フランツ・カフカ
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評価と影響
生前の評価
カフカの生前の名声はささやかなものではあったが、(主に同業者等の)少数の読者に注目されており、決して無名の作家だった訳ではない[110]。カフカについての公刊された最も早い評は友人マックス・ブロートによるもので、1907年2月にベルリンの雑誌『現代』にて、著作家・編集者フランツ・ブライと同じ傾向を持つ作家としてハインリヒ・マン、フランク・ヴェーデキント、グスタフ・マイリンクと共にカフカの名を挙げた。この時カフカは知人の前で作品を朗読していたのみで、まだ出版物には1作も発表していなかった[111]。
1912年に最初の著作『観察』が出版された時には、ロベルト・ムジールがベルリンの雑誌『ノイエ・ルントシャウ』(新展望)に好意的な書評を載せた。この雑誌の編集に携わっていたムジールはカフカに原稿の依頼を行なったが、カフカは丁度よい長さの作品が用意出来ず断っている。『観察』は6誌以上の文芸誌で好意的な評を受けており、これらは本の売り上げには貢献しなかったものの、批評界から注目されるきっかけを作った。1913年に『火夫』が出版された際には直ちに反応があり、シオニズム系の雑誌『自衛』や『プラハ日報』、ウィーンの『新自由新聞』に書評が掲載された[112]。1915年には『変身』が出版されたが、この年にフォンターネ賞を受賞したカール・シュテルンハイムは、『観察』『火夫』『変身』等の作品を認めて、この賞金をカフカに譲り、彼と個人的な面識を持っていなかったカフカを酷く驚かせた[113]。
1916年11月、カフカはミュンヘンの書店で、未刊行だった「流刑地にて」の朗読会を行なった。朗読会自体は不成功に終わったが、この時ライナー・マリア・リルケが朗読を聞きに訪れており、後にカフカに賛辞を送っている[注釈 30]。リルケはカフカに対して持続的な関心を抱いており、1922年にクルト・ヴォルフに宛てた手紙の中では、カフカの書いたもの全てを自分の為に書き留めておいくれる様、頼んでいる[115]。リルケの『オルフォイスへのソネット』の中の一篇「裁くものたちよ、誇りを持て」は、「流刑地にて」からの影響の元に書かれたとも言われている[116]。
1920年にはクルト・トゥホルスキーが「ペーター・パンター」の筆名を使い、前年に刊行された『流刑地にて』の書評を『フォルクス・ビューネ』誌に載せて、「ささやかだが一つの傑作」と評した。この書評は後に『プラハ日報』に転載されている。1921年には当時人気のあった朗読家ルートヴィヒ・ハルトが、ゲーテやヨハン・ヘーベル等の古典作家と共にカフカをプログラムに取り入れ、ベルリン公演の際にはトゥホルスキーが評を書いた。この年11月にはブロートによるカフカ論も発表されている。この頃には幾つもの文芸誌からカフカに執筆依頼が来る様になっており、ブロックハウス (出版社)のドイツ文学辞典(当時)にもカフカの名が採録されていた[117]。
カフカの死に対して世間のほとんどの人間は無関心だったが、プラハ小劇場で行われた葬儀には500人の参列者が集まった[118]。
死後の名声
カフカの死後、友人マックス・ブロートが遺稿を整理し、『審判』(1925年)、『城』(1926年)、『アメリカ』(1927年)と未完の長編を続けて刊行していった。1926年には、カフカを認めていたドイツの批評家・編集者のヴィリー・ハースが雑誌『文学世界』でカフカの特集を組んでいる。1931年には未完の短編を集めて『万里の長城』が刊行され、1935年からはナチス政権下で困難に遭いながらカフカ全集の刊行が行われた。後述するようにブロートやハースはカフカをユダヤ教に引き付ける作品解釈を行い、1930年代までにいくつかのカフカ論を発表しているが、カフカの名声が高まっていくのはまずドイツ語圏の外においてであった[注釈 31]。
フランスでは1928年に、代表的な文芸誌『新フランス評論』にてA・ヴィアラットによる『変身』の仏訳が3号にわたって掲載され、続いて1930年にはピエール・クロソウスキーによる「判決」の仏訳が、1933年にはヴィアラットの訳による『審判』が出ている。これらの作品はまずシュルレアリストたちによって注目され、シュルレアリスムの指導者であるアンドレ・ブルトンをはじめ、マヤ・ゴート、マルセル・ルコントらがカフカに言及した。彼らのカフカへの理解はブロートやハースらによる宗教的解釈に沿ったものであったが、特にその夢と現実が入り混じったような表現に注目し、カフカをシュルレアリスムの先駆者と見なした。
第二次大戦中、フランスでは実存主義の文学が盛んになり、カフカはサルトル、カミュら実存主義の文学者たちから注目された。サルトルはカフカへのまとまった文章は残していないものの、カフカを実存主義文学の先駆者として評価し、書評やエッセイなどで頻繁にカフカに言及している。またサルトルはハイデッガーの思想における「現存在」「実存」「真正」といった範疇もカフカの作品を通じて立証しようとした。カミュは「フランツ・カフカの作品における希望と不条理」(『シーシュポスの神話』付録、1943年)において、カフカの作品を実存主義の文脈における「不条理な作品」と見なし、『審判』などの作品を評価した。これらの実存主義文学における評価によって、カフカの国際的な名声は決定的なものとなった。
イギリスでは1930年代、ウィラー・ミュア、エドウィン・ミュア夫妻によって『城』(1930年)、『万里の長城』(1933年)、『審判』(1937年)が英訳された。ミュア夫妻は『城』の前書きにおいて、ブロートによる宗教的な解釈に沿いつつ、カフカの作品を神学的なアレゴリー小説として規定し、バニヤンの『天路歴程』との比較をおこなっている。エリザベス・ボーエンやハーバート・リードらがこれらの訳書に対して行った書評も、ミュアのこの定式にほぼ即したものであった。1938年にはこの批評的な流れに沿ってイギリスの代表的な文芸誌『クライテリオン』『スクルーティニィ』でカフカの特集が組まれた。一方マルクス主義の影響を受けたW.H.オーデン、クリストファー・イシャーウッド、C.D.ルイスらのグループはミュアの解釈に反発し、カフカの作品中に認められるニヒリズムや絶望への傾向を批判しつつ、そのアレゴリー性や現代性を評価した。オーデンはアメリカへ移住後、1941年に『さまよえるユダヤ人』と題するカフカ論を書いており、この中ではダンテ、シェイクスピア、ゲーテがそれぞれの時代において果たした象徴的役割を、現代においてカフカが持つと主張した。
スペイン語圏ではアルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスが早くからカフカに注目しており、1938年に『変身』ほか数編の作品の翻訳を行っている。後述するようにボルヘスの翻訳はラテンアメリカ文学のブームに大きな意味を持った。このほかポーランドでは「ポーランドのカフカ」とも言われるブルーノ・シュルツが1936年に『審判』の翻訳を行っている。
後世への影響
1930年代から40年代にかけてカフカの国際的名声が高まると、各国の作家のなかにカフカの影響が現れるようになった。フランス、イギリスよりややカフカの受容が遅れたアメリカ合衆国では、主に1940年代以降、バーナード・マラマッドやJ・D・サリンジャー、ノーマン・メイラー、フィリップ・ロスらソール・ベローといったユダヤ系の作家にカフカの影響が現れている[119]。J.D.サリンジャーは1951年のインタビューで最も好きな作家としてカフカの名を挙げており、1959年の『シーモア―序章』にはモットーとして、キルケゴールとともにカフカの日記が引用されている。フィリップ・ロスはより後の世代であるが、『ポートノイの不満』(1969年)はカフカの「父への手紙」のアメリカ版とも言われており、カフカはロス自身のユダヤ的自省の中心点となった[120][注釈 32]。
フランスでは実存主義文学のあとヌーヴォー・ロマンが登場するが、その代表的作家であるアラン・ロブ=グリエはカフカの文体と世界観を見習うべき模範とした。ロブ=グリエはカフカを、世界の意味連関から切り離された事物のありようを書き留めるリアリズム作家だと解釈しており、このようなカフカへの解釈の影響はロブ=グリエ自身の小説にも如実に現れている[121]。また同じくヌーヴォー・ロマンの代表的作家であるナタリー・サロートは「ドストエフスキーからカフカへ」(『不信の時代』所収)の中で、19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパ文学の到達点の一つとしてカフカを捉えている。
1960年代以降、ラテンアメリカ文学が世界的なブームとなる中、マジック・リアリズムの旗手としてブームの中心にあったガブリエル・ガルシア=マルケスは、自身の作風を形作るきっかけをカフカから得ている。マルケスのマジック・リアリズムは彼の祖母に聞かされた民間伝承や戦争体験がその基盤となっているが、それを小説によって表現しようと思い立ったのは17歳の時、ボルヘス訳の『変身』を読んだことによってであった[122]。マルケスが初めて小説を書いたのは『変身』を読んだ翌朝であり、特に初期の短編はカフカの『変身』がその基盤となっている[123]。
このほかにも広い地域に渡り、カフカの影響を受けた多くの作家が現れている。主な作家としてはドイツのマルティン・ヴァルザー[1]やペーター・ヴァイス[注釈 33]、イギリスのアラスター・グレイ[注釈 34]、チェコのミラン・クンデラ[注釈 35]や ボフミル・フラバル[注釈 36]、アメリカのジョゼフ・ヘラー、日本の安部公房[注釈 37]、小島信夫[注釈 38]、倉橋由美子[注釈 39]、アルバニアのイスマイル・カダレ、南アフリカのJ.M.クッツェー[注釈 40]、メキシコのカルロス・フエンテス、イタリアのトンマーゾ・ランドルフィ[注釈 41]、ポルトガルのジョゼ・サラマーゴ、イスラエルのアハロン・アッペルフェルド[注釈 42]などがおり、またSF作家のアンナ・カヴァン[注釈 43]やフィリップ・K・ディックなどにもカフカの影響が及んでいる。これらの流れはより新しい世代の作家であるオースター[注釈 44]やゼーバルト[注釈 45]、村上春樹[注釈 46]、トゥーサン、残雪[注釈 47]などを経て、今も絶えることなく続いている。
文学以外の分野では、映画監督のデイヴィッド・リンチ[注釈 48]やラース・フォン・トリアー[注釈 49]、漫画家のアート・スピーゲルマン[注釈 50]らがカフカへの愛着やその影響を語っており、日本でも漫画家の西岡智(西岡兄妹)[注釈 51]にカフカからの影響が指摘されている。現代美術ではズビネック・セカール[注釈 52]、レベッカ・ホルン[注釈 53]、玉野大介[注釈 54]にカフカを題材にした一連の作品があり、また「オブジェ焼き」で知られる陶芸家八木一夫の作品にも『変身』をモチーフにした「ザムザ氏の散歩[144]」(1954年)がある。このほか「判決」の一節から題を取ったエサ=ペッカ・サロネンの楽曲『…一瞥して何も気付かず…』や、フランク・ザッパやイアン・カーティスが「流刑地にて」からインスピレーションを受けてそれぞれ曲を作っている例、ロックバンドの歌詞やバンド名にカフカの名やその作品からの引用が行われる例[注釈 55]など、音楽の分野にも影響を与えている。
現代では、カフカの作品を思わせるような不条理で非現実的な事柄に対して用いるカフカエスク(Kafkaesque、日本語では「カフカ風」「カフカ的」)という言葉が定着しており、文学の世界に限らず広く用いられている。
注釈
- ^ 以下「生涯」の節は、池内紀『カフカの生涯』および池内紀・若林恵『カフカ事典』巻末年譜(216頁-223頁)を元に作成し、これ以外に基づく部分のみ脚注で出典を示す形を取った。
- ^ カフカの生家は旧ゲットー地区の周縁部に位置している。カフカ一家はここに2年ほどしか住んでおらず、家業が成功するに従い転居を繰り返した[3]。
- ^ 「フランツ」がドイツ人の名であるのに対して、「カフカ(kafka)」はチェコの姓である。kafkaは、チェコ語でコクマルカラス(コガラス)を意味するkavkaに由来する。ここから、カフカの父ヘルマンの店の商標には、カラスの絵が用いられていた。1788年に、ヨーゼフ2世によってユダヤ人皆姓令が下された際、他の多くのユダヤ人が支配階級の言語に合わせてドイツ名を選ぶ中で、カフカの祖先はチェコ名である「カフカ」を選んだ。この姓を選んだ理由は定かではないが、ヤコブ(jakob)のイディッシュ語の短縮形ヤコブケ(jakovke)から来ている可能性もある[4]。
- ^ ヘルマンは1890年の国勢調査の際に、チェコ語を家庭内で用いる言語と回答している[7]。
- ^ この叔父は、1941年、ナチスにテレージエンシュタットの強制収容所に移送されることを拒み、自殺した[10]。
- ^ カフカの3人の妹はカフカの死後、いずれもナチスに捕らえられて殺害されている[12]。
- ^ カフカはこれより前に、市民のたしなみであったフランス語を家庭教師から習っているが、幼いカフカにはフランス語は身につかなかった。
- ^ しかしカフカは自由選択科目としてチェコ語も選択している[7]。
- ^ カフカの指導教官は、マックス・ヴェーバーの弟アルフレート・ヴェーバーであったが、彼とは儀礼的な関係しか持たなかったらしい[21]。
- ^ カフカの父ヘルマンはカフカとイディッシュ語劇団との交流を快く思っておらず、この事はカフカと父との溝を深める一因となった(#父との軋轢参照)。
- ^ 「アスカニッシャー・ホーフ」の「ホーフ(Hof)」には「ホテル」の他に「法廷」の意味がある。ここで行われたフェリーツェ達との会談では、グレーテがカフカの手紙を「証拠物件」として朗読する等、さながら法廷での審理の様相を呈していた[26]。
- ^ グレーテ・ブロッホはイタリアに亡命した後の1940年、イスラエルの音楽家ウォルフガング・ショッケンに宛てた手紙の中で、1914年にカフカの子供を生んだと記している。それによれば、生まれた息子は1921年に7歳で死んでおり、子供が生まれた事も死んだ事も父親には知らせなかったという。しかし、残された手紙や当時の状況等から見て事実とは考え難い[27]。
- ^ エルンスト・ヴァイスはこの頃カフカと最も親しくしていた人物で、カフカより1歳年長、外科医としての経歴をもつユダヤ人作家であった。彼は上述のアスカニッシャー・ホーフでの会談にも立ち会っている[28]。
- ^ 退職時秘書官主任となっていたカフカの俸給は年俸3万クローネンで、年金は1万2000クローネンであった。更に敗戦によるインフレーションが重なり、カフカの生活は非常に苦しくなった[31]。
- ^ 2人はベルリンで生活を始めた半年後、カール・ブッセ夫人の家の空き部屋に転居している。
- ^ カフカは勤めについてから手製の時間割を作り、かなり長い間これを守り通していた[38]。
- ^ 当時のフィルムは残されていないが、H.ツィシェラー『カフカ、映画に行く』の中で、当時カフカが見ていた映画が跡付けられている。
- ^ カフカの住居の変遷についてはヴァーゲンバッハ[2003]が詳しい。
- ^ カフカの就職の際の健康診断書によれば、身長182センチ、体重61キロだった[55]。
- ^ ハプスブルクの行政下では「都市ユダヤ人」「土地所有ユダヤ人」「村落ユダヤ人」という区分が成されていた。カフカと貧しい家庭のユーリエとの婚約は、父ヘルマンにとっては身分の下落以外の何ものでもなかった[57]。
- ^ カフカは、ここで幼少期の記憶の一つを綴っている。カフカは、ごく幼い頃、夜中に水が欲しいと駄々をこねて両親を困らせてしまい、怒った父に中庭に面したバルコニー(パヴラッチュ)に下着姿のまま締め出され、しばらく放って置かれた。この記憶は、その後数年間カフカを苦しめたという。この体験は「パヴラッチュ体験」と呼ばれ、研究者によって無数の論文が書かれている[58]。
- ^ カフカは13歳の時、ユダヤ教の習慣に従って「パル・ミツヴァ」と呼ばれる成人の儀式を行っているが、祖父の代にあった様な宗教性は既に失われていた[67]。前述の「父への手紙」には、父に対してユダヤ教についての知識の浅さを詰る箇所がある。
- ^ 生前のカフカの著書は表現主義の牙城であったクルト・ヴォルフ社から出版されていた為、初期受容期にはカフカも、しばしば表現主義の作家とみなされていた[75]。
- ^ カフカはフェリーツェ・バウアーとの婚約に悩んでいた頃、日記に「フローベールとグリルパルツァーを思い出す事」と記している。どちらも膨大な日記類を残し、また、その中で結婚と独身のそれぞれの利点について思案した作家であった[77]
- ^ クラウス・ヴァーゲンバッハらは、プラハのドイツ語は貧弱で生気のない、文章語的な言語であり、カフカは逆にそれを利用して独自の文体を作り上げたのだとしているが[81]、この見解はプラハの言語学者達によって実態に合わないとして批判されている[82]。リッチー・ロバートソンは、「プラハ・ドイツ語」とは100年前にドイツのナショナリストによって空想された方言であり、現実には存在しないとしている[83]。
- ^ カフカの草稿には「プラギスムス」と呼ばれる、チェコ語の用法から影響を受けたドイツ語が幾等かあり、例えば「ニ、三の」を意味するein paarを冠詞を付けずにpaarと記している箇所等がある。カフカは自作を出版する為に原稿を見直した時には、これらの用法はすべて正書法に直していた[85]。
- ^ 尚、クラウス・ヴァーゲンバッハは、これらのモチーフについて、カフカが大学時代に学んだ事のあるフランツ・ブレンターノの哲学からの影響を指摘しているが、エルンスト・パーヴェルは情報源の信頼性等の点から疑問視している[92]。また、これらのモチーフについては、カフカが大学時代に一時期熱心に学んだハンス・グロスの犯罪学からの影響を指摘する研究者もいる[93]。
- ^ 共に1000部印刷されたが、19年出版の『流刑地にて』は翌年6月までに607部売れたものの、『田舎医者』はかなり売れ残り、ショッケン社が残部を引き受け、1934年まで販売され続けた[102]。
- ^ カフカは生前、ブロートへの遺言を2度行なっている。1921年の最初の遺言ではブロートを遺稿管理人に定め、自分の原稿全てを焼却する様、指示していた。翌年の2度目の遺言では若干自己批判のトーンを和らげ、「判決」「火夫」『変身』「流刑地にて」「田舎医者」「断食芸人」のみを自身の作品として認め、それ以外のものは全て焼却する様にと頼んでいる[105]。
- ^ リルケは特に「火夫」を高く評価しており、『変身』も「流刑地にて」もまだ「火夫」の域に達していないと評していた。カフカは1916年12月7日にフェリーツェに宛てた手紙の中で、この事を記している[114]。
- ^ 以下この「死後の名声」の節は、特に注記のない限り城山三郎「カフカ論の系譜」(『カフカ』所収、107頁-203頁)および若林恵「カフカへの解釈」(『カフカ事典』、206頁-215頁)をもとに執筆している。
- ^ また、ある日目覚めると女性の巨大な乳房になっていた男を描くロスの小説『乳房になった男』(1972年)では、ゴーゴリの『鼻』などともにカフカの『変身』が言及されている。
- ^ ヴァイスの自伝的小説『消点』(1961年)では、20代の語り手がカフカの『審判』を読んで衝撃を受け「わたしがこれまでに読んだものはすべて、背景にしりぞいてしまった」と述べる場面がある[125]。のちの『抵抗の美学』(1975年-1981年)にも、登場人物である3人の労働者が『審判』を読んで、プロレタリアートである自分たちの状況を重ね合わせる場面が描かれている[126]。またヴァイスは1974年に『審判』の舞台用の翻案も行った。
- ^ アラスター・グレイは、その自伝的なリアリズムと超自然的な要素とを組み合わせた作風をカフカから得ている[127]。
- ^ クンデラはカフカの業績を重要視しており、『小説の精神』『裏切られた遺言』などの評論やエッセイで幾度もカフカに言及している。『小説の精神』収録のインタビューではカフカがプルースト、ジョイスとともに「三位一体」と見なされていることに対し、「私個人の小説史では、カフカこそが新しい方向を、プルースト後の方向を開いたのです」と述べている[128]。
- ^ フラバルの代表作『あまりにも騒がしい孤独』にはカフカ作品からの影響や共通点が指摘されている。この作品を補足するものとして作られたフラバルの「アダージョ・ラメントーソ」という詩はカフカの思い出に捧げられており、またフラバルには「カフカールナ(「カフカ的状況」を表すチェコ語)」と題する短編作品もある[129]。
- ^ 安部公房の1986年のインタビューにおいて「僕のなかでカフカの占める比重は、年々大きくなっていきます」「カフカはつねに僕をつまづきから救ってくれる水先案内人です」と語っている。もっとも安部がカフカを知ったのは作家になってからしばらく後のことで、その影響も直接的ではなく、初期の幻想的な作品はカフカよりもむしろポーやキャロルからの影響があるという[130]。
- ^ 小島はインタビューにおいて、自分は他者の作品から「小説的な気分」を受けて作品を執筆することがあり、世界文学ではその相手は決まってカフカとベケットだと語っている[131]。
- ^ 倉橋の特に初期の作品はカミュやサルトルと並んでカフカからの影響が見られる。初期の短編「婚約」末尾にはこの作品がカフカへのオマージュである旨が記されている[132]。
- ^ カフカはクッツェーが愛読する作家の一人であり、裁き・審判をテーマとする『恥辱』はカフカの『審判』とのつながりを感じさせる[133]。
- ^ ランドルフィの奇想にはしばしばリラダンやポー、ゴーゴリなどとともにカフカからの影響が指摘されている[134]。
- ^ アッペルフェルドはヘブライ大学在学中、マックス・ブロートやマルティン・ブーバー、ゲルショム・ショーレムなどからの教えを受けている。彼らの多くは生前のカフカと面識があり、アッペルフェルドはナチスからの迫害によって体感した「不合理な世界」をカフカの作品に見出し強い影響を受けた[135]。
- ^ カヴァンは30代後半になってからカフカを読み、その作品からアレゴリー的手法を学んだ。「ヘレン・ファガーソン」からをKを頭文字に持つ「アンナ・カヴァン」への改名は、『審判』の主人公ヨーゼフ・Kを意識したものである[136]。
- ^ オースターはインタビューで、興味のある現代作家の名を聞かれた際「散文作家では、無論カフカとベケットだ。二人とも私に対してものすごい呪縛力を持っていた」と述べている[137]。
- ^ ゼーバルトの短編「ドクターKのリーヴァ湯治旅」は、カフカの出張旅行を再現した作品であり、カフカの「狩人グラフス」『失踪者』などからの引用が縦横に行われている。
- ^ 村上は少年時代に『城』を読んで衝撃を受けて以来、カフカの作品を繰り返し読んでおり、ドストエフスキーと並んで影響を受けた作家であると述べている。2002年の『海辺のカフカ』もカフカへのオマージュとして書いたものだという[138]。
- ^ 残雪はカフカの作品に対する評論を継続的に執筆し、1999年にカフカ論集『カフカ 魂の城』を刊行している。日本語版の巻頭に収められているエッセイでは、30歳ごろにカフカの作品を読み始めたときのことを書き、「もしかしたら、その何の気なしの行動が文学全体に対する私の見方を変え、その後の長い文学探索の中で、文学への新たな信念を獲得させてくれたのかもしれない」と述べている[139]。
- ^ リンチは自作とカフカとの関係をインタビューで問われた際に愛読していることを語り、「兄弟になれそうな気がするアーティストの一人」だと述べている。リンチはカフカの『変身』の映画化も企画したことがあり、脚本までできているものの膨大な制作費用がかかり、元が取れそうにないため実現には至っていないという[140]。
- ^ トリアーはカフカの『失踪者(アメリカ)』を愛読しており、『ドッグヴィル』の舞台をアメリカに設定したのも『失踪者』を踏まえてのことだとしている[141]。
- ^ スピーゲルマンは若い頃からカフカを愛読しており、それが自分にとって重要なことだったと語っている[142]。
- ^ 作風にカフカからの影響が指摘されており、また『この世の終りへの旅』には『審判』や「掟の門前」を思わせる場面が登場する[143]。
- ^ ズビネック・セカール(Zbynek Sekal)は、チェコの彫刻家。門をモチーフにした一連の作品など、カフカから着想を得た作品群がある。また『変身』を初めてチェコ語に訳した。
- ^ レベッカ・ホルンは、ドイツの現代アーティスト。ハンブルクの絵画学校時代からカフカやジャン・ジュネの文学に関心を抱いており、1994年発表のオブジェ『カフカ連作』など、カフカが作品の主題としてたびたび現れている。
- ^ 玉野大介は、東京都出身の現代アーティスト。カフカを題材にした作品群を継続的に発表しており、2009年に「奇跡のカフカ」と題した個展を開催した。ブログでもカフカの肖像連作を掲載している。
- ^ 歌詞の引用の例としてはスマッシング・パンプキンズのアルバム『ZEITGEIST(ツァイトガイスト)』中の曲"Doomsday Clock"など。またスコットランドのポスト・パンクバンド ヨーゼフ・K(en:Josef K)はカフカの『審判』の主人公から名を取っている。
- ^ 以下この節は、特に注記のない限り城山三郎「カフカ論の系譜」(『カフカ』所収、107頁-203頁)および若林恵「カフカへの解釈」(『カフカ事典』、206頁-215頁)をもとに執筆している。解釈群の分類も概ね城山文献によった。
- ^ ただしルカーチはハンガリー事件での政治的経験を経てのちに見方を変え、カフカを極めて重要な作家であると見なすようになった[145]。
- ^ 日本で最初にカフカの作品を翻訳したのは、羽白幸雄である[149]。羽白は1933年(昭和8年)5月、短編集『田舎医者』から、「兄弟殺し」と「隣り村」をカスターニェンの第2号(京大独乙文学研究会)に掲載した。また、同年9月に、同人誌「日輪」創刊号に、短編「橋」、「小さな寓話」、「プロメートイス」、「夫婦」を掲載した。しかしこれらはいずれも研究会の会報、同人誌であったため、市民に広く紹介されることはなかった[149]。
出典
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- ^ 以下の作品リストは若林「カフカの作品I・II・III」 『カフカ事典』、102頁-187頁を元に作成した。
- ^ a b c d e これらの作品タイトルは池内紀『カフカ小説全集』に基づくもの。
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