ポール・ガスコイン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/11 10:23 UTC 版)
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ガスコイン(2006年4月) | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
ポール・ジョン・ガスコイン Paul John Gascoigne | |||||
愛称 | ガッザ | |||||
ラテン文字 | Paul Gascoigne | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イングランド | |||||
生年月日 | 1967年5月27日(56歳) | |||||
出身地 | ゲイツヘッド | |||||
身長 | 178cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1980-1985 | ニューカッスル・ユナイテッド | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1985-1988 | ニューカッスル・ユナイテッド | 92 | (21) | |||
1988-1992 | トッテナム・ホットスパー | 92 | (19) | |||
1992-1995 | ラツィオ | 43 | (6) | |||
1995-1998 | レンジャーズ | 74 | (30) | |||
1998-2000 | ミドルズブラ | 41 | (4) | |||
2000-2002 | エヴァートン | 32 | (1) | |||
2002 | バーンリー | 6 | (0) | |||
2003 | 甘粛天馬 | 4 | (2) | |||
2004 | ボストン・ユナイテッド | 4 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
1987-1988 | イングランド U-21 | 13 | (5) | |||
1989 | イングランド B | 4 | (1) | |||
1988-1998 | イングランド[1] | 57 | (10) | |||
監督歴 | ||||||
2005 | ケタリング・タウン | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
太目の体型ながら高いドリブルテクニックとパスセンス[3][4][5]の持ち主であり、愛嬌のあるキャラクターで1990年代にはイギリスの国民的英雄と呼ばれ人気を集めた[6]。しかし、その一方で公序良俗に反するような言動、飲酒癖やうつ病にまつわるトラブルを頻繁に引き起こすことでも知られ[7][8]、引退後もしばしばメディアを賑わしている[9]。
生い立ち
タインアンドウィア州ゲイツヘッドで煉瓦職人の父と母の間に長男として生まれた。ガスコインという姓はフランス[10]南部のガスコーニュ地方に由来し、本名の「ポール・ジョン」とは母親がビートルズのファンであり、ポール・マッカートニーとジョン・レノンの名前に因んで名づけられた[11]。幼少の頃からサッカーに親しみ地元のサッカークラブであるニューカッスル・ユナイテッドFCのサポーターであると共に、オランダのヨハン・クライフやブラジルのペレのファンだった[12]。
ゲイツヘッド・ボーイズに在籍していた12歳の頃からサッカークラブのスカウトの関心を集め、イプスウィッチ・タウン、ミドルズブラ、サウサンプトンのテストを受けたがいずれも不合格に終わり[13]、1980年にニューカッスル・ユナイテッドの学生会員となった[13]。毎週火曜日の練習に参加しながら学校に通う日々を送っていたが、1982年8月、当時のイングランド代表のスター選手であるケビン・キーガンがクラブに入団した際には、キーガンの雑用係を務めていた[14]。
1983年5月、16歳の誕生日に週給25ポンドの2年契約でニューカッスルと練習生契約を結んだ[2]。ユースチームでは直ぐに頭角を現しチームの成績も好調だったが、この当時から太目の体型だった。指導者からは体重の事や私生活のトラブルの事でたびたび叱責を受けており、そのストレス発散のために過食を繰り返していた[15]が、正規の練習の後に減量のためのランニングを課せられていた[15]。
クラブ経歴
ニューカッスル
1984年6月、トップチームの監督にジャック・チャールトンが就任すると、更なる減量と食事制限を課し[16]、ユースチームの主将に任命された[16]。同時期にリザーブチームに昇格を果たすと、1985年3月からはトップチームの遠征に帯同するようになり、同年4月13日のクイーンズパーク・レンジャーズ戦で途中交代からリーグデビューを果たした[17]。一方で、ユースチームの主将として挑んだFAユースカップでは準決勝でバーミンガム・シティを下して決勝戦に駒を進め、決勝ではワトフォードを4-1で下し、1962年大会以来となる23年ぶり2回目の優勝に導いた[17]。この優勝の後にトップチームと週給120ポンドでプロ契約を結んだ[17]。
ニューカッスルではクリス・ワドルらとチームメイトとなり、デビューとなった1984-85シーズンは2試合の出場に終わったが、翌1985-86シーズンになると出場機会が増え、3年目の1986-87シーズンレギュラーに定着し24試合で5得点を挙げた。これらの活躍により、それまで代表レベルでの経験のなかったガスコインは21歳以下のイングランド代表に招集される事になった[18]。リーグ戦での活躍から「小さな宝石」や「期待の新星」として注目を集める[19]一方で、次第にクラブから移籍をしたいという気持ちが高まっていった[19]。ガスコイン自身は第一志望としてリヴァプールFCへの移籍を希望していた[19]が、ブライアン・ロブソンの後継者を探してたアレックス・ファーガソンが監督を務めるマンチェスター・ユナイテッドFCからも交渉を持ちかけられていた[20]。ファーガソンから熱心な勧誘を受け移籍に気持ちが傾いた[21]が、テリー・ヴェナブルズが監督を務めるトッテナム・ホットスパーから勧誘を受けた際の、ヴェナブルズの「私の下で指導を受ければ確実にイングランド代表に選ばれるだろう」との言葉に触発されて[21]、トッテナムへ移籍する事が決まった[21]。
トッテナム
1988年夏にトッテナムへ移籍したが、移籍金の220万ポンドは、当時のイングランドのクラブが支払った最高金額だった[22]。ヴェナブルズの指導下で中心選手として活躍し、同年にはPFA年間最優秀若手選手賞を受賞した。1989-90シーズンのリーグ戦ではスペインのFCバルセロナからゲーリー・リネカーが加入するとリーグ戦では二人のコンビプレーもあって[23]チームを1988-89シーズンの6位から3位に押し上げた。
ヴェナブルズの言葉通りに1988年にイングランド代表に選ばれ、1990年のワールドカップ・イタリア大会ではベスト4進出の原動力となったが、この大会後にイギリス国内ではガスコインの人気が過熱し新たなスター選手として迎えられた(後述)[6]。1990-91シーズンにヘルニアの手術を受けたため[24]、1か月間は試合から遠ざかった[24]が、FAカップ準決勝のアーセナルFC戦ではフリーキックを直接決めて3-1の勝利に貢献[24]し、ウェンブリー・スタジアムでの決勝戦に駒を進めた。シーズンの最中からイタリアのラツィオがガスコインの獲得に関心を示しており[25]、FAカップ決勝がトッテナムでの最後の試合になると考えられていた[25]。しかし決勝のノッティンガム・フォレストFC戦において、前半17分に相手DFのゲイリー・チャールズに悪質なタックルを行った際[26]に、自らが右膝靭帯断裂の重傷を負った[26]。試合はガスコインを欠いたもののトッテナムが延長戦の末にノッティンガムを下しタイトルを獲得したが、ガスコイン自身は搬送された病院のテレビでこの模様を観戦[26]しており、治療とリハビリのために1年4か月試合から遠ざかることになった[7]。この負傷に関して対戦相手のノッティンガムの選手だったスチュアート・ピアースは次のように評している。
彼はただ一人の力で試合の流れを変えてしまう、我々にとって悩ましい選手だった。しかしあの試合のタックルは彼のサッカー人生に重大な影響を及ぼしてしまい、二度と以前のプレーを取り戻すことは出来なかった[27]。 — スチュアート・ピアース
ラツィオ
1992年5月、550万ポンドの金額でセリエAのラツィオへ移籍[9]。同年9月22日のジェノアCFC戦でリーグ戦デビューを果たすと22試合に出場し4得点を記録[28]。チームはリーグ戦で5位に入りUEFAカップ出場権獲得するなど結果を残したが、国際大会への出場はチームにとって16年ぶりの出来事だった[28]。しかし肥満問題などから次第に調子を落とすと[7]、1994年4月には練習中にアレッサンドロ・ネスタにタックルを仕掛けた際に右脚を骨折し[29]、1シーズンを棒に振ることになった[29]。
レンジャーズ
1995年7月、430万ポンドの金額でスコティッシュ・プレミアリーグのレンジャーズへ移籍[30]。ウォルター・スミス監督の下で1995-96シーズンのリーグとカップの二冠獲得に貢献。1996年にはスコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞とスコットランドPFA年間最優秀選手賞を同時受賞した。翌1996-97シーズンには、私生活でのトラブル(後述)や脚の負傷により調子を落とし、批判を受ける機会があった[31]が、シーズン中盤に調子を取り戻すとリーグ連覇とリーグカップの二冠獲得に貢献した[31]。
1997-98シーズンには妻との離婚問題[32]だけでなく、武装組織のIRAのメンバーを名乗る人物からの脅迫[33]、サポーターへの挑発行為に関する騒動[注 2]など、様々なトラブルに見舞われ、ストレスから逃れるために次第にアルコールに頼った生活を送る様になった[32]。また飲酒だけでなく、不眠症を解消するために睡眠薬に頼るようになったことを契機に薬物中毒[32]になったことが、プレーの面にも悪影響を及ぼすようになった[32]。ガスコイン自身はレンジャーズでの最初の2年間はサッカー人生において最高の時期だったが、最後の数カ月間は人生において最悪の時期だったと振り返っている[32]。
その後
1998年3月に345万ポンド[34]の金額でフットボールリーグ・ディビジョン1(2部リーグに相当)のミドルズブラFCへ移籍。当時のミドルズブラの監督はイングランド代表でチームメイトだったブライアン・ロブソンが務めており、シーズン終盤での加入だったが7試合に出場しチームのプレミアリーグ昇格と、フットボールリーグカップ準優勝に貢献した[35]。しかし、代表チームではワールドカップの直前にメンバーから落選(後述)し、同年秋にはアルコール依存とうつ病の問題により自殺未遂を引き起こし[36]、精神病院に1か月間入院[36]するなど、依然として問題を抱えていた。
2000年3月に、エバートンFCへ移籍。レンジャーズ時代の監督だったスミスの下で再びプレーすることになったが、私生活でもアルコール依存に絡んだ問題をしばしば起こし[8]、ヘルニアが再発するなど負傷を抱えたこともあってプレーに精彩を欠いていた。シーズン途中にスミスが退任したことでガスコインもチームを退団し、フットボールリーグ・ディビジョン1のバーンリーFCへ移籍し6試合に出場した。
2003年1月、中華人民共和国の甘粛天馬に移籍し4試合で2得点を挙げたが、同国でSARSウイルスが流行したことによりリーグ戦が中止されたことを受けてそのままチームを退団し[37]、アメリカ合衆国に渡って治療とカウンセリングを受けた[37]。2004年にフットボールリーグ2(4部リーグに相当)のボストン・ユナイテッドFCに移籍し選手兼コーチとしてリーグ戦4試合に出場したが3ヵ月後に退団し、このまま現役を引退した。
注釈
- ^ 元々は「ガッサ」と呼ばれていた[2]が、ニューカッスル・ユナイテッドの練習生時代にガスコインを指導していたコリン・スゲットの出身地であるサンダーランド訛りにより、「ガッザ」と呼ばれるようになった[2]。
- ^ 1998年1月2日に行われたセルティックFCとのダービーマッチにおいて得点を決めた後にセルティックのサポーターに対し、フルートを吹くパフォーマンスを行って挑発したことが、カトリック教徒への侮辱として問題視され、2万ポンドの罰金を科せられた[33]。
- ^ サッカー選手では1998年にマイケル・オーウェン、2001年にデビッド・ベッカム、2009年にライアン・ギグスが受賞した[44]。
出典
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