フランツ・カフカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 10:22 UTC 版)
文学活動
素地
カフカは熱心な読書家であり、小説を執筆するにあたって、敬愛する多くの作家を手本としていた。その読書遍歴は幼年期の童話に始まり、それから児童文学の古典やアーサー・コナン・ドイル、ジュール・ベルヌといった冒険小説に続き、その範囲は絶えず広がっていった。17歳の時、既にニーチェを読んでいたが、その反面、40歳を過ぎてからも童話やボーイスカウトの雑誌等も好んで読んでいた[74]。同時代の文学もしっかり追いかけていたが、当時の表現主義文学[注釈 23]の攻撃的な表現は好まなかった。カフカが好んだのはチェーホフやトーマス・マンの短編小説、ロベルト・ヴァルザーの散文小品に見られる様な簡潔で控えめな表現であり、しかしその一方でディッケンズの長編作品等も楽しんで読んだ[76]。カフカは特にフローベールやドストエフスキー、クライストやグリルパルツァーといった作家が自分の文学的血族であると考えており、彼らの作品だけでなく、日記や書簡といったプライベートな書き物まで耽読し、彼らの生涯[注釈 24]と自分のそれとを重ね合わせていた[78]。
カフカは表面的には一介の保険局員として生涯を送ったが、早くからカフカの才能に注目していたマックス・ブロートに引き入れられてプラハの文壇での付き合いもあった。カフカと面識のあった作家にはフランツ・ヴェルフェル[79]、ヤロスラフ・ハシェク[80] 等がいる。
カフカが生涯を送ったプラハではドイツ語話者は少数派であり、彼らは多数派であるチェコ人達の間に混じって生活していた。その為プラハではドイツ語(プラハ・ドイツ語[注釈 25])は日常言語としては、あまり発展を遂げず、反って標準ドイツ語の純粋さが保たれていた[84]。カフカが日常使っていたドイツ語にはドイツ語圏南部の特徴やプラハ特有の言い回しも多少見られるが[注釈 26]、文学作品で使われているのは明瞭で正確な古典的ドイツ語である[86]。
作風・執筆歴
現存するカフカの草稿の中で最も古いものは「ある戦いの記録」と題されているもので、大学時代の1904年に着手され、1910年まで断続的に書き続けられたが最終的に放棄された。カフカは生前この作品から一部を抜き出し「祈る人との対話」「酔っ払いとの対話」として文芸誌『ヒュペーリオン』に掲載(1909年)、また、最初の作品集『観察』(1912年)にも、この作品から抜き出した短編「樹々」「衣服」「山へハイキング」「街道の子供たち」を収めている。「ある戦いの記録」の内容自体は、パーティから抜け出した語り手と、そこで知り合った人物とのやり取りから始まり、語り手の妄想とも現実ともつかない状況や会話が取り留めなく連ねられるというもので、文体等にホーフマンスタールの影響が認められる[87]。これと並んで古い草稿は1907年から1908年頃に成立した「田舎の婚礼準備」と題されているもので、いずれも中断しているA稿、B稿、C稿の三つの草稿から成る。この作品では田舎に住む婚約者に会いに行こうとする青年エドゥアルト・ラバンを視点人物として、プラハの都会をフローベールを範にしたといわれる微細な筆致によって描写している[88]。
最初に公表されたカフカの作品『観察』は、当初8編の作品を集めたものとして1908年に『ヒュペーリオン』誌に掲載され、後9編を加えて1912年に刊行された。収められている作品はいずれも散文詩風の小品である。当時の記者からは印象主義的スケッチという、ペーター・アルテンベルクやロベルト・ヴァルザー、ジュール・ラフォルグらが作り出した流行のジャンルに連なるものと考えられていたらしく、特に表現面ではヴァルザーに通じる所があった。『ヒューペリオン』の編集者フランツ・ブライは知人に宛てた手紙で「カフカとヴァルザーは同一人物ではない」と念押ししているほどである。カフカの研究者の間では、この『観察』や「ある戦いの記録」等を若書きの作品として斥ける傾向があったが、現在ではこれら青年時代の作品の特性を明らかにしようという本格的な取組みが行われている[89]。
カフカは1912年9月22日から23日にかけて、フェリーツェ・バウアーとの出会いに触発されて「判決」を一晩で書き上げ、この作品で「すべてを語ることができた」と後に述べるほど強い満足を覚えた[90]。この作品では罪、判決、訴訟といった、後期の作品に現れる法的なモチーフや[91][注釈 27]、日常的な情景が後半で一転して非現実的な展開を見せる、「夢の論理」や「夢の形式」とも言われるカフカ特有の作風が初めて顕著に現れている[94]。カフカはこの直後、前年に着手していた長編『失踪者』を初めから書き直し始め、更に10月から11月にかけてカフカの作品の中で最もよく知られている『変身』を書き上げている。「判決」は商人の主人公が父親によって、その罪をなじられ溺死の判決を受ける物語、『変身』は、ある朝、目覚めると虫になっていた主人公が、家族の厄介者になり衰弱していく物語、『失踪者』の第一章として書かれた「火夫」は、不祥事によって両親の手でアメリカに行かされる少年の物語であり、カフカはこの3編をまとめて『息子たち』のタイトルで刊行する事を考えていたが、出版社の判断により、これは実現しなかった。
カフカの三つの長編小説『失踪者』『審判』『城』はいずれも未完に終わっており生前には発表されていない。この内、最も早い時期に書かれた『失踪者』は「判決」の前後の1911年から1914年頃にかけて書かれた。前述のドイツ人の少年カール・ロスマンが様々な出来事を経験しながら異国の地アメリカを放浪する物語であり、モンタージュ的な語りやカメラアイ風の視点等、映画的な特徴が指摘されている[95]。『審判』では、理由の分からないまま起訴された主人公ヨーゼフ・Kが裁判の為に奔走し、最後には犬の様に処刑される。この作品はカフカがフェリーツェ・バウアーとの婚約を解消した直後、1914年から1915年にかけて執筆された。最も成立時期の遅い『城』は1922年、カフカが結核の為、療養していた時期に執筆されている。この作品の主人公はKという匿名的な記号で表される測量士であり、彼はとある田舎の城に招かれて村にやってくるが、しかし城の役人に振り回されるばかりで、いつまで経っても城に近づく事が出来ない。これらの長編作品では、いずれも罪と罰、息子の反抗と父の勝利、法に対する違反と追放、死の孤独といった共通するモチーフを持っており、死後カフカの作品を刊行したマックス・ブロートは、その内容からこれを「孤独の三部作」と呼んだが、カフカ自身も、それに近い事を日記や手紙に記していた[96]。
以上の様な作品の主人公達には、しばしばカフカ自身を思わせる名前が付けられており、生前のカフカ自身も自作に対して、その様な分析を行なっていた[97]。例えば「田舎の婚礼準備」の主人公ラバン(Raban)はドイツ語の「カラス(Rabe)」を思わせ、チェコ語でコガラスを意味するカフカ(Kafka)に通じ、また、両者は母音、子音の並びの規則が同じである。この母音と子音の並びは『変身』の主人公グレゴール・ザムザ(Samsa)や「判決」主人公ゲオルク・ベンデマン(Bende-mann)にも共通する。『審判』のヨーゼフ・K、『城』のKは共にカフカ自身の名と共通する頭文字である。
生前に発表されたカフカの作品は、ほとんどが短編作品であり、名前も分からない町が舞台であったり、(しばしば奇妙な)動物が登場する寓話風のものが多い。生前に発表された短編は、その大半が1915年から喀血の前後の1917年にかけて、「錬金術通り」の部屋やシェーンボルン地区の一人部屋で執筆されたものである。カフカは長編を大判の四つ折ノートで執筆する一方で、短編には、より小さい八つ折ノートを宛て、短編の他にも多くの書きさし、断片、アフォリズム等を記していた[98]。
出版歴
カフカはその死の年までに7冊の本を出している。いずれも作品集ないし短編・中編であり、ほとんどがライプツィヒの出版者クルト・ヴォルフによって出版されたものである。ヴォルフは1910年頃、エールンスト・ローヴォルトと共同出資してローヴォルト書店を立ち上げ、新進作家であったマックス・ブロートを通じてカフカを知った[99]。カフカの最初の作品集『観察』はローヴォルト書店から出されているが、その後エールンスト・ローヴォルトが経営から手を引き、クルト・ヴォルフが単独で出版社を引き継いでクルト・ヴォルフ社に名を改めた(ローヴォルトはその後、再び「ローヴォルト書店」を立ち上げており、これが現在ドイツで有数の出版社となっている)。その後『火夫』から『田舎医者』までの5冊が、このクルト・ヴォルフ社から、「最後の審判」叢書の一部として刊行された。部数はいずれも800部-1000部程度だった。『火夫』は、フォンターネ賞の影響もあってか比較的売れ行きがよく、1913年の初版の後、16年に第2刷、19年に第3刷が発刊された[100]。『変身』は15年の末に出版された後、翌年夏にはほとんど売り切れ、17年に増刷される事となり、また、1916年に刊行された『判決』も19年に第2刷が刊行された[101]。しかし、続く『流刑地にて』と『田舎医者』は、かなりの部数が売れ残った[注釈 28]。1920年の『田舎医者』出版の際、カフカとクルト・ヴォルフとの間に考えの行き違いがあり、次の『断食芸人』はベルリンのディ・シュミーデ社に移って刊行された。『断食芸人』の初版は3千部で、やはり大部分が売れ残った[103]。
死の年までに出版された著作は以下のものである[104]。作品集の収録内容は#作品リストを参照。
- 観察 (Betrachtung, 1912年) - 小品18編を収めた作品集。ローヴォルト書店より刊行。99ページ。
- 火夫 (Der Heizer, 1913年) - 短編。クルト・ヴォルフ社より刊行。47ページ。
- 変身 (Die Verwandlung, 1915年) - 中編。クルト・ヴォルフ社より刊行。72ページ。
- 判決 (Das Urteil, 1916年) - 短編。クルト・ヴォルフ社より刊行。28ページ。
- 流刑地にて (In der Strafkolonie, 1919年) - 短編。クルト・ヴォルフ社より刊行。68ページ。
- 田舎医者 (Ein Landarzt, 1920年) - 短編14編を収めた作品集。クルト・ヴォルフ社より刊行。189ページ。
- 断食芸人 (Ein Hungerkünstler, 1924年) - 短編4編を収めた作品集。ディ・シュミーデ社より刊行。85ページ。
カフカはその死に際し、マックス・ブロートに草稿やノート類を全て焼き捨てる様にとの遺言[注釈 29]を残したが、ブロートは自分の信念に従って、これらを順次、世に出していった。まず、死の翌年に『審判』(1925年)、続いて『城』(1926年)、『アメリカ』(1927年)と、未完の長編を編集し、ベルリンのショッケン社から刊行した。これらの作品は残された草稿ではタイトルが付けられておらず、いずれもブロートによってタイトルが補われている(但し『アメリカ』のみは、『失踪者』のタイトルを予定していた事がカフカの日記に記されており、後の手稿版全集では、このタイトルを使用している)。1931年には未完の短編をまとめた『万里の長城』が出版され、1935年からはショッケン社より全集を刊行、全6巻を予定していたが4巻で中断し、残りの2巻は1936年から1937年にかけてプラハの小出版社から刊行された。その後ブロートは全集を2度改訂しており、1946年にアメリカに亡命していたショッケン社から改めて全5巻の全集が刊行(第2版)、1950年から1974年にかけて、恋人に宛てた手紙等を大幅に増補した全11巻の全集(第3版)が刊行された。
カフカの遺稿は長編も含めて断片的なものも多く、これらはブロートが自身の解釈に従って編集・再構成を行なっている。ブロートは当時カフカの遺稿のほとんどを独占し、原本の公開の求めにも応じなかった為、研究者から批判の声が上がっていたが[106]、1962年に草稿の大部分がオックスフォード大学のボードレイアン図書館に移される事になり、同大学のドイツ文学研究者マーコム・パスリーが中心となって手稿研究が行われ、その後20年を経て1982年より手稿版全集(「批判版」とも)が刊行された[107]。1997年から刊行された歴史校訂版全集(「史的批判版」とも)は紙本とCD-ROMから成り、紙本では見開きの一方にカフカ直筆の手稿の写真、もう片方にカフカ自身の訂正や抹消も含めた全ての記述を忠実に活字化したものが掲載されている。
注釈
- ^ 以下「生涯」の節は、池内紀『カフカの生涯』および池内紀・若林恵『カフカ事典』巻末年譜(216頁-223頁)を元に作成し、これ以外に基づく部分のみ脚注で出典を示す形を取った。
- ^ カフカの生家は旧ゲットー地区の周縁部に位置している。カフカ一家はここに2年ほどしか住んでおらず、家業が成功するに従い転居を繰り返した[3]。
- ^ 「フランツ」がドイツ人の名であるのに対して、「カフカ(kafka)」はチェコの姓である。kafkaは、チェコ語でコクマルカラス(コガラス)を意味するkavkaに由来する。ここから、カフカの父ヘルマンの店の商標には、カラスの絵が用いられていた。1788年に、ヨーゼフ2世によってユダヤ人皆姓令が下された際、他の多くのユダヤ人が支配階級の言語に合わせてドイツ名を選ぶ中で、カフカの祖先はチェコ名である「カフカ」を選んだ。この姓を選んだ理由は定かではないが、ヤコブ(jakob)のイディッシュ語の短縮形ヤコブケ(jakovke)から来ている可能性もある[4]。
- ^ ヘルマンは1890年の国勢調査の際に、チェコ語を家庭内で用いる言語と回答している[7]。
- ^ この叔父は、1941年、ナチスにテレージエンシュタットの強制収容所に移送されることを拒み、自殺した[10]。
- ^ カフカの3人の妹はカフカの死後、いずれもナチスに捕らえられて殺害されている[12]。
- ^ カフカはこれより前に、市民のたしなみであったフランス語を家庭教師から習っているが、幼いカフカにはフランス語は身につかなかった。
- ^ しかしカフカは自由選択科目としてチェコ語も選択している[7]。
- ^ カフカの指導教官は、マックス・ヴェーバーの弟アルフレート・ヴェーバーであったが、彼とは儀礼的な関係しか持たなかったらしい[21]。
- ^ カフカの父ヘルマンはカフカとイディッシュ語劇団との交流を快く思っておらず、この事はカフカと父との溝を深める一因となった(#父との軋轢参照)。
- ^ 「アスカニッシャー・ホーフ」の「ホーフ(Hof)」には「ホテル」の他に「法廷」の意味がある。ここで行われたフェリーツェ達との会談では、グレーテがカフカの手紙を「証拠物件」として朗読する等、さながら法廷での審理の様相を呈していた[26]。
- ^ グレーテ・ブロッホはイタリアに亡命した後の1940年、イスラエルの音楽家ウォルフガング・ショッケンに宛てた手紙の中で、1914年にカフカの子供を生んだと記している。それによれば、生まれた息子は1921年に7歳で死んでおり、子供が生まれた事も死んだ事も父親には知らせなかったという。しかし、残された手紙や当時の状況等から見て事実とは考え難い[27]。
- ^ エルンスト・ヴァイスはこの頃カフカと最も親しくしていた人物で、カフカより1歳年長、外科医としての経歴をもつユダヤ人作家であった。彼は上述のアスカニッシャー・ホーフでの会談にも立ち会っている[28]。
- ^ 退職時秘書官主任となっていたカフカの俸給は年俸3万クローネンで、年金は1万2000クローネンであった。更に敗戦によるインフレーションが重なり、カフカの生活は非常に苦しくなった[31]。
- ^ 2人はベルリンで生活を始めた半年後、カール・ブッセ夫人の家の空き部屋に転居している。
- ^ カフカは勤めについてから手製の時間割を作り、かなり長い間これを守り通していた[38]。
- ^ 当時のフィルムは残されていないが、H.ツィシェラー『カフカ、映画に行く』の中で、当時カフカが見ていた映画が跡付けられている。
- ^ カフカの住居の変遷についてはヴァーゲンバッハ[2003]が詳しい。
- ^ カフカの就職の際の健康診断書によれば、身長182センチ、体重61キロだった[55]。
- ^ ハプスブルクの行政下では「都市ユダヤ人」「土地所有ユダヤ人」「村落ユダヤ人」という区分が成されていた。カフカと貧しい家庭のユーリエとの婚約は、父ヘルマンにとっては身分の下落以外の何ものでもなかった[57]。
- ^ カフカは、ここで幼少期の記憶の一つを綴っている。カフカは、ごく幼い頃、夜中に水が欲しいと駄々をこねて両親を困らせてしまい、怒った父に中庭に面したバルコニー(パヴラッチュ)に下着姿のまま締め出され、しばらく放って置かれた。この記憶は、その後数年間カフカを苦しめたという。この体験は「パヴラッチュ体験」と呼ばれ、研究者によって無数の論文が書かれている[58]。
- ^ カフカは13歳の時、ユダヤ教の習慣に従って「パル・ミツヴァ」と呼ばれる成人の儀式を行っているが、祖父の代にあった様な宗教性は既に失われていた[67]。前述の「父への手紙」には、父に対してユダヤ教についての知識の浅さを詰る箇所がある。
- ^ 生前のカフカの著書は表現主義の牙城であったクルト・ヴォルフ社から出版されていた為、初期受容期にはカフカも、しばしば表現主義の作家とみなされていた[75]。
- ^ カフカはフェリーツェ・バウアーとの婚約に悩んでいた頃、日記に「フローベールとグリルパルツァーを思い出す事」と記している。どちらも膨大な日記類を残し、また、その中で結婚と独身のそれぞれの利点について思案した作家であった[77]
- ^ クラウス・ヴァーゲンバッハらは、プラハのドイツ語は貧弱で生気のない、文章語的な言語であり、カフカは逆にそれを利用して独自の文体を作り上げたのだとしているが[81]、この見解はプラハの言語学者達によって実態に合わないとして批判されている[82]。リッチー・ロバートソンは、「プラハ・ドイツ語」とは100年前にドイツのナショナリストによって空想された方言であり、現実には存在しないとしている[83]。
- ^ カフカの草稿には「プラギスムス」と呼ばれる、チェコ語の用法から影響を受けたドイツ語が幾等かあり、例えば「ニ、三の」を意味するein paarを冠詞を付けずにpaarと記している箇所等がある。カフカは自作を出版する為に原稿を見直した時には、これらの用法はすべて正書法に直していた[85]。
- ^ 尚、クラウス・ヴァーゲンバッハは、これらのモチーフについて、カフカが大学時代に学んだ事のあるフランツ・ブレンターノの哲学からの影響を指摘しているが、エルンスト・パーヴェルは情報源の信頼性等の点から疑問視している[92]。また、これらのモチーフについては、カフカが大学時代に一時期熱心に学んだハンス・グロスの犯罪学からの影響を指摘する研究者もいる[93]。
- ^ 共に1000部印刷されたが、19年出版の『流刑地にて』は翌年6月までに607部売れたものの、『田舎医者』はかなり売れ残り、ショッケン社が残部を引き受け、1934年まで販売され続けた[102]。
- ^ カフカは生前、ブロートへの遺言を2度行なっている。1921年の最初の遺言ではブロートを遺稿管理人に定め、自分の原稿全てを焼却する様、指示していた。翌年の2度目の遺言では若干自己批判のトーンを和らげ、「判決」「火夫」『変身』「流刑地にて」「田舎医者」「断食芸人」のみを自身の作品として認め、それ以外のものは全て焼却する様にと頼んでいる[105]。
- ^ リルケは特に「火夫」を高く評価しており、『変身』も「流刑地にて」もまだ「火夫」の域に達していないと評していた。カフカは1916年12月7日にフェリーツェに宛てた手紙の中で、この事を記している[114]。
- ^ 以下この「死後の名声」の節は、特に注記のない限り城山三郎「カフカ論の系譜」(『カフカ』所収、107頁-203頁)および若林恵「カフカへの解釈」(『カフカ事典』、206頁-215頁)をもとに執筆している。
- ^ また、ある日目覚めると女性の巨大な乳房になっていた男を描くロスの小説『乳房になった男』(1972年)では、ゴーゴリの『鼻』などともにカフカの『変身』が言及されている。
- ^ ヴァイスの自伝的小説『消点』(1961年)では、20代の語り手がカフカの『審判』を読んで衝撃を受け「わたしがこれまでに読んだものはすべて、背景にしりぞいてしまった」と述べる場面がある[125]。のちの『抵抗の美学』(1975年-1981年)にも、登場人物である3人の労働者が『審判』を読んで、プロレタリアートである自分たちの状況を重ね合わせる場面が描かれている[126]。またヴァイスは1974年に『審判』の舞台用の翻案も行った。
- ^ アラスター・グレイは、その自伝的なリアリズムと超自然的な要素とを組み合わせた作風をカフカから得ている[127]。
- ^ クンデラはカフカの業績を重要視しており、『小説の精神』『裏切られた遺言』などの評論やエッセイで幾度もカフカに言及している。『小説の精神』収録のインタビューではカフカがプルースト、ジョイスとともに「三位一体」と見なされていることに対し、「私個人の小説史では、カフカこそが新しい方向を、プルースト後の方向を開いたのです」と述べている[128]。
- ^ フラバルの代表作『あまりにも騒がしい孤独』にはカフカ作品からの影響や共通点が指摘されている。この作品を補足するものとして作られたフラバルの「アダージョ・ラメントーソ」という詩はカフカの思い出に捧げられており、またフラバルには「カフカールナ(「カフカ的状況」を表すチェコ語)」と題する短編作品もある[129]。
- ^ 安部公房の1986年のインタビューにおいて「僕のなかでカフカの占める比重は、年々大きくなっていきます」「カフカはつねに僕をつまづきから救ってくれる水先案内人です」と語っている。もっとも安部がカフカを知ったのは作家になってからしばらく後のことで、その影響も直接的ではなく、初期の幻想的な作品はカフカよりもむしろポーやキャロルからの影響があるという[130]。
- ^ 小島はインタビューにおいて、自分は他者の作品から「小説的な気分」を受けて作品を執筆することがあり、世界文学ではその相手は決まってカフカとベケットだと語っている[131]。
- ^ 倉橋の特に初期の作品はカミュやサルトルと並んでカフカからの影響が見られる。初期の短編「婚約」末尾にはこの作品がカフカへのオマージュである旨が記されている[132]。
- ^ カフカはクッツェーが愛読する作家の一人であり、裁き・審判をテーマとする『恥辱』はカフカの『審判』とのつながりを感じさせる[133]。
- ^ ランドルフィの奇想にはしばしばリラダンやポー、ゴーゴリなどとともにカフカからの影響が指摘されている[134]。
- ^ アッペルフェルドはヘブライ大学在学中、マックス・ブロートやマルティン・ブーバー、ゲルショム・ショーレムなどからの教えを受けている。彼らの多くは生前のカフカと面識があり、アッペルフェルドはナチスからの迫害によって体感した「不合理な世界」をカフカの作品に見出し強い影響を受けた[135]。
- ^ カヴァンは30代後半になってからカフカを読み、その作品からアレゴリー的手法を学んだ。「ヘレン・ファガーソン」からをKを頭文字に持つ「アンナ・カヴァン」への改名は、『審判』の主人公ヨーゼフ・Kを意識したものである[136]。
- ^ オースターはインタビューで、興味のある現代作家の名を聞かれた際「散文作家では、無論カフカとベケットだ。二人とも私に対してものすごい呪縛力を持っていた」と述べている[137]。
- ^ ゼーバルトの短編「ドクターKのリーヴァ湯治旅」は、カフカの出張旅行を再現した作品であり、カフカの「狩人グラフス」『失踪者』などからの引用が縦横に行われている。
- ^ 村上は少年時代に『城』を読んで衝撃を受けて以来、カフカの作品を繰り返し読んでおり、ドストエフスキーと並んで影響を受けた作家であると述べている。2002年の『海辺のカフカ』もカフカへのオマージュとして書いたものだという[138]。
- ^ 残雪はカフカの作品に対する評論を継続的に執筆し、1999年にカフカ論集『カフカ 魂の城』を刊行している。日本語版の巻頭に収められているエッセイでは、30歳ごろにカフカの作品を読み始めたときのことを書き、「もしかしたら、その何の気なしの行動が文学全体に対する私の見方を変え、その後の長い文学探索の中で、文学への新たな信念を獲得させてくれたのかもしれない」と述べている[139]。
- ^ リンチは自作とカフカとの関係をインタビューで問われた際に愛読していることを語り、「兄弟になれそうな気がするアーティストの一人」だと述べている。リンチはカフカの『変身』の映画化も企画したことがあり、脚本までできているものの膨大な制作費用がかかり、元が取れそうにないため実現には至っていないという[140]。
- ^ トリアーはカフカの『失踪者(アメリカ)』を愛読しており、『ドッグヴィル』の舞台をアメリカに設定したのも『失踪者』を踏まえてのことだとしている[141]。
- ^ スピーゲルマンは若い頃からカフカを愛読しており、それが自分にとって重要なことだったと語っている[142]。
- ^ 作風にカフカからの影響が指摘されており、また『この世の終りへの旅』には『審判』や「掟の門前」を思わせる場面が登場する[143]。
- ^ ズビネック・セカール(Zbynek Sekal)は、チェコの彫刻家。門をモチーフにした一連の作品など、カフカから着想を得た作品群がある。また『変身』を初めてチェコ語に訳した。
- ^ レベッカ・ホルンは、ドイツの現代アーティスト。ハンブルクの絵画学校時代からカフカやジャン・ジュネの文学に関心を抱いており、1994年発表のオブジェ『カフカ連作』など、カフカが作品の主題としてたびたび現れている。
- ^ 玉野大介は、東京都出身の現代アーティスト。カフカを題材にした作品群を継続的に発表しており、2009年に「奇跡のカフカ」と題した個展を開催した。ブログでもカフカの肖像連作を掲載している。
- ^ 歌詞の引用の例としてはスマッシング・パンプキンズのアルバム『ZEITGEIST(ツァイトガイスト)』中の曲"Doomsday Clock"など。またスコットランドのポスト・パンクバンド ヨーゼフ・K(en:Josef K)はカフカの『審判』の主人公から名を取っている。
- ^ 以下この節は、特に注記のない限り城山三郎「カフカ論の系譜」(『カフカ』所収、107頁-203頁)および若林恵「カフカへの解釈」(『カフカ事典』、206頁-215頁)をもとに執筆している。解釈群の分類も概ね城山文献によった。
- ^ ただしルカーチはハンガリー事件での政治的経験を経てのちに見方を変え、カフカを極めて重要な作家であると見なすようになった[145]。
- ^ 日本で最初にカフカの作品を翻訳したのは、羽白幸雄である[149]。羽白は1933年(昭和8年)5月、短編集『田舎医者』から、「兄弟殺し」と「隣り村」をカスターニェンの第2号(京大独乙文学研究会)に掲載した。また、同年9月に、同人誌「日輪」創刊号に、短編「橋」、「小さな寓話」、「プロメートイス」、「夫婦」を掲載した。しかしこれらはいずれも研究会の会報、同人誌であったため、市民に広く紹介されることはなかった[149]。
出典
- ^ 若林「カフカ・キーワード 夢の形式」『カフカ事典』、201頁-202頁
- ^ 城山、1頁
- ^ ヴァーゲンバッハ[2003]、25頁、35頁。
- ^ パーヴェル、6頁、池内『カフカの生涯』、30頁-31頁
- ^ 若林「カフカ・キーワード 父親ヘルマン」 『カフカ事典』、192頁、パーヴェル、6頁など。
- ^ 若林「カフカ・キーワード 父親ヘルマン」 『カフカ事典』、192頁-193頁
- ^ a b Franz Kafka. Eine Chronik, S.14.
- ^ パーヴェル、9頁
- ^ ヴァーゲンバッハ[1967]、14頁
- ^ パーヴェル、121頁
- ^ 池内「カフカ文学をめぐる十二章 家族」 『カフカ事典』、74頁-75頁、ヴァーゲンバッハ[1967]、14頁-15頁
- ^ 池内「カフカ文学をめぐる十二章 女性」 『カフカ事典』、71頁、ヴァーゲンバッハ[1969]、31頁、脚注部)。
- ^ 城山、13頁-14頁
- ^ パーヴェル、73頁、城山、14頁
- ^ フーゴ・ベルクマン 「学校時代、大学時代」 『回想の中のカフカ』所収、29頁
- ^ 城山、14頁
- ^ パーヴェル、115頁-116頁、城山、16頁
- ^ Franz Kafka. Eine Chronik, S.32.
- ^ 城山、17頁
- ^ パーヴェル、124頁、127頁
- ^ パーヴェル、172頁。
- ^ ピーター・ドラッカー (2007). Managing in the Next Society. オックスフォード. p. 24. ISBN 978-0-7506-8505-4
- ^ Stanley Corngold (2009). Franz Kafka: The Office Writings. Princeton, New Jersey. Princeton University Press. pp. 250–254. ISBN 978-0-691-12680-7
- ^ パーヴェル、207頁、池内「カフカ文学をめぐる十二章 機械」 『カフカ事典』、30頁-33頁
- ^ 若林「カフカ・キーワード フェリーツェ・バウアー」 『カフカ事典』、196頁-197頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、254頁-255頁、パーヴェル、317頁-318頁。
- ^ パーヴェル、310頁-311頁、池内『カフカの生涯』、246頁-247頁。
- ^ パーヴェル、304頁-305頁、317頁。
- ^ パーヴェル、318頁
- ^ パーヴェル、371頁
- ^ パーヴェル、422頁。
- ^ 池内「フランツ・カフカ」 『カフカ事典』、8頁
- ^ パーヴェル、194頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、148頁
- ^ 若林「年譜」 『カフカ事典』、220頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、339頁
- ^ ドーラ・ディアマント 「フランツ・カフカとの生活」 『回想の中のカフカ』所収、290頁-293頁。また、このエピソードは、『消えてしまったお人形』(ジーン・リチャードソン、1995年)として絵本化されている。
- ^ 池内『カフカの生涯』、213頁。
- ^ 池内「カフカ文学をめぐる十二章 健康法」 『カフカ事典』、42頁、池内『カフカの生涯』、215頁
- ^ 池内「カフカ文学をめぐる十二章 散歩」 『カフカ事典』、85頁-87頁
- ^ ヴァーゲンバッハ[2003]、61頁-63頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、93頁
- ^ 若林「年譜」 『カフカ事典』、219頁-220頁、池内『カフカの生涯』、262頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、346頁-347頁
- ^ アンダーソン、197頁-205頁、池内「カフカ文学をめぐる十二章 映画」 『カフカ事典』、62頁-65頁
- ^ 池内「カフカ文学をめぐる十二章 健康法」 『カフカ事典』、42頁-45頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、274頁-276頁
- ^ 池内「カフカ文学をめぐる十二章 健康法」 『カフカ事典』、44頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、141頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、142頁-144頁
- ^ ヴァーゲンバッハ[2003]、88頁-90頁等に所収
- ^ 若林 「カフカ・キーワード 労働者傷害保険協会」 『カフカ事典』、202頁-204頁
- ^ 城山、10頁-11頁、若林 「カフカ・キーワード 父親ヘルマン」 『カフカ事典』、193頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、182頁-187頁、214頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、126頁-127頁。
- ^ 若林 「カフカ・キーワード 父親ヘルマン」 『カフカ事典』、192頁-193頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、11頁、295頁-296頁。
- ^ 池内『カフカの生涯』、305頁。
- ^ 池内『カフカの生涯』、301頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、111頁-112頁
- ^ パーヴェル、172頁、池内「カフカをめぐる十二章 女性」 『カフカ事典』、42頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、129頁-130頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、227頁-228頁
- ^ 池内「カフカをめぐる十二章 手紙」 『カフカ事典』、95頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、28頁、パーヴェル、32頁
- ^ パーヴェル、32頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、71頁-72頁。
- ^ 若林「カフカ・キーワード プラハ」 『カフカ事典』、197頁-199頁、パーヴェル、248頁、296頁
- ^ パーヴェル、297頁
- ^ 1912年2月25日付け日記
- ^ 池内『カフカの生涯』、180頁、パーヴェル、252頁
- ^ Franz Kafka. Eine Chronik, S.62.
- ^ 池内『カフカの生涯』、348頁-354頁
- ^ パーヴェル、165頁
- ^ 城山、265頁-267頁。
- ^ ロバートソン、26頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、225頁。
- ^ ロバートソン、25頁
- ^ パーヴェル、201頁-203頁
- ^ ミハル・マレシュ「カフカとアナキストたち」 『回想の中のカフカ』所収、135頁-136頁
- ^ ヴァーゲンバッハ[1969]、77頁-89頁等。
- ^ 城山、41頁。
- ^ ロバートソン、28頁。
- ^ 若林「カフカ・キーワード プラハ・ドイツ語」 『カフカ事典』、199頁、城山、41頁、45頁
- ^ ブロート、276頁-277頁。
- ^ ロバートソン、28頁、若林「カフカ・キーワード プラハ・ドイツ語」 『カフカ事典』、199頁
- ^ ヴァーゲンバッハ[1969]、115頁-116頁
- ^ 平野嘉彦編訳 『カフカ・セレクションI』 ちくま文庫、2008年、341頁、訳者あとがき
- ^ アンダーソン、52頁-53頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、199頁
- ^ ヴァーゲンバッハ[1967]、54頁。
- ^ パーヴェル、151頁-152頁。
- ^ パーヴェル、125頁-126頁、池内『カフカの生涯』、113頁-114頁。
- ^ 城山、65頁
- ^ アンダーソン、197頁-205頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、187頁
- ^ ブロート、145頁-146頁
- ^ 池内『カフカの書き方』、111頁-112頁
- ^ 池内「カフカ文学をめぐる十二章 本づくり」 『カフカ事典』、52頁-53頁
- ^ Franz Kafka: Drucke zu Lebzeiten. Apparatband, S.123-128
- ^ Franz Kafka: Drucke zu Lebzeiten. Apparatband, S.93-94, S.189-190.
- ^ Franz Kafka: Drucke zu Lebzeiten. Apparatband, S.300.
- ^ 池内「カフカ文学をめぐる十二章 本づくり」 『カフカ事典』、52頁-55頁、池内『カフカの生涯』、189頁
- ^ 池内「カフカ文学をめぐる十二章 本づくり」 『カフカ事典』、54頁-55頁による。
- ^ パーヴェル、421頁。
- ^ 城山、175頁-176頁
- ^ 池内「カフカの甦り」 『カフカ事典』、4頁-5頁
- ^ 以下の作品リストは若林「カフカの作品I・II・III」 『カフカ事典』、102頁-187頁を元に作成した。
- ^ a b c d e これらの作品タイトルは池内紀『カフカ小説全集』に基づくもの。
- ^ ロバートソン、30頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、166頁、パーヴェル、166頁-167頁
- ^ パーヴェル、302頁-303頁
- ^ パーヴェル、343頁
- ^ 『決定版 カフカ全集』11巻、696頁。
- ^ パーヴェル、352頁-353頁
- ^ 若林「カフカへの解釈 ライナー・マリア・リルケ」 『カフカ事典』、214頁
- ^ 池内『カフカの生涯』、321頁-322頁
- ^ パーヴェル、442頁
- ^ 城山、151頁-152頁
- ^ 城山、152頁。
- ^ 若林「カフカへの解釈 アラン・ロブ=グリエ」 『カフカ事典』、215頁
- ^ Bell-Villada, Gene H., García Márquez: The Man and His Work, North Carolina: University of North Carolina Press, 1990, p.71
- ^ R・クレマーデス、A・エステバーン著、木村榮一訳 「ガブリエル・ガルシア=マルケス―いいアイディアの詰まった戸棚」 『新潮』 2007年10月号、新潮社、228頁
- ^ 若林「カフカへの解釈 マルティン・ヴァルザー」 『カフカ事典』、208頁)。
- ^ 渡辺健、藤本淳雄訳「消点」『ドイツの文学 第11巻 ペーターヴァイス』所収、三修社、1966年、116頁
- ^ 若林「カフカへの解釈 ペーター・ヴァイス」 『カフカ事典』、207頁
- ^ guardian.co.ukにおける アラスター・グレイのバイオグラフィー、2009年4月16日閲覧。
- ^ ミラン・クンデラ 『小説の精神』 金井裕、浅野敏夫訳、法政大学出版局、1990年、30頁。
- ^ 『あまりにも騒がしい孤独』 石川達夫訳、松籟社、140頁-141頁、訳者解説
- ^ 安部公房「子午線の上の綱渡り」『死に急ぐ鯨たち』所収、新潮社、1986年、110頁
- ^ 小島信夫 『小説の楽しみ』 水声社、2007年、63頁。
- ^ 川島みどり、田中絵美利「倉橋由美子全著作解題」『倉橋由美子 (KAWADE道の手帖)』、河出書房新社、2008年、172頁-184頁
- ^ J.M.クッツェー 『恥辱』 鴻巣友季子訳、早川書房、2000年、289頁、訳者解説
- ^ トンマーゾ・ランドルフィ 『カフカの父親』 米川良夫訳、国書刊行会、1996年、252頁、訳者解説
- ^ アハロン・アッペルフェルド 『不死身のバートフス』 武田直子訳、みすず書房、1996年、170頁-171頁、訳者解説
- ^ ブライアン・オールディス 「1970年版のイントロダクション」 アンナ・カヴァン 『氷』 巻末所収、山田和子訳、バジリコ、2008年、235頁、238頁-239頁
- ^ ポール・オースター 『空腹の技法』 畔柳和代訳、新潮社、1987年、278頁
- ^ 「カフカへの思い丁寧に 村上春樹さん「人生初」記者会見」 朝日新聞社、2006年11月1日(2009年4月16日閲覧)
- ^ 残雪 『魂の城 カフカ解読』 近藤直子訳、平凡社、2005年、7頁
- ^ デヴィッド・リンチ 『デヴィッド・リンチ 映画作家が自身を語る』 廣木明子、菊池淳子訳、フィルムアート社、1999年、94頁、323頁
- ^ Yahoo!映画における ラース・ファン・トリアーのインタビュー、2009年4月16日閲覧
- ^ INDIEBOUNDにおける アート・スピーゲルマンのインタビュー、2009年4月16日閲覧
- ^ 中条昌平 「『この世の終りへの旅』に終りはあるのか?」 西岡兄妹 『この世の終りへの旅』 巻末所収、青林工藝舎、2003年、204頁-205頁
- ^ 「「八木一夫と清水九兵衞 陶芸と彫刻のあいだで」展に見る現代陶芸のルーツ|MAGAZINE」『美術手帖』。2018年7月27日閲覧。
- ^ 池内・若林、214頁
- ^ 城山、176頁
- ^ 城山、176頁-177頁
- ^ a b 有村隆広「日本における初期のカフカの影響 第二次世界大戦前後」『Comparatio』第18巻、九州大学大学院比較社会文化学府比較文化研究会、2014年12月28日、18-36頁、doi:10.15017/1518295。p19
- ^ a b 有村隆広『日本における初期のカフカの影響 第二次世界大戦前後』、23頁。
- ^ 山下肇 『カフカ全集』 新潮社、1953年-1976年、月報(執筆者未見。頭木弘樹 「カフカ生原稿からのはじめての翻訳+評論」による。2009年4月28日閲覧)
- ^ 有村隆広『日本における初期のカフカの影響 第二次世界大戦前後』、27頁。
- ^ 高橋義孝 訳『変身』新潮社、昭和27-07-28。ISBN 4-10-207101-6。
- ^ 若林「カフカ・キーワード マックス・ブロート」 『カフカ事典』、199頁-200頁
固有名詞の分類
- フランツ・カフカのページへのリンク