ヤングスタウン (オハイオ州)
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歴史
初期
1796年、ニューヨーク州ユーティカ近郊、ホワイツタウン出身の開拓者ジョン・ヤングはこの地を測量し、その後間もなく入植地を創設した[7]。翌1797年2月9日には、ヤングは西部保留地会社から約63km²のタウンシップを16,085ドル(当時)で購入した[8]。ヤングは購入したタウンシップ内を流れているミル・クリークに、この地域で最初の製材所と製粉所を建設した[1]。1802年8月19日には、ヤングスタウンは1797年創設であると公式に記録された[9]。
今日のヤングスタウンがある地は、コネチカット州からの入植者のために確保されていたコネチカット西部保留地の一部であった[10]。コネチカット西部保留地の首都はクリーブランドに置かれていた[11]。この地域への初期の入植者の多くはコネチカット州からの移入者であったが、ヤングスタウンには東隣のペンシルベニア州からも少なくない数のスコットランド系・アイルランド系の移民が移入してきた[12]。この地域への最初のヨーロッパ系定住移民はピッツバーグ出身のジェームズ・ヒルマンとその妻キャサリン・ダファーティであった[13]。1798年頃には、ヤングスタウン地域内のミル・クリークとマホニング川の合流点近くに数家族が集まって住んでいた[10]。
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西部保留地の人口が増えるにつれて、行政区分の必要性が明らかになっていった。1800年、西部保留地の知事アーサー・セントクレアは、初代コネチカット州知事ジョナサン・トランブルの名を冠したトランブル郡を創設し、その郡庁をウォーレンに置いた[14]。1813年には、トランブル郡がタウンシップに分割され、そのうちの1つとして後にマホニング郡の一部となるヤングスタウン・タウンシップが創設された[15]。ヤングスタウンは1848年に正式な村となり、1867年には市に昇格した。1876年には、マホニング郡の郡庁が近郊のカンフィールドからヤングスタウンに移された[16]。
1800年代前半にこの地域で発見された石炭資源は、後にオハイオ・アンド・エリー運河に通ずる交通路の確立へとつながった。1835年にはペンシルベニア・アンド・オハイオ運河会社が創設され、1840年にはペンシルベニア州ニューカッスルからマホニング・バレーを通り、アクロンでオハイオ・アンド・エリー運河に合流するペンシルベニア・アンド・オハイオ運河が完成した[17]。後の南北戦争時にオハイオ州知事に就任した地元実業家デイヴィッド・トッドは、エリー湖を通る蒸気船の船主に対し、「もしもクリーブランドとヤングスタウンを結ぶ運河があれば、船の燃料となるマホニング・バレー産の石炭を補給できる」と説得した。1856年にはヤングスタウンに鉄道が開通し、その後の経済発展を促す基盤が確立された[18]。
産業史
鉄鋼業の成長と隆盛
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木炭の原料として必要となる硬木の森林資源のみならず、石炭や鉄鉱石の埋蔵量も豊富であったヤングスタウンは、やがて鉄鋼生産の中心地として栄えていった。1803年、ジェームズ・ヒートンとダニエル・ヒートンは市の東側にこの地域の最初の溶鉱炉を建設した[19]。また、1846年に創設されたヤングスタウン・ローリング・ミル・カンパニーなど、石炭を燃料として用いた工場も建設された[20]。19世紀中盤頃には、ヤングスタウンにはデイヴィッド・トッドが創設したブライアー・ヒル・アイアン・アンド・コール・カンパニーをはじめ、いくつかの製鉄所が存在していた[21]。1890年代にはこの地域の天然資源は枯渇したが、その頃には既に鉄道交通の発達によって石炭や鉄鉱石が周辺諸州から継続的に供給されるようになっていたため、ヤングスタウンにおける鉄鋼業は成長し続けた[22]。
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20世紀に入ると、全米的に事業を展開する企業がマホニング・バレーに置かれていくようになった産業統合への動きの中で、地元実業家は鉄鋼業に参入していくようになった[23]。1901年には、ヤングスタウンにおける主要な製鉄会社であったナショナル・スチール・カンパニーがカーネギー・スチール・カンパニーやフェデラル・スチール・カンパニーと統合され、USスチールが設立された[23]。しかし、地元の投資家はその前年、1900年に既にこの地域における産業界の所有権を確立していた。地元実業家のジョージ・D・ウィックとジェームズ・A・キャンベルは、1900年にヤングスタウン・シート・アンド・チューブ・カンパニーを設立した[23]。ヤングスタウン・シート・アンド・チューブはやがて全米有数の製鉄会社へと成長していった[24]。1923年には、ヤングスタウン・シート・アンド・チューブはシカゴのサウス・シカゴ地区とインディアナ州イーストシカゴの2ヶ所の工場を獲得し、事業を大幅に拡大した。1931年には、ヤングスタウン・シート・アンド・チューブはベスレヘム・スチールと合併し、全米第2の製鉄会社になろうとした[25]。しかし、ベスレヘム・スチールの体質強化を恐れたリパブリック・スチールの創設者サイラス・S・イートンの金銭的支援によって[26]、他の地元実業家はこの動きを制止した[27][28]。
リトル・スチール・ストライキ
1937年、ヤングスタウンは「リトル・スチール・ストライキ」と呼ばれる、鉄鋼労働組合が中小鉄鋼会社における労使契約の合意事項を確保するために起こしたストライキの主舞台となった[29]。このストライキにはリパブリック・スチール、ベスレヘム・スチール、ヤングスタウン・シート・アンド・チューブ、ナショナル・スチール・コーポレーション(USスチールに統合されたナショナル・スチール・カンパニーとは別の会社)、インランド・スチール、アメリカン・ローリング・ミルズなどが参加した[29]。この労働組合の創設者の1人であったガス・ホールは、ヤングスタウンやウォーレンでこのストライキを主導した[29]。同年6月21日には、ストライキ関連の暴力沙汰で死者2名、負傷者42名を出した[29]。
ヤングスタウンのみならず、遠くシカゴにも及んだこうした暴力的なエピソードがあったにもかかわらず、リトル・スチール・ストライキはアメリカ合衆国における労働運動の歴史の転換点となった。歴史家ウィリアム・ローソンは、このストライキについて、「労働組合をそれまでの基本的に地方的で非効率な組織から、全てを取り巻く、全国的な集団交渉におけるアメリカ合衆国の労働者の代表へと変貌させたものであった」との見解を示している[29]。このストライキの記念碑は、ヤングスタウン産業・労働史センター(後述)の敷地内に立てられている[29][30]。
鉄鋼業の衰退と地域経済への打撃
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1920年代から1960年代にかけては、ヤングスタウン市内にはリパブリック・スチールやU.S.スチールなど大手の製鉄会社のものを含む数多くの溶鉱炉や鋳造所が建ち並び、市は重要な工業の中心地となっていた。しかし、シカゴ、ピッツバーグ、クリーブランド、アクロンなど、より規模の大きい工業都市とは異なり、その頃のヤングスタウンの産業構造は多角化することはなく、地域経済は鉄鋼業に大きく依存していた[24]。そのため、ヤングスタウンは1970年代の全米的な経済構造の変化についていくことができず、市内の工場は数多く閉鎖に追い込まれ、その穴を埋める産業がほとんどないままで取り残された。
1969年の、ニューオーリンズに本社を置く造船会社ライクス・コーポレーションによるヤングスタウン・シート・アンド・チューブの買収は、この地域における鉄鋼業が終焉へと向かう転換点となった[31]。この合併により、ヤングスタウン・シート・アンド・チューブは何十万ドルもの債務を負い、経営拠点もマホニング・バレーの外に置かれることになった[31]。1977年9月19日、ヤングスタウン・シート・アンド・チューブはこの地域における操業の大部分を停止し、77年の歴史に幕を閉じた。地元住民の間では「ブラック・マンデー」と呼ばれ、記憶に残ることとなったヤングスタウン・シート・アンド・チューブの閉鎖は、この地域における鉄鋼業の「死」の凶兆となった。これに続くように、1979年から1980年にかけてUSスチールがヤングスタウンから撤退し、1984年にはリパブリック・スチールが破産し[32]、LTV傘下のジョーンズ・アンド・ロックリン・スチールと合併してLTVスチールとなり、創業の地であるヤングスタウンを離れた。
地域の鉄鋼業再生への試みもなされたが、成功することはなかった。ヤングスタウン・シート・アンド・チューブが閉鎖された直後、地元の宗教指導者、鉄鋼労働者、運動家は、南東郊のキャンベルに残された同社の廃工場を買い取り、再生させる草の根プロジェクトに共同で参加した。しかし、そのプロジェクトは1979年4月に失敗に終わった[33]。
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鉄鋼業の衰退はヤングスタウン市内の商業にも影響を与えた。1900年代初頭から1970年代中盤にかけては、ヤングスタウンはマホニング・バレーにおける小売業の中心地であった。かつては、ダウンタウンにはヤングスタウン創業のストラウス・ハーシュバーグス(現在はメイシーズの一部)、およびマクケルビーズ(現在はディラーズの一部)という2つの代表的な百貨店があった。市の目抜き通りであるウェスト・フェデラル・ストリートには各種専門店が軒を連ねていた。また、ダウンタウンにはパレス・シアター、ワーナー・ブラザース・ファースト・シアター、ステート・シアター、パラマウント・シアターという4つの映画館もあった。しかし、これらの映画館は1950年代から1970年代にかけて、徐々に客足が遠のいていき、やがて閉館に追い込まれた。さらに、1970年代初頭に完成した、南郊のボードマンのサザン・パーク・モール、および北西郊のナイルズのイーストウッド・モールという2つの大型ショッピングモールの開店により、ダウンタウンに残っていた店舗は相次いで閉店や移転に追い込まれた。そこに追い討ちをかけたのが1970年代終わり頃の地元鉄鋼業の崩壊であった。1980年代から1990年代にかけて、市の商業を再生させようという試みもなされてきたが、全て失敗に終わった[34]。
製鉄会社の閉鎖・移転の余波により、この地域では約40,000人の製造業従事者が職を失い、約400社の関連企業が倒産・閉鎖に追い込まれ、個人所得の合計額は4億1400万ドル減少し、学校用の税収は33-75%減少した[35]。ヤングスタウンは今もなお、その傷跡から完全に立ち直ってはいない[36]。
ブルース・スプリングスティーンが1995年にリリースしたアルバム、「ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード」に収録されている「ヤングスタウン」というバラード曲では、ヤングスタウンにおける鉄鋼業の衰退と、地元労働者に降りかかった影響が歌われている[37]。スプリングスティーンはこのアルバムをリリースした直後に行ったコンサートツアー、「ゴースト・オブ・トム・ジョード・ツアー」の行程にヤングスタウンでの公演を入れた。スタンボーグ講堂(後述)で行われたこの公演は満席になった。
ポスト鉄鋼時代の地域経済
鉄鋼業隆盛の時代の面影はないものの、ヤングスタウンでは1970年代以降もなお細々と鉄鋼・金属産業が続けられている。その一方で、都市圏内に立地している自動車工場の存在によって、1970年代の鉄鋼業の衰退による地域経済へのダメージは若干和らいでいる。この地域における主要な自動車工場としては、1964年に北西郊のローズタウンに建てられたゼネラルモーターズのローズタウン工場が挙げられる。創設以来、鉄鋼業に代わってヤングスタウン・ウォーレン地域の経済と雇用を支えてきたこの工場では、シボレー・インパラ、ベガ、キャバリエ、コバルトが生産されてきた[38]。また、1980年代後期には、アヴァンティがヤングスタウン市内のアルバート・ストリートに立地していた工場で生産されていた。しかし、アヴァンティを生産していた会社はこの地に長く留まることはなく、わずか数年で他地域へ移転した[39]。
また、2000年代に入って、ヤングスタウンのダウンタウンでは新しい産業が生まれてきている。ダウンタウンの中心に立地するインキュベーター、ヤングスタウン・ビジネス・インキュベーターは、技術系ベンチャー企業にオフィス、備品、ユーティリティを提供し、起業を支援してきた[40]。このインキュベーターの支援を受けた企業の中には、既に認知度を得て、現在のスペースでは追いつかないほどの成長を遂げている企業もある。こうした企業の例としては、2007年のインク・マガジンの調査で、全米のソフトウェア業界で1位、全米の全産業でも18位の成長率を記録したターニング・テクノロジーズが挙げられる[41]。こうした企業をダウンタウンに留めるべく、拡張スペースを確保するため、ヤングスタウン・ビジネス・インキュベーターはダウンタウンに建ち並ぶ空きビルを取り壊すことに合意している。2006年には、このプロジェクトに対し、国から200万ドルの補助金が出た[40]。
3D印刷技術の先端都市へ
そんな中で、2012年には国家主導の3D印刷による新世代ソフトウェアの研究開発施設、National Additive Manufacturing Innovation Institute(NAMII)の拠点として選ばれたことで、大きく全米の注目を浴びている。これはヤングスタウン州立大学などと連携し優れた技術者を育成、将来的に同市を3D印刷による新世代ソフトウェア開発技術の一大拠点として発展させるとともに、衰退著しかった同市の再生も睨んでいる(これは、衰退都市再生のモデル事業としての意味も持っているため)。この事業は既に始まっており、同市近郊の出身であったシーメンスCEOが研究開発の資金として、ヤングスタウン州立大学に約400万ドルを寄附するなど官民一体となった動きが盛んである。また、廃墟同然であった工業団地の一帯がソフトウェア、素材工場として稼働、新たなベンチャー企業も生まれ、そして新たな雇用を生み出し、2014年には更に新たに15の施設が設けられるようになった。その結果、2008年には17%に上っていた全米屈指の失業率は2014年で7.2%まで減少しており、それに伴い貧困に端を発する犯罪率も大幅に減少している。また、物価、生活費の安さなどから、他地方から新たに移り住む人も見られるようになり、住宅リフォームも盛んに起こっており、古い市街地にも人口が戻ってきた。それまで5年間で平均5%以上の減少率を見せていた市域人口も2010年から2015年の人口減少率はかなり下がっており、下げ止まりの兆しも見せている。また、ラストベルトの象徴として、ドナルド・トランプの政策に対し高い期待を寄せていたことで、新政権発足時以降、突発的ながら市内で好景気が起こり、雇用機会も増大した。しかし、その一方で、労働力人口の低い就労意欲や後に発覚した高い薬物依存率が浮き彫りになっており、まだまだ問題も山積している。
再開発
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ヤングスタウンの都市概観には近現代的な建物はあまりなく、ある角度からは、ダウンタウンは1960年代以降あまり変わっていないように見える。しかし、ダウンタウンではある程度、新しい建物の建設が行われてきている。また、ダウンタウンでは構造的に危険性のある建物が取り壊される一方で、既存の建物の増築や修復も行われてきている[43]。不動産価格が安いことに加え、ヤングスタウン中央地域改良会社の努力によって、長い間放置されてきたダウンタウンのビルが数多く市外の投資家に買い取られ、修復され、各種専門店、レストラン、コンドミニアムなどに姿を変えている。
2004年には住宅都市開発省の補助によって、荒廃したウェストレイク・テラスという公共住宅を取り壊し、跡地にアーリントン・ハイツという高級住宅地の建設が始められた。この開発の結果、この地域は高齢者用住宅、賃貸タウンハウス、1家族用の分譲住宅が建ち並ぶ住宅街へと変貌した。2005年には、歩行者用の広場を造るために自動車の通行が止められていたダウンタウンの目抜き通り、フェデラル・ストリートが車道に戻された。2006年には、ウィック・ネイバーズという非営利団体によって、ヤングスタウン州立大学の東に隣接するスモーキー・ホロウ地区の再生が始められた。2億5000万ドルの予算を見積もっているこのニューアーバニズム的な再開発計画では、最終的には住宅400棟、学生用住居、小売店用店舗スペース、およびセントラル・パークという公園が建設される予定になっている[44]。
ヤングスタウン2010
市政府は市民やヤングスタウン州立大学と協同で、「ヤングスタウン2010」という都市再生計画を打ち出している。ヤングスタウン2010の目標としては、「よりコンパクトな、より緑の多い、より清潔な、既存の資源を効率的に用い、文化施設やビジネス上の優位性に投資する」市を創ることが掲げられている[3]。2005年1月には、公聴会を重ねて市民の声を反映させた上で創られたマスタープランが発表された。全米から注目を集めているこの再生計画は、他の都市圏が都市中心部の人口減少に対して講じている策とも一致している[45]。
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