リエカ 地勢・産業

リエカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 02:55 UTC 版)

地勢・産業

イストリア半島(イストラ半島)東側の付け根にある港湾都市。物流の拠点として重要な役割を占めるほか、工業も盛ん。イタリア、スロヴェニア国境に近く、約65キロ北西にはイタリアのトリエステが位置している。

歴史

時計塔
トルサット要塞

古代から中世

新石器時代の定住地跡がフィウメ周辺で見つかっており、この地で最古の定住地は丘の上にあったケルト系のタルサティカ(現在の市内のトルスト付近)、そして天然港の上に住んでいたのは船乗りを生業としていたイリュリア人の一部族、リブルニ族であった。フィウメは長い間、丘と海の2つに定住地が分かれるという特徴を保った。

アウグストゥス帝時代、ローマ帝国は現在のリェツィナ川右岸に、ムニキピウムとしてタルサティカを再建し、名をフルメン(Flumen)とした。プリニウスもタルサティカについて触れている。

5世紀以降、東ゴート王国東ローマ帝国ロンゴバルド王国アヴァール族フランク王国、そしてクロアチア人マジャル人と支配者は変わり、1466年以後はハプスブルク家の支配下に入った。アドリア海で最も強力な海洋国家・ヴェネツィア共和国は、1508年に短期間フィウメを支配したのを最後に、その後支配は及んでいないが、その後2度フィウメを掠奪した。

4世紀以後、フィウメは聖ヴィトゥスを守護聖人とした。ラテン語でテーラ・フルミニス・サンクティ・サンクティ・ウィティ(Terra Fluminis sancti Sancti Viti)、ドイツ語でザンクト・ファイト・アム・プフラウム(Sankt Veit am Pflaum)と呼ばれた。中世のクロアチア語名はリカ・スヴェトガ・ヴィダ(Rika svetoga Vida、聖ヴィトゥスの川)であった。

中世のフィウメは、周囲を城壁で囲まれた封建的な要塞であった。市中心部の高台には砦があった。どっしりとした城壁でどんな外敵からも守られていたが、敵は内部で暮らすフィウメ市民であった。

ハプスブルク家の支配

1900年のリエカ

1723年にフィウメに自由港が建設され、18世紀から19世紀までのフィウメは、1870年オーストリア=ハンガリー帝国ハンガリー王国へ移るまで、ハプスブルク領オーストリア、クロアチア、ハンガリーと宗主国が移り変わった。クロアチアはハンガリー王国を構成する自治地域であったが、その中にあってフィウメはクロアチアからも独立した自治都市であった。ハンガリー政府から任命された総督が直接フィウメを治め、フィウメはハンガリー王国唯一の国際港となった。オーストリアの国際港トリエステ、ハンガリーの海港フィウメとの間には競争があった。19世紀初頭、フィウメの経済的・文化的指導者は、貿易業者アンドリヤ・リュデヴィト・アダミッチであった。フィウメには規模の大きな海軍基地があった。19世紀半ばにはそこにオーストリア=ハンガリーの海軍兵学校が置かれ、士官の育成が行われた。

1872年から1896年までフィウメ市長を務めたジョヴァンニ・デ・キオッタは、最も権威ある地方の政治指導者だった。彼の指揮のもと、都市拡張の印象的な過程が始まり、主要港としての開発が始まり、オーストリア=ハンガリー鉄道網とフィウメの接続、国際貿易の拡張が行われた。ハンガリーの王立海運会社アドリア、リェツィナ谷にある製紙工場といった現代産業及び商業会社は、フィウメのトレードマークとなった。

1866年、スタビリメント・テクニコ・フィウマーノ(オーストリア=ハンガリー海軍にエンジンを供給していた会社)のマネージャー、ロバート・ホワイトヘッドは、世界初の魚雷実験を行った。1880年にわずか21,000人だった人口は、1910年には50,000人となった。多くの主要な公共建築はこの時代に建てられた。アラヨス・ハウスマンの建てた総督宮殿もその1つである。のちのニューヨーク市長フィオレーロ・ラ・グアルディア20世紀初頭にアメリカ領事館員としてフィウメで暮らし、地元のサッカークラブでプレーしていた。

イタリア・ユーゴ間の対立と自由都市フィウメ

フィウメ自由市の旗

第一次世界大戦後のオーストリア=ハンガリー帝国の終焉は、クロアチア人上流階級と、フィウメの行政を握るイタリア人との対立を招いた。イタリア、そしてセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(のちのユーゴスラビア王国)の建国者はどちらも、住民の民族構成に基づく民族統一主義を主張し、宗主権を要求した。

短期間のセルビア軍による占領後、イタリア、フランス、イギリスアメリカ合衆国の連合軍が1918年11月にフィウメを占領した。一方で1919年パリ講和会議の場でフィウメの将来が議論されていた。

イタリアは、市全体の人口の88%をイタリア人が占めているという事実を根拠に領有を主張した。クロアチア人はフィウメ人口の残りを占め、近隣の町スシャクを含む郊外で人口が優勢であった。1919年9月10日サン=ジェルマン条約でオーストリア=ハンガリー帝国の解体が宣言された。フィウメの帰属についての交渉は、イタリアの詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオ率いるイタリアの国粋主義民族統一軍勢力が、武力でフィウメを管理下に置いた2日後に中断された。ダンヌンツィオはすぐ、フィウメにカルナーロ=イタリア執政府を樹立させた。1920年6月の、イタリア本国でリベラルのジョヴァンニ・ジョリッティが首相に再任されると、ダンヌンツィオのクーデターに対する公式姿勢を強める意志を表していた。

11月12日、イタリアとユーゴスラビアはラパッロ条約を締結し、双方とも受理可能な政権のもとでフィウメは独立したフィウメ自由市であるとした。ダンヌンツィオの反応は派手で、異常な判断によるものであった。ダンヌンツィオはイタリアに対し宣戦布告し、イタリア王国空軍による空爆を招いた。その年の終わりに彼は降伏し、5日間の抵抗戦の後、イタリア軍が1921年1月にリエカを占領した。自治論者の率いる憲法制定議会選挙は、領土を巡る争いに終止符を打てなかった。短期間のイタリア愛国主義者による全権掌握は、イタリア王全権大使の介入で終わった。そして1922年3月の、地元ファシストの政権乗っ取りは短期間に終わり、3度目のイタリアの軍事侵攻を招いた。それから7ヶ月後、イタリア本土がファシスト政権下に入った。

辛辣な外交の時代は、1924年1月27日ローマ条約で、フィウメがイタリアへ返還され、スシャクがユーゴスラビアへ返還され、フィウメ港の共同管理を行うことで決着した。3月16日、公式にイタリアはフィウメを併合し、その後20年に及ぶイタリア人支配を続け、第二次世界大戦中のイタリア降伏後は20ヶ月間ドイツの軍事占領を受けた。大戦中には連合国側からの空襲でフィウメは被害を受けた。港湾地区は、退却するドイツ軍によって破壊された。ユーゴスラビア軍がフィウメに入ったのは、1945年5月3日であった。

大戦後

戦後、フィウメの運命は軍事力と外交力の組み合わせで解決された。当時、ユーゴスラビア軍は、ドイツ占領地に対する遠征の一環としてさらに西のトリエステへと進軍していた。1947年2月10日、イタリアと連合国側が締結したパリ条約イタリアとの平和条約)において、フィウメはクロアチア社会主義共和国領(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国)と公式に決まった。一度宗主国の交替が公式に決まると、進軍するユーゴスラビア軍の前に取り残された66,000人のイタリア語話者のうち58,000人が、生まれ故郷を捨て亡命した(彼らはエスーリ、亡命者と呼ばれた)。イタリア語話者への差別や迫害といった多くの出来事が、大戦末期にユーゴスラビアの民衆と兵士たちの手で行われた。平和の訪れた戦後の最初の1週間は、痛恨の記憶となっている。ファシスト、イタリア政権側の公務員、軍当局者、そして民間人ですら告発され、即決裁判と処刑が行われた。民族浄化を避けるため、大半のイタリア人たちはフィウメを放棄して去るよう強いられたのである。

1960年以降、リエカは再び経済成長を初め、ユーゴスラビア最大の港となった。産業の復興が進められ、物流、製紙、自動車とその部品、化学工業(石油精製)、繊維産業の施設が設けられた。リエカの都市圏は拡大し、住民は増加した。1970年には近郊のクルク島リエカ国際空港英語版が開港し、1973年にはリエカ大学が設置された。

1991年7月、ユーゴスラビア紛争が勃発し、リエカはクロアチア共和国の都市となった。ユーゴスラビア連邦時代末期から経済危機に陥っていたリエカは、戦争によって再び、ユーゴスラビア側からの攻撃を受けた。被害を受けたリエカは、数年に渡って国からの支援を受けなければならなかった。しかしその地理上の好ましい位置のため、国内外の情勢が落ち着くにつれてリエカは回復し、わずか数年でクロアチアの主要都市へ戻った。新生国家クロアチアの元で、ザグレブ=リエカ間の高速道建設など多様な公共工事が行われた。

ホンダ・シビックタイプRレクサス・ISなど、日本車のプロモーション撮影において度々同所が使用されている。

気候

リエカは地中海性気候であり、温暖な夏と、相対的に温暖で雨の多い冬を持つ。降雪はまれで、1年に3日程度である。1年のうち22日以上が気温30度またはそれ以上となるが、0℃を下回る日がない年もある。しばしばボーラが吹く。年間の日照時間は約1922時間である。最高は7月の約297時間で、最低は12月の97時間である。

リエカの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 20.0
(68)
21.4
(70.5)
24.0
(75.2)
27.3
(81.1)
33.7
(92.7)
36.7
(98.1)
40.0
(104)
38.1
(100.6)
34.8
(94.6)
28.8
(83.8)
25.5
(77.9)
20.4
(68.7)
40.0
(104)
平均最高気温 °C°F 8.7
(47.7)
9.5
(49.1)
12.4
(54.3)
16.1
(61)
20.9
(69.6)
24.6
(76.3)
27.7
(81.9)
27.6
(81.7)
23.6
(74.5)
18.6
(65.5)
13.4
(56.1)
10.0
(50)
17.76
(63.98)
日平均気温 °C°F 5.6
(42.1)
6.2
(43.2)
8.8
(47.8)
12.6
(54.7)
17.1
(62.8)
20.8
(69.4)
23.4
(74.1)
23.1
(73.6)
19.1
(66.4)
14.5
(58.1)
10.1
(50.2)
6.9
(44.4)
14.02
(57.23)
平均最低気温 °C°F 2.7
(36.9)
3.2
(37.8)
5.5
(41.9)
8.8
(47.8)
12.0
(53.6)
16.2
(61.2)
18.6
(65.5)
18.5
(65.3)
15.3
(59.5)
11.1
(52)
7.1
(44.8)
4.1
(39.4)
10.26
(50.47)
最低気温記録 °C°F −11.4
(11.5)
−12.8
(9)
−7.7
(18.1)
−0.2
(31.6)
2.1
(35.8)
7.4
(45.3)
10.4
(50.7)
9.1
(48.4)
4.8
(40.6)
0.6
(33.1)
−4.5
(23.9)
−8.9
(16)
−12.8
(9)
降水量 mm (inch) 134.9
(5.311)
114.3
(4.5)
104.0
(4.094)
110.7
(4.358)
102.4
(4.031)
110.8
(4.362)
82.0
(3.228)
100.2
(3.945)
165.3
(6.508)
175.7
(6.917)
183.4
(7.22)
154.2
(6.071)
1,537.9
(60.545)
平均降水日数 11 9 10 12 12 12 10 9 9 10 12 12 128
平均降雪日数 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 4
平均月間日照時間 108.9 124.5 149.9 176.3 235.4 252.3 298.4 274.6 204.2 163.9 102.8 96.9 2,188.1
出典1:World Meteorological Organisation (UN)[3]
出典2:National Meteorological and Hydrological Service (Croatia) [4]



  1. ^ http://www.dzs.hr/Hrv/censuses/census2011/htm/H11_Zup31_3735.html
  2. ^ 郡史郎池田廉 編『ポケットプログレッシブ伊和・和伊辞典』(初版)小学館、2001年5月1日、267頁。ISBN 4-09-506121-9 
  3. ^ World Weather Information Service – Rijeka”. United Nations. 2011年1月21日閲覧。
  4. ^ Monthly Climate Values”. Croatian Meteorological and Hydrological Service. 2012年8月18日閲覧。


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