胸当てを奉納した(大プリニウス博物誌」 : IX.116)。そして、カキは後にブリタンニアからローマへ輸出された (プリニウス「博物誌」 IX.169) and Juvenal, Satire IV.141
  29. ^ キケロ他「友人への手紙」 7.6, 7.7, 7.8, 7.10, 7.17; 「弟クィントゥスへの手紙」 2.13, 2.15, 3.1; 「アッティクスへの手紙」4.15, 4.17, 4.18
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  48. ^ カエサル「ガリア戦記」 5.13
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  50. ^ カエサル「ガリア戦記」 5.14
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